たとえ話
メッセージ伝えたい時に使うよね。
連想っておもしろいよね。
関連性があるようでないようで。
ハマると伝えたいことがうまく伝わる。
とはいえ、関連性は実はおぼろげなので、間違ってメッセージが伝わることもある(そして紛争なども起こりうる)。
関連性はおぼろげとはいえ、当然、全く何もないわけではない。そもそも、つくしと瞬間接着剤だって関連付けられるってぐらい、
ことばなんてもなぁ基本つながるもんだ。
ということで、私はたとえ話活用積極支持派。
私たちが日常従事しているプラクティスについて、そこで起きている細かいプロセスのことに目を向けてはもらいたいんだけども、細かいプロセスを一つ一つ記述したところで、あまり読んでももらえないだろうし(記述しておくことは必要ではあるけれど)。
なんといったって、日常の感覚でもって「ああ。分かる分かる、それ。」みたいに感じてもらえないと、日常従事しているプラクティスに変化を加えることもできないんじゃないかと。
ことばはつながるものだし、いくらでもたとえ話なんて創造できるとはいえ、とある話者の伝えたいメッセージに対して妥当なたとえ話というのはそうそう思いつけるものでもない。
伝えたいメッセージとたとえ話との関連性は結構おぼろげと言ったとおり、妥当なたとえ話であるかどうか?というのは理屈で証明はできない。
論理的なつながりというよりも、パワー。力関係ね。まず強烈に違いを生ぜしめるのは。
スーパーミステリアスなたとえ話なんて、私のような名もない人間が話す場合と、そこそこ有名な人が話す場合とでは、聞く人の反応はまるで違ってくる。
つまり、たとえ話ってのは、比喩(例:光陰矢の如し)よりも、誰が話すか(書くか)?が理解、解釈に大きな影響を及ぼす。
この階層化されざるを得ない社会なら、誰もが影響力のある話し手(書き手)になんてなれるもんじゃない。
ということは、たとえ話自体には、実はいいも悪いもない。
まずもって聞く人読む人がそこから何をどう理解するかは全くの自由で、「これしかない」なんて解釈はあり得ない。
そうはいってもだ
いやだからこそ、重要なのは、話し手(書き手)のメッセージ。
話し手(書き手)聞き手(読み手)双方とも、全くこれを無視しておってはお話にならない。。。
特に前者が「知らんがな。アホがどう解釈しようが。。。」となっては疫病のように害悪が広まるばかり(既にそんなことになってしまっているのが現代とも言える)。当然多くの場合はターゲットとなる聞き手(読み手)を特定のグループなどに絞るわけだけども、絞る上での根拠みたいなもんは相当注意深く検討分析見直し等々されてしかるべき。
他方、受け身であるとしか思えない聞き手(読み手)の方にだって責任や使命がないとはいえない。
どちらかというと、聞き手(読み手)の方が大多数を占めるわけだから、その集団的な責務というものは、より社会全体にとって重大な影響を及ぼすはずなのだ。
世の中には相当に強情な人間というものもいるだろうけれども、案外多くの人間はある意味強情だ。
自らの暮らす世の中や出会う人々について、語る語彙というものは無限とはいえない。むしろ相当限定されている場合の方が多い。だってみんながみんな日々勉学にいそしんだり、幅広く読書などして豊富な語彙を、その日常の使用にたえうるような形で備えているなんてことはまずあり得ないのだから。
そういう当然のごとくに限られた語彙でもって、繰り返し繰り返し世界のあれこれを語る。語り続ける。勿論語彙の多寡がお話の質を常に決定するとは限らない。限られた語彙でシンプルに語ったお話の方が優れていることだってある(むしろそっちが理想ともいえる)。けれども、私たちの日常で起こりやすいのは、特に本質をとらえもしていない、本質が何だとか、ほぼ無関係に、ただただ使える語彙がそれだけだから、ということで繰り返し繰り返し同じような話が語り続けられる。
繰り返し同じような話をすることが悪いわけではない。
コワイのは、違う話も世にはあり得るんだということに気付きにくくなること。
随分ソフトに言ってみたけど、現に世の中には互いに異なるストーリーラインで人生を紡いでいる人々が存在するわけで、その存在をとある集団の大多数でもって無視するということは、要するに自分たちの集団外の人間を社会的に抹殺しているに等しい。
だからといって、私は、自らのそれとは異なるストーリーに対する気づきの能力を開発しろとは言わない。
既に言った通り、気付くもなにも、、、現に存在しているわけだからね。
私が言いたいことは、繰り返しをバカにしてはいけない、ということ。
勿論勉強読書して知見を広めることは大事。でも、みんながそれを一様にできるとは思えない。かといって、勉強もしないし本も読まない人間が社会にとってムダだなんてことも全く思わない。
まあムダだのなんだのと言ったところで、、、目立った進歩もなく、繰り返すのが私たちやからさ。否定したところで現実逃避にしかならん。
それよりも、
目立った進歩もない、同じことの繰り返しとはいえね、実は変化はし続けているからね。
同じもんは何一つとしてない。
見かけは同じように見えて。(←ここがポイント!)
気付きやらマインドフルネスやら言うのならね、ほんま変わり映えせんと延々おんなじことばっかりやっとるなー、進歩ねーなーってものね。現にやってること。そん中にちぃーーっとでも何か意味を発見することやろね。
人生は所詮短く儚い夢のようとはいえね、肉体だのなんだの実体もってこの世に存在しているわけやからして、やりもしてないできもせんことばっかり夢見てるってのは、、、いいか悪いか?というと悪い方やと私は思うのよ。
とはいえ、くれぐれも「私これやりましたー。それにはこれこれこーいう意味・価値がありまーす!」とかね。。。必死で?嬉しそうに?語ろうとするのは止めようね。。。自らの繰り返し(性癖やら巻き込まれている慣習など)に目を向けるのは、見たことも聞いたこともないお話ってもんがこの世に現に共存併存しているってことを知る方向に注意が向きやすくするためやからね。あくまでも。
現に存在している。でも知り得てないってことは。。。
空気みたいなもんなんや。
当たり前すぎてわざわざ注意も向けないし、何かを語っている???なんて疑いもしない。
気付きたいなら、一体全体自分は何を日常的に行っとるのか???知らねばね。。。
他者のストーリーとなんぼ出会っても、自分にとってファミリア―な語彙で読み、解釈し、語り続けるだけだ。。。そうすることの残酷さに気付きもせずに。。。