美術史第15章『カロリング朝の美術』
西欧では中世初期の8世紀に西ゴートを滅ぼしてフランクまでやってきたウマイヤ朝イスラム帝国を追い返してイスラムのヨーロッパ征服を防いだカール・マルテルの息子ピピンがローマ教皇の支持を得て王に就任しカロリング朝が開始した。
ピピンの次の代の王カールはローマ教皇の要請でランゴバルドを滅ぼしイタリアを支配、東のゲルマン系のザクセンも滅ぼしてさらに東のゲルマン人のバイエルンやトルコ人のアヴァール可汗国を征服、南ではイベリア北部、西ではブルターニュやフリースラントを征服し、西ローマの衰退でゲルマン人が割拠し滅茶苦茶になったままだった、西ヨーロッパと中央ヨーロッパを統一した。
カールはその後、征服した地域に修道院を建設し、住民を、ローマ教皇をトップとするカトリック派のキリスト教に改修させ、その他多くの制度を整備、そして、797年にはローマ教皇は自身の権力を強めるため言いがかりを付けて本来のローマ皇帝であるビザンツの皇帝ではなく、西欧・中欧を統一したカールに「ローマ皇帝」の位を与えた。
また、カールは首都アーヘンの宮殿にアインハルトやアルクィンなどの文化人を集め、彼らにカトリック国家として教会を発展させるため、教会に付属の学校を設置、古代ローマや古代ギリシア由来の様々な学術を学ぶ教育制度リベラル・アーツを整備し、古代ローマの文献を研究する事でかつての古代ローマのラテン語を復活させラテン語教育を振興など 「カロリング朝ルネサンス」と呼ばれる文化の繁栄の時代を築いた。
また、ラテン語の普及の中で現在のアルファベット表記の元となっている「カロリング小字体」が誕生、これにより多くの古い文献がパンフレット型のコデックスに写本され、9世紀の間でも10万点以上の写本が作られており、現在、本の題名が書かれている背の部分にインキピットという冒頭の数単語を書き書物の管理もしやすくなった。
また、多くの写本が作られていく中で素材もエジプトで作られるパピルスから耐久性が強く両面に文章を書ける羊皮紙へと変わっていき、美術の面でもカールの文化保護の影響で、古代ローマや古代ギリシアの写実的な美術が復興され、これに宮廷に招かれた人々の齎したブリテンの美術やビザンティン美術の要素が加わり、豪華で落ち着いた荘厳な美術が確立された。
カロリング朝美術の特徴としてはビザンティン美術への愛好やゲルマン美術とケルト美術の異郷美術とキリスト教美術の融合があり、これは歴史的にも大きな意義があるといえ、建築の分野では西欧において石による大建築が初めて最初に復興され、ローマ文化を手探りに取り入れていったことで独自の様式を確立した。
そこでは、建造物の西端が塔を伴う複雑な構造となっている「西構え」など独自の様式も誕生、金細工や象牙細工などの小さな彫刻や、その彫刻や宝石で写本の表面を荘厳に彩った彩飾写本などのゲルマン人の美術の豪華な要素も感じさせるような小芸術も多く作られ、メロヴィング美術で衰退していた人間の描写も古代の写実芸術の復興で行われるようになり、これらカロリング美術が後のゴシック美術やロマネスク美術の元となる。