アーレント『活動的生』研究ノート(5/6)
アーレント的議論の適用可能性
アーレントがいうように、現代は労働が賛美された時代で、それこそ「働かざるもの食うべからず」な世の中なわけですが、
その一方で、いわゆるゆとり世代あたりからは、バブルを知らないせいか、「もっと遠く、もっと速く」的な資本主義的価値観を相対化して、「社会の役に立ちたい」という感慨がにわかに存在感を増してきた、そんな文脈もあるわけです。
失われた20年、いや30年といわれますが、デフレ経済で資本主義が停滞した時代には、社会の役に立つとか人のためになるとか、そういう価値観が前面に出てきやすいというのはあったかもしれないですね。阪神淡路大震災のときも、人々がそこで初めて「ボランティアの気持ちよさ」に目覚めた云々の話も聞きますし。まあ、セコい見方をすれば、資本主義で勝てないから、公共性や社会性という価値観を持ち出してきて、自分の行動や世界の現状を正当化しないといけなくなった、という文脈もあるのでしょうが。
ともあれ、昨今では、消費者の観点でも、エシカル消費とかSDGsの文脈が強まってもきましたし、
山口周さんや井上慎平さんが指摘しているように、何らかビジネスをやるにしても、それが同時に社会の課題解決につながるようなものでなければ、人が集まらない、特に若い優秀な才能が来てくれないという(現実と憶測が入り混じったような)見立ても出てきた。
被災地の支援で活躍する自衛隊が再評価されるようになったり、社会に本当に必要な仕事を(低賃金なのに)してくれるエッセンシャルワーカーに共感が集まったりするようにもなってきた。時宜を逃さず4月1日の夕方から「なんか違うと思ったあなた、転職のチャンスかも?」的な広告を大量に流し込む◯クルートみたいなビジネスモデルは厳しく叱られねばならない。
まあいろいろと表現することはできると思うんですが、とにかく、労働至上主義的な現代社会においても、それを何かしら公共的なニュアンスで重みづけよう、正当化しようという思惑ないし力学が、やっぱり働き続けてもいるんですよね。
アーレントの公的領域の話を、たんに古き良き時代の理念で終わらせるのにどこか居心地の悪さがあるのは、
社会がどこまで労働主義化しようと、それでも人間は労働に社会的な意味を付与し、差別化をし、公共性の重みづけをして、自分の労働を正当化しようとする(稼ぎの多寡で正当化するのでなしに)傾向があって、そういう点で、アーレントの図式はいまだに説明力があるよなと思ったりもするわけです。
テクストの豊穣さ
あと、長々読んできて思いますが、第三章以降、労働、制作、行為の各論に入ってきたあたりから、譲歩的な物言いが散見される印象もあるんですよね。
第二章では問題の所在についてバシッとシンプルに多少荒削りでも主張してしまって、
その後の各論では、「まあ、それがまだ通用するとしての話だが・・」みたいな自己反省、諧謔性がちらほら出てくる。
國分功一郎さんもアーレントは「慎重な書き手だ」とぽろっと書いてましたが、この辺のテクスト的重層性がアーレントの醍醐味でもあるんでしょうね。注で引用されている本や論文にも、なかなか面白そうなものがありますし。
さて、182ページにはこんな一節がありますが、
〈制作〉的段階では、それによって産み出される耐久的な「モノ」が世界の持続性を確証するわけですが、近現代の資本主義、「大量生産・大量消費」的段階になってくると、モノの生産は機械プロセスと化し、モノは世界形成的であるどころか、ますます自然的プロセスの一環として、もはや意味あるものとしては顧みられなくなる・・。
まあこの辺も、現代のようなAI時代まで来れば、落合陽一的に「デジタルネイチャー」と言わなくてはならないのかもしれません。
そしてこのような時代は、当然のように「世界の世界性を、おそらく壊滅させるであろう」(p.182)という認識になるわけです。
戦争は〈行為〉の可能性の条件?
ところで、アーレントが活動的生活の中に〈戦争〉のカテゴリーを入れなかったことは、やはりジェンダー的な限界を露呈するものなんでしょうか。
最近読んだ小林章夫氏の『イギリス貴族』なんかでも、イギリス貴族が軍務を重視する、また軍功によって彼らの評価が決まるという旨が盛んに強調されていたんですが、
古代のポリス市民も、イギリスの貴族のように、軍役につくことでその市民権を得ている節もあったでしょう。市民は労働を免除されるどころか、すぐれて肉体的な労働(従軍遠征)をこなしていたわけですよ。アーレントが称揚する〈行為〉は、その可能性の条件を〈戦争〉によって制約されているのではないか。
近代の世界性と時間的不自由について雑感
アーレントはやたら世界に住む、世界を安定的な住処(家)とするという着想に愛着を抱いているように見えるわけですが、
まあこれも、アーレントの「場所指定」的な気分が表れているんでしょうかね。活動の場所指定という展望は第二章の最後で自ら示していました。
しかしそれは、同時に、「空間への縛られ」というか、場所への制約という問題性を示唆してもいる。
産業革命や交通革命によって方向づけられた近代、それは端的に「移動の自由」を体現するものである。移動が(テクノロジー的にも)自由になって、職業も自由に選択できるようになった。
前近代はみんな農民や封建領主であって、いわば土地が富の源泉だった。近代では、時間が富の源泉になった。
近代になると、みんな土地に縛られなくなった。活動の場所指定どころではなくなった。インターネットやSNSなんか、実質的に現代人にとってのサードプレイスとなっているようにも思いますが、それは不可視の遍在的なエネルギーの交換でもあるわけです。具体的に「そこ・ここ」の場所性を有しているわけではない。
そういう時代に何が生産的かというと、もう、人間の労働力、内なる潜在的生産性ということになると。これはアーレントが鋭く着眼している通りですね。労働力が富の源泉となった。そして労働力は時間で測られる。「時給いくら」「一日8時間労働」というように。
時間という意味では、資本主義の複利増大性は、まさに時間を味方につけることで充実していくものでもありますし、時間と富の比喩は、近現代の社会を見ていく上では有用な切り口となりうる。
前近代が空間の不自由だとすれば、近代は時間の不自由として考えることもできるでしょう。スケジュール通り動くよう自己規律化し、なんだかんだ多忙で(business)いつも時間に追われている。近代人は、移動の自由(活動の場所指定の無効化)を得た代わりに、時間の不自由を強いられるようになった。あるいは、時間の自由と引き換えに空間の自由を獲得した(だからみんな余暇で旅行に行くようになった)のが近代であると。
ちなみに、為政者目線を想像してみても、移動の自由を得た大衆が、都市に集結して革命を起こされたらたまったもんじゃない、土地に縛られない代わりに、せめて時間に縛られていてくれ(多忙でいてくれ)という思惑が無意識に働いているのかもしれません。ケインズの「週15時間労働」が一向にやってこないのは、そういう事情もあるのかもです(泣)
いずれにせよ、そうやって近代人は、移動の自由を得たと同時に一斉に「根無し草」(オルテガ)となった。それが問題だとあらゆる知識人が叫んでいるわけですが、
しかし、同時に冷静に評価しておかないといけないのは、逆に、前近代というのは、空間に縛られる世界だったんじゃないのかと。あらゆる活動が首尾よく「場所指定される」世界だったんじゃないのかと。また我々は、根無し草なら根無し草なりの「楽しみ方」を開発し、享受してもいるのではないのかと。このような観点も必要でしょう。
もちろん、レヴィナスのように、家に住むこと、世界を獲得して自己同一性を得ること自体の根源的暴力性を指摘し、いわば「世界外存在」、〈他者〉の倫理的次元を導入し、そこからハイデガー=アーレント的ビジョンを批判することも可能ではあるでしょう。
世界は「制作者」をそこまで必要としない
〈行為〉は〈制作〉の技術によって救われる、という話もされています。
印象的な文章ではありますが、ここでも、やはりスケール感の問題を指摘しておきたい気持ちに駆られますね。
確かに、〈制作〉という契機が世界の永続性や安定性を保証するというのはあるし、その点で、制作が機械制の分業的な〈労働〉に融解した近代というのは、それとして批判の対象になるのかもですが、
それと同時に、「制作者って、少数いればそれで十分では?」とも思うわけです。
近代がどれだけ労働至上主義的になろうとも、〈制作〉の領域は細々とであれ確実に存続しているわけで、
モノを生産する人の皆が皆、制作的態度で実存しなければならないということには(当たり前すぎますけど)ならない。
むしろ、〈制作〉によって真に世界形成的な仕事をする人って、社会はそこまでたくさん必要としてないという事実もあると思う。
たとえば現代なんて、SNSやインターネットを通じて誰もが発信者となって自己表現ができる時代なわけですけど、
なんだかんだ、その中で注目され評価されるのは一部のインフルエンシャルな人々だけですし、あらゆるクリエイター、アーティストに関心を払えるほど社会は暇じゃない。一部の有名な表現者が作品を作ってくれれば、それですぐ「お腹いっぱい」になるわけですよ。
「(制作なくしては)人類の記憶に刻み込まれることが決してできなくなってしまう」とアーレントは書きますが、そのとき想定してる人類って何よ?誰よ?とはやはり思いますね。古代や前近代的水準で言えば、人口のごくごく一部でしょう。現代でもその構図は変わらない。人類の一部が記憶すればそれで十分なわけですし、そのためにはさらに少ない「天才」たちが世界形成的な〈制作〉をしてくれれば十分。社会全体が世界の世界性を享受できていないことを嘆くのは、なんか違う気がするんですけどね。
第五章、雑感をいくつか…
第五章。〈行為〉の分析。lengthyなのでさらっと読み進めます。
演劇の重要性。演劇とは卓越した政治的芸術であると。(p.239)
古代ギリシャの〈行為〉は、「著しく個人主義的なもの」(p.249)である。そういえば第四章でも、アーレントは分業やチームワークを批判していました。ヒロイズムにも言及してますが、そういうのは大体個人プレーですからね。複数性のもとでなされるとはいえ。
うーん、やっぱりスケール感の違和感、ズレは感じますね。アーレントは簡単に、古代では…近代では…現代では…と語りますが、アーレントが追うのはあくまでその理念型や概念の異同の比較であって、意図的にかそのスケール感は度外視してるんですよね。山川の世界史の本にもありましたが、古代アテネって佐賀県くらいの規模なわけでしょう。佐賀(古代)とヨーロッパ(近代)、あるいはグローバルな世界経済(現代)とを比べたところで、いったい何になるのかと。それだけ規模が違えば統治形式も変わってくるでしょうと。理念や思想としての西欧近代、あるいは西欧形而上学の歴史全体がダメだというんじゃなくて、単純に、スケール感や経済の動向の違いだと思うんですけどね。
あと、これは研究ノート(4)で、会社について考えたこととも連動するんですが、アーレントが称揚する行為と言論って、今の日本だとわりと学生時代の部活、特に体育会系の部活で涵養される能力なんじゃないかという気もします。
対等な者同士(同学年の間だけだとしても)がそこで切磋琢磨して優秀さを競う。またチームとして勝利という目標に突き進む。人間関係も色々あるので、その中で調整や連携の手腕が磨かれる。合宿は古代ギリシャで言えば遠征や従軍に相当するでしょう(その中で結束も強まる)。気づいたら、いつの間にかチームに共同体感覚が芽生えている。
そういう部活動の中でリーダーシップを身につけた人たちが、なんだかんだで、政治家や実業家として成功する傾向にあるようにもみえる(ラグビーとかボートとか)。また、元高校球児で現在は地元で居酒屋をやりながら、地域の伝統的な祭りの中心的な担い手となって盛り上げている・・みたいな人たちなど、学生時代に培った馬力と独特の愛嬌で、共同体のシナジーを起こす力がすごく強いわけですよ。
こうした「アイコニック」な傑物たちは、ふだんあまり民主主義、民主主義みたいなことは言わないが、しかし確実に社会の枢要を形成し、公共的な活動の担い手となっている。アーレントの議論の説得性は、左派デモクラシー社会運動的な文脈よりも、むしろこういう、マッチョな体育会系の文脈においてこそ高まるような気もします(その場合、「アーレントはその程度のことしか言ってないのかよ!」と逆ギレする手もありますが)。
それから、ちょっと蛇足感もありますが、アーレントの元夫であるギュンター・アンダースをWikipediaで軽く調べていたんですが、
アーレントの「現代は労働がすべてを席巻した時代である」という見立ては、アンダースの議論からの影響もあったんでしょうね。
"Mensch ohne Welt" つまり「世界なき人間」ってわけで、これもアーレントの見立てと連動するものがある。労働しないと人間じゃない。自分の労働力を売って初めて人間として認められる。つまり人間は手段としてしか認められない。「働かざる者食うべからず」という例の標語です。近代とはそんな時代であると。
この趨勢については、もちろん、アーレントのようにマルクスのせいにすることもできるでしょうし、ニーチェ・ベルクソン的な生の哲学に責任を負わせることもできる。
上の方で少し述べたように、近代を「空間の不自由から時間の不自由へ」と解釈するなら、
たとえば、封建制は、いまだに続いていると考えることもできるでしょう。
最近はデジタル中世、デジタル封建制みたいなことも批判的に言われたりしますが、
すでに封建制っちゃ封建制だろうと。封建制は通例「土地を起点にした人民支配」として考えられますが、
近代では、資本が労働力を搾取することで、「労働時間を起点にした人民支配」であると考えることもできる。
近代とはしたがって、「空間の封建制から時間の封建制へ」というノリで表象することができるのではないか、など。(つづく)