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アーレント『活動的生』研究ノート(3/6)

私有財産の擁護と「反民主主義」

アーレントは「9 社会的なものと私的なもの」で私有財産(≠富, GDP的なもの)の重要性を強調している。

公共性、公的領域での〈行為〉について、アーレントは、同時にそれが確固たる私的領域によって守られていなければならない、ということも示唆していますが、

つまり、私的領域にいつでも匿われるというのが公共的な〈行為〉が成立するための条件であると。

しかし、そうなってくると、結局、私有財産が豊かにある市民だけが、公共的生活に十分な権利をもって参加できるということになる。

これは財産政治ですし、金権主義ですし、結局、麻生太郎やドナルド・トランプみたいな大金持ちじゃないと〈行為〉はできないってことになるのではないか? アーレントの記述はそんな状況を示唆する。


私的領域の「暗闇を保証する唯一有効な仕方が、私有財産なのである」(p.86)。いかに資産が大事かということを彼女は強調する。

アーレントは、ロック=マルクス的な「自分の身体資源こそが固有の財産だ」という思想を非難して、それでは公的生活が毀損されると主張するわけですが、

でもこれは、同時に民主的な思想でもある。私有財産がなくても、各人一人一人に無限の可能性が詰まっているんだと。今まで主体あるいは人間とみなされていなかった無産階級において「人間」の可能性が開かれる革命的試みだった。しかし、アーレントはそれではまずいという。みんなを同じ条件で均してしまったら、〈行為〉は不可能になると。

しかしその考えは、暗に「人間としての人間は数的に制限されている方がいい」という古代的知見に同意署名することでもある。アーレントはその点で、反民主主義思想家として分類することもあるいは可能なのかもしれない。案外、レオ・シュトラウスあたりとも通ずるところがあるのだろうか?(まあ彼はアーレントを批判してた気もしますが)


「私有財産」ということで何が含意されているか?

アーレントは、88ページで女性や奴隷の家内労働に言及する。特に、女性の「労働」には、類の存続のための「生殖行為」が含まれる。

自分の身体(の労働力)を売るしかない、それを売って労働する人間は、古代においては私的領域に限定され、公的には明るみに出されなかった。それが、近代になると、男も女もみんな社会に出て、自分の労働力を売るようになった。

ある意味、近代において奴隷制度が各所から叱られるようになったのは、みんなが自分の労働力を売るほかない「奴隷」に転落したからかもしれないですね。みんな(資本主義市場の)奴隷なので、奴隷を奴隷として区別する理由がなくなる。奴隷、あるいは乞食と言ってもいいでしょう。

だから、アーレントは、もしかすると私有財産の中に奴隷、女性、子どもを算入してるのかもしれないですね。

土地とか畑だけじゃなく、端的に奴隷などの労働力も財産の中に入れていると。そう考えるとちょっと見通しが良くなってもきます。

でも、繰り返しにはなりますが、そのとき私有財産を保有しているとされる市民って、やっぱり男性市民だけになるんですよね。


このあたりを踏まえると、どうやらアーレントは、人類の歴史を、自由と権利を獲得する歴史とみるのではなく、まさにその流れを通じて、貴族の私有財産(女、子供、奴隷)が解体されていく歴史である。そう言いたいようにも見えてきます。

近代において、労働者と女性が、歴史上ほぼ同じ瞬間に平等解放されたことは、彼らに対する偏見が以前よりなくなったおかげであるばかりではない。近代社会が、生活の必要と結びついた活動や機能を、何千年も昔からの隠し処から、公共性の光へ曝け出したということとも、このうえなく密接に関連しているのである。

『活動的生』p.88

一行目おわりの「平等解放された」っていうのは、労働者と女性が、各々一個の人格として市民の権利を獲得し、社会(≠家内)の労働力として求められるようになっていったということでしょう。

で、89ページで訳者(森一郎氏)が付け加えているように、現代社会では、あらゆるものが社会の明るみに晒されていった結果、私的領域に秘匿されるものといえばもはや便所と寝室(生殖)のみになったと。

便所と寝室。確かに。しかし、よくよく考えてみると、これは当たり前の話なんじゃないかとも思う。


アーレントは古代ギリシャを歴史参照の始点におきますが、もっと人類史全体に視野を広げると、直近では、約1万年前に農耕を始めるまで、人類の大半は狩猟採集をして生きてきたわけですよ。

人類史700万年の歩みからすると、1万年ですら、全体の1%にも満たないくらいである(人類史の99%は狩猟採集民の歴史)。

そして狩猟採集といえば、現在でもアフリカや南米を中心に「現役で」採用されている生存様式なわけであって、

そこでは、狩猟採集という経済活動および労働は、仲間と協力して営まれているわけですよね。決して家族の中だけで私的に完結する事柄ではない

逆に、生殖活動というかセックスに関しては、狩猟採集民も、家族ごとのテントの中でやったり、茂みに隠れて見えないようにやったりしているわけです。

ふまえると、訳者の森一郎氏が書き添えているように、「便所と寝室」に関しては、ある程度人類に普遍的な秘匿性の空間だとして表象することは可能だと思うんですが、〈労働〉、オイコノミア的なものに関しては、必ずしもそうじゃないんじゃないかと。古代ギリシャや中世あたりまではそういう社会的現実があったかもしれませんが、それが本来の、普遍的なかたちであるとみなすことまではできないんじゃないかと。

したがって、アーレントがいうように、近代がことさら異常な時代だ、逸脱的な時代だということにはならないような気もするんですよね。それどころか、人類が人類として最も馴染んでいる経済活動の様態を、近代になってようやく人類は(高次元で)取り戻したんだと解釈してもいい。近代=狩猟採集性の再興


世界史的補助線

さて、これまでアーレントの歴史観を批判的に検討してきたわけですが、とくに近代とそれ以前を議論する上では、さらにいくつか有効と思われる歴史の「補助線」を挙げておくことができるでしょう。

すぐ思いつくところだけでも、産業革命、交通革命、農業革命あたりは、世界史の転機としてかなり重要だと思うんですが、これら(どれも18〜20世紀にかけて生じている)の重要性について、アーレントはどうも十分に拾いきれていないような印象がある。逆にいえば、これらの契機を過小評価したまま、安易に近現代とそれ以前を比較することはナンセンスであると。

たとえば「交通革命」なんか、案外見落とされがちですけど、このおかげで、通勤という生活様式が可能になったわけですよ。

それまでは、資本が労働者を使いたくても、一箇所に労働力を集められなかったわけです。通うのに何時間、いや何十時間もかかるなら、家やその近所で仕事してくれた方が合理的なわけですが、交通網の発達で、遠方から労働者を一箇所に集めることが容易になった。

これは、それまで家という私的領域に秘匿されていた〈労働〉が、近代になって社会の明るみに引き摺り出されるようになったとするアーレントの見立てとも連動していますね。

ある意味、近代における女性や奴隷の解放に、人権意識の向上を読み取るだけでは不十分なのかもです。むしろそれは後付けの説明かもしれない。単純に、資本が、それまで家庭に秘匿されていた労働力を遠方からでも「召喚」できるようになった、また、その社会的現実を人権思想によって後から正当化した、という共犯的な側面もあるのかもしれない。産業革命や交通革命が生じたからこそ、「人間は自由である」という命題を負担なく共有し合えるようになった。逆にいえば、技術的に自由な移動が難しかった時代(近代以前)においては、「人間は不自由で、いわば『置かれた場所で咲く』しかない存在である」という命題を信じた方が居心地がよかったのかもしれない。

いずれにせよ、それで21世紀の現在、労働者と消費者の頭数は飛躍的に増えたわけです。人口が増えるだけじゃなく、労働者(=消費者)としても見込める人口、つまり実質的には都市人口が増えないと資本主義は増大しない。左派グローバリストがアジアやイスラム圏の「封建的」な家族構造を非難し、女性や子供の権利を訴えて内政干渉まがいの「説教」に東奔西走するのは、そうやって労働力を社会(労働市場)に引き摺り出したいという(無意識の)思惑と連動してるのかもです。


活動の場所指定

第二章も終わりにさしかかってくる。〈労働〉、〈制作〉、〈行為〉について、それぞれに相応しい(値する)場所があるんだという話。

人間の活動はあたかも宙に浮いているのではなく、それにふさわしい場所を世界のうちにもつ

『活動的生』p.89

活動の場所指定(局所化)。英語でいうと、localization of activities みたいな感じでしょうか。

アーレントは「善の意思」とか「知への愛」(philosophy)がある種の非-場所であることを示唆しながら、それに対して、人間の活動的生活には、身体性、空間性、持続性があるよね、ということを言おうとしている。

まあ、観想的生活は露を掴むような捉え所のなさ、つまり場所性の欠如が認められるのに対して、活動的生活はそうじゃないよね、と。後者には当然、労働、制作、行為が含まれる。

善の意思とか知への愛っていうのは、ある意味、「青臭い実存主義的なもの」と解釈することもできて、まあ、要するに持続性がないわけですよ。それどころか、それが一瞬の煌めきであり、追憶の彼方に収まるということによってこそ、実存の価値は高まる。青春は一瞬であると。

善意による活動の破滅的性質についても語られる。

善意が、隠された状態に嫌気がさして、公的役割を演じるという思い上がった挙に出るなら、それはもはや本来の善ではないのみならず、いちじるしく腐敗しているのであり…

『活動的生』p.95

アーレントの優れた洞察が表れてますね。彼女がもし生き返ってパリ五輪(執筆時点)の開会式とかを見たら、そこにやはり善の腐敗をみるんじゃないでしょうか。善=誰も面と向かっては反対しづらいお題目=不敗(腐敗)の構造。

不敗の善なる「思い」をストレートに公の場で表現して、「社会はこの正しさを認めなければならない」と規範を設定する身ぶり。現代の政治空間はそんな「カルト現象」で溢れていますが、アーレントのいう「善の腐敗」とは、まさにそのような現象にも適用できる視点ではないか。


さて、このように、アーレントは「活動の場所指定」という枠組みを提示しているわけですが、

あえてこの試みをハイデガー的文脈に引き寄せて解釈するなら、ハイデガーが存在を時間性から解釈しようとしたのを受けて、アーレントはそれをいわば空間性から解釈していこうとした、と多少雑にまとめることもできるのかもしれません。

第二章までの記述だけでも、すでに、〈労働〉が家という場で生起するのか、それとも広く社会で雇い雇われという仕方で生起するのか、というところでアーレントはその違いを見極めようとしていますし、何より、公的領域と私的領域という言葉遣いからして、「空間への問いかけ」が気分として漏れ出ているわけです。

空間性という点でいえば、日本だと和辻哲郎が、名著『風土』を、ハイデガーの『存在と時間』を意識しつつ、1935年に出版してもいますね。


〈世界〉について考える

さて、第三章では〈労働〉について深く掘り下げられていきます。以後、順番に第四章では〈制作〉が、第五章では〈行為〉が、それぞれ掘り下げられていくようです。

労働ということで、やはりマルクスの解釈、およびそれを通じてのマルクスとの「対決」が展開される。マルクスの「労働」という概念によって生産性の考え方が変わった、制作と労働の差異が曖昧になった、など、興味深い議論がものされていますが(一連のマルクス「誤読」については、たとえば百木漠氏の『アーレントのマルクス』を参照されたし)、読みながら引っかかったのは、アーレントが語る「世界」という概念。

アーレントは、今章だけでなく、これまでもたびたび「世界」という概念を重視してきたわけですが、

それも「持続性」という観点からこれを重視するわけですが、

どうも、アーレントの考える「世界」というのは、世界がそれによって形成される「モノ」の静的な客観的イメージにとらわれているきらいがある。

様々な情報ないしノイズを捨象した、オーセンティックなモノたちから形成される世界、これにこだわっている感じがあって、

そういうモノが作られては壊され、受け取られたと思ったら曲解され、モノとして結晶させたい〈行為〉があと一息のところで消失したり・・という現実のダイナミズムの方が、僕には実在的に見えるんですよね。

まあ、ヘラクレイトス的な「万物は流転する」的世界観を僕はもっているのかもしれませんが、それこそ名もなき庶民、無辜の民じゃないですけど、世界って目に見えて形のあるものだけで構成されてるわけじゃないですからね。

特に現代なんて、(まだまだ)大量生産・大量消費な時代なわけで、

単に世界を形成する「モノ」を制作するだけじゃなく、それらが捨てられ、中古で売られ、あるいは譲渡される、多様なモノの流れというのも、やはり考えないといけないんじゃないか。

アーレントは欧米の「冷涼で乾いた気候」(和辻哲郎)で、しかも日本のような台風や地震のない土地でものを考えたので、わりと「晴天的」な気分で、世界を形成するモノたちの静的な風景を楽観視できたのかもですが、

たとえば日本のように高温多湿な地域だと、モノはすぐに発酵したり酸化して錆びたり要するに「生成変化」が激しいですし、モノは持続するなんていわれても、津波や台風に流されたらまた一からやり直しなわけですよ。

そういう、「そもそも自分が拠って立っている地盤そのものがぐらつく可能性に晒されてる感」を風土的に内面化してる「東洋的」人間としては、世界をモノの持続性によって表象するのではなく、スクラップ・アンド・ビルドではないですが、破壊と再生および一連のメンテナンスの繰り返しそれ自体が、世界を形成する、とまあ、こんなふうに言ってみたくもなるわけです。

気候的に労働は不可避なので、あとはこの労働をいかに芸術化するか、聖化してしまうか、あるいは、それをいかに遊戯、ダンスに変えていくか。その手際の洗練を日本人なんかは競ってきたのかなと。

なんかの本で読みましたが、あるイギリス人が、日本の農業を評して、「これは agriculture じゃなくて gardening だね」と言ったという話があったのを思い出します。イギリス人が趣味で選んでやるようなことを、日本人は(農耕民族として)国民的スケールでごく当たり前のこととしてやっている。ある意味、「ヨーロッパの街が汚い」のは、逆説的ですが、放っておいても汚くならないからかもしれないですね。ちょっとやそっとではそんなに汚れがたまらない。だから後回しにする。掃除が習慣化しない。気づいたら、塵も積もって汚くなっている。

すぐ汚れる気候帯だからこそ「キレイ好きの国民」が形成されたのかもしれないですし、また、すぐ手をつければ綺麗になってそれなりの達成感と爽快感が得られる絶妙な温暖湿潤性(東南アジアまでいくとまた汚くなる)というのも、「日本人の条件」を構成しているのではないか・・知らんけど。(つづく)

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