美術史第101章『絵画以外の元禄文化の美術-日本美術15-』
絵画が繁栄する一方で彫刻の分野はそこまで盛り上がらなかったが、地方の僧侶や遍歴の僧侶の仏師が活躍しており、中でも五百羅漢を江戸で完成させた元慶や、日本の山地を巡って全国をほとんど制覇し鉈や鑿を使った荒々しい今までの様式とは異なる仏像を数十万単位で製作したとされる円空が有名で、円空は仏教宗派の地域分けが曖昧な山間部で多くの作品を残して回っており、また、地域的には特に東北の八戸で仏像が盛んに作られた。
書道では尊円流の系統にある描きやすさを重視した「御家流」が幕府の公用書体として採用され、印刷物の発展もあって広く民衆に行き渡り、他にも女性により書き物「女筆」も誕生、隠元隆琦、木庵性瑫、朱舜水などにより明王朝の書風が伝えられ新たな書風として「唐様」が知識人の間で流行し、隠元や木庵は中国の印章作成、篆刻も日本に持ち帰った。
工芸分野では桃山文化で生まれたデザインが洗練され、各藩の産業政策によって地方工芸が発達し民衆に普及した時代といえ、陶芸では茶器の需要がまた高まり、肥前の窯業では鍋島焼などの色絵の磁器の制作が繁栄、酒井田柿右衛門という陶工は乳白色の素地に赤い絵を描いた赤絵磁器の作成に成功し伊万里焼に広く用いられるようになり、この頃から伊万里焼の名称も使われ始め、陶器には民衆の様子やオランダ船なども描かれるようになり、西欧諸国の中で唯一、国交を持っていたオランダを通してヨーロッパに輸出された。
また、京都では野々村仁清により上絵付法を元に色絵が完成され「京焼」が誕生、これは「清水焼」などの周辺に大きな影響を与え、画家の尾形光琳の弟である尾形乾山は野々村から陶芸を学び著名な陶芸家となっている。
染織の分野では絹が国内で生産できるようになったことから西陣織などが作られ、小袖では自由な絵模様が作られ中でも「友禅染」が流行し綸子や縮緬には華やかな模様があしらわれ尾形光琳的な精巧で緻密な模様は「元禄模様」と呼ばれ人気を博し、加賀ではこれが伝わって「加賀友禅」が作られた。
また、元禄文化には本阿弥光悦による蒔絵に影響を受けた尾形光琳が装飾的な画風を生かした数々の蒔絵作品を残しており、室町からの蒔絵流派の五十嵐派は加賀に招かれ、陶磁器の手法も併せた小川破笠なども活躍し、漆器では「輪島塗」「会津塗」「津軽塗」「春慶塗」「若狭塗」など地方の庶民的な工芸品として多彩に繁栄、金属工芸では刀剣の装飾や印籠や根付などの小物の装飾が発達し、後藤家が名門の地位を手に入れて「家彫」と呼ばれ、狩野派などの作品を下地に使った横谷宗珉の様式は「町彫」と呼ばれた。
建築分野では職人による技術書出版や鉋や大鋸などの大工道具の発達により技術革新が全国に広まって起こり、東大寺金堂や善光寺本堂などはこの時期に再建され、萬福寺大雄宝などのような明の建築に影響を受けた「黄檗建築」という建築様式が誕生、また、当時の技術を結集して日光の建築物が建設された。
支配者層の住居としては書院造に茶室建築の要素を入れた「数寄屋造」という様式で作られるようになり、民家では近畿以外の地域では「広間型三間取り」と称される形式が一般化、近畿では「四間取り型」の民家が建てられた。
庭園の分野では桃山時代に確立された茶室に付属する露地がさらに探求され、そこに東山文化で確立された「枯山水」の庭園の要素も加わった「回遊式庭園」という池を中心に築山や平場が設けられ御殿や茶亭、四阿などの建物が配置された庭園様式が上層の武家や公家が茶事や宴を催すための社交の場として作られた。
そして、江戸時代には将軍が大名の屋敷に赴くことも多かったため大名屋敷に様々な趣向を凝らした回遊式庭園である「大名庭園」が作られ、著名な大名庭園としてはは江戸の「小石川後楽園」や「六義園」「旧芝離宮恩賜庭園」「浜離宮恩賜庭園」や岡山の「後楽園」、金沢の「兼六園」、水戸の「偕楽園」、熊本の「水前寺成趣園」、彦根の「玄宮園」、広島の「縮景園」、宇和島の「天赦園」、高松の「栗林公園」などがあり、寺院に作られた庭園では清水寺本坊の庭園や観音院の庭園などが著名で、これら庭園文化は各地の武家に広まり、その後には豪商や豪農の屋敷にも作られた。