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#思索の足跡:自由は疑うことから始まるー三木清『人生論ノート』(1)
僕たちは毎日少しでも幸せになりたい、自由に生きたいと思いながら生きている。
しかし、現実にはそれは簡単なことではなく、ほとんどの人が何だかのモヤモヤした感情を抱きながら、日々を生きている。
そんな現実を変えるためのヒントを教えてくれる本がある。
三木清『人生論ノート』だ。
今回はこの本を通じて、幸福や自由について考えてみたい。
成功と幸福を同じものと考えている限り幸せにはなれない
「成功について」の中にこんな一節がある。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
とても鋭い指摘だ。
確かにこの社会では、社会的に成功すること=幸福と考えられる傾向がある。
でもよく考えると、成功と幸福はイコールどころか正反対のものである。
成功は他人の評価によって測られるものだ。それに対して、幸福はその人自身がどのように感じるかによって決まるものだ。
だから、幸せ=成功だと思ってしまうと、幸せが他人の評価に左右されてしまい、結果としていつまでも幸せになれないのだ。
では幸せになろうと思ったら、どうすればいいのか。
それは自分が何に幸せを感じるのかを自分に問うことで知っていくことだと思う。
それが分かれば、自分で自分のことを楽しませることができるようになり、必然的に幸福度が上がるはずだ。
このように考えると
幸福な人=自分を自分で楽しませることができる人
と言えるかもしれない。
自由は「疑う」ことから始まる
「懐疑について」という章には次のような一節がある。
人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある。
つまり、人間の他の動物に対する優位性は「疑うこと」ができることにあるというわけだ。
この「疑う」という行為は先ほどの幸福の話とも繋がってくる。
疑うことは、何だかの問いを立てることと言い換えることもできる。
さっき幸福になるためには、何が自分を幸せにするのかを問うことが必要だと書いた。
自分が何に幸せを感じるかを自らに問い、それに対し自分なりの答えを探し、それを価値尺度として生きていく。
このような生き方は、他人の評価から自由になっているという点で、自由な生き方と言える。
ではこの自由な生き方はどのようにして導き出されたのか。
それは、自らに自分が何に幸せを感じるかと問いかけることから導き出されたものだ。
つまり、「疑う」ことから導き出されたものなのだ。
このように、自由というのは「疑う」という行為から生み出されるものなのだ。
何が自分を幸せにするか、自分はどうなりたいのか、今自分はどうするのが最善なのか。
そうした問いを自分に投げかけ、自分なりに答えを出して試行錯誤しながら毎日を懸命に楽しく生きていく。これが人を幸せにし、人を自由にする生き方なのかもしれない。