アイヌの歴史17『アイヌ文化時代-中編-』
アイヌの生活
アイヌの間で通貨として機能したのは、交易で手にいれた絹織物、銀、刀剣、漆器などで、その中でも「鍬形」と呼ばれる鉄や真鍮の板をV字形に加工し表面を漆、皮、銀メッキなどで装飾したものは、取引などに使われることはなく生涯の財産となっていた。
また、アイヌ文化が成立した当初は、それに狩猟や漁業、交易を組み合わせて生計を立てていたようで、特に鮭は主食として扱われ大量に捉えて保存食に加工された。
擦文時代の末期から前藩など日本人の影響が強まると、アイヌ文化の人々は日本人との交易のための鮭や毛皮、羽毛などを大量に取らなければならなくなったため、農業をあまり盛んに行わなくなり、続縄文時代の狩猟と漁業を中心にした生活のように戻った。
しかし、完全に農業を捨てたわけではなく、アワを「ムンチロ」、キビを「メンクル」と呼んで栽培し炊いた物を「チサッスイェプ」、粥にしたものを「サヨ」と呼んで食した他、オオウバユリを「トゥレプ」と呼んで球根の澱粉を発酵させ乾燥させたものも主食として食べられ、ヒエは「ピヤパ」と呼ばれ「トノト」と呼ばれる「どぶろく」の一種の酒の製造に用いられた。
アイヌと日本の交易は、アイヌの鮭、毛皮、羽根などと日本人の絹織物や漆器などが交換される形をとっており鮭漁のみを行うコタンなども存在したとされ、アイヌの貿易圏は日本の他にも樺太やアムール川周辺などオホーツク文化の領域にも進出していた。
樺太進出について
モンゴル帝国(元)の資料によると1263年にシディの遠征により服従した吉里迷、つまりオホーツク文化の人々であるニヴフ人による、樺太に攻撃を続ける骨嵬、つまりアイヌをおさえてほしいという要請にこたえ「モンゴルの樺太侵攻」を開始した。
1284年から1286年にかけての進軍でアイヌは樺太から撤退し、その後は小規模な衝突しか起こらず、1305年にはアイヌの玉善奴(イウシャンヌ)と瓦英(ウァイン)がニヴフの多伸奴(トシェンヌ)と亦吉奴(イチヌ)の仲介でモンゴルの講和した記録が残っている。
14世紀後期には明朝がモンゴルを中国から追い出した事で、モンゴルの牽制が無くなったアイヌは再び樺太に進出し、1414年に明がイシハという人物を派遣した頃にはすでに樺太南部にはアイヌも住む様になっており、この樺太に移住したアイヌが後の樺太アイヌとなったと思われる。
この樺太アイヌは、ウリチやニヴフと貿易し、それを北海道アイヌに売って北海道アイヌがそれを日本に流すという「山丹貿易」が誕生、これにより日本には中国の品が流入した。
この山丹交易はアイヌが北方に拡大した事で、擦文時代から阿倍氏・清原氏・奥州藤原氏などが外ヶ浜や渡島半島を拠点にアイヌと貿易を行なっていたという北方貿易から生まれたものである。
また、樺太アイヌでは犬橇やスキーなどオホーツク文化の強い影響が見られる一方で擦文時代の土器をそのまま作り続けていて、竪穴式住居も作ることもあり、さらにミイラ制作なども行なっていたとされ、北海道アイヌとは様々な点で異なっている。
これは樺太アイヌが樺太に進出したのは14世紀というアイヌ文化に移行したばかりの段階で、擦文時代の面影が色濃く残っていた事、オホーツク文化のニヴフを征服して吸収する際に一部の文化も吸収し、他のアイヌよりもオホーツク文化の要素が強くなった事が挙げられる。
アイヌの宗教
アイヌの宗教は先述の通りあらゆるものに霊が宿り、それは霊界から役目を持って来ているというのを基本として宗教で、アイヌ宗教の儀式として最もよく知られるヒグマを霊界に送るイオマンテという儀式は、ニヴフ、ナナイ、オロチ、ウィルタ、ウリチなどの北方諸民族に見られる熊送りという儀式の一種で、恐らく北方からやってきて北海道の北部から東部を支配していたオホーツク文化から伝わったと思われ、オホーツク文化やオホーツク文化と擦文文化が混ざったトビニタイ文化の遺跡では熊送りの存在が確認できる。
アイヌ宗教で行われるイオマンテなどの儀式は恐らく日本語の「神祈り」から「カムイノミ」と呼ばれ、棒に房房がくっついた「イナウ」という道具を用いて行われた。
アイヌ文化の埋葬は集落コタンから離れた山の中に墓地がありそこに埋葬するという形をとっており、墓標の形は各集団で様々で、副葬品として漁の道具なども埋葬され、これは家の周囲や家の中に埋葬を行なった擦文文化とは大きく異なる点の一つである。