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シルクロードの歴史14『モンゴル人とシルクロード-東西交流と黒死病-』

*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。


1. 黒死病の広まり


 「黒死病」とは、ユーラシア大陸からアフリカ大陸北部で大流行したペスト菌により引き起こされる感染症で、リンパ腺が腫れ上がり臓器で毒素が生まれ死ぬ腺ペスト、ペストが血液を通して体に回ってあちこちが壊死して死ぬ敗血症ペスト、肺に入って呼吸困難を起こし死ぬ肺ペストという三種類の発症型があり、推定で7500万人から2億人が死亡したと考えられるが、実際にはもっと多いかも知れない。

ペストの広まり

 ペスト菌の起源は遺伝学分析によると、陸のシルクロードの真ん中の天山山脈周辺であるとされ、天山山脈地域を広大な領土を築いた征服活動の初期に征服したモンゴル帝国が拡大を続けると当然ながら、ペスト菌により起こされる黒死病も流行したと思われ、中国の人口は大きく減少、河北省では流石に誇張だと思うが9割が死んだと記され、中央アジアでも正式な記録は残っていないが、墓跡に刻まれた文章から流行が起こっていた事が確認できる。

ペスト菌に感染したノミ

 ヨーロッパでの最初の発症の記録はキプチャク・ハン国領のクリミア半島にありながら、イタリアのジェノヴァ共和国に支配されていた港町カッファ、現在のフェオドシヤで、当然、交易などでカッファとイタリアにある本国のジェノヴァの行き来は常に行われている上、ジェノヴァ共和国はビザンツなどヨーロッパ各国と貿易を行う海洋国家であった事で、1340年代以降、黒死病はヨーロッパにも急速に広まっていった。

ジェノヴァ共和国の貿易地図

 また、同時期には西アジアや北アフリカでも黒死病が流行、これにより世界人口は大きく減り、労働者が不足した事で、急激な価格上昇、いわゆるインフレーションが発生し、ここに小氷期、つまり気温が低くなる周期が回ってきて飢饉が起こった。

当時の様子を象徴したP・ブリューゲルの「死の勝利」

2. 黒死病によるヨーロッパの社会変化


 黒死病が特に大きな影響を与えたのはヨーロッパで、当時のヨーロッパでは黒死病を神による天罰であるとして、千数百年前に中東からやってきたユダヤ教徒、数百年前に中東からやってきたインド系のロマ、その他外国人、貧困層、ハンセン病患者、修道士などがヨーロッパ全域で神の赦しを得るために殺された。

キリスト教徒に虐殺されるユダヤ教徒

 これによりユダヤ教徒の難民が溢れかえり、これをかつて、分裂したいたところにモンゴル帝国の破壊を直接受けた事で破滅寸前なレベルで弱体化、そこから国を立て直せていなかったポーランド王国のカジミェシュ3世が、国の復興のために受け入れた。

 この王の政策によってポーランドでは国民の1割がユダヤ教徒となり、農民の保護などの政策も合わさって経済力がつき、さらにカジミェシュ3世は法の整備や学問の普及を行い、ウクライナ東部を制圧するなどし、ポーランドは一躍大国となった。

ポーランド王カジミェシュ3世

 そして、地中海沿岸の黒死病は17世紀まで何度も、何度も、ぶり返し続け、そこに存在したコンスタンティノープル、カイロ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの大都市の人口は産業革命で、人口が爆発的に増えるまで黒死病以前の時代に戻らなかった。

3. 東洋と西洋を行き来した人々


 次に、このモンゴルがシルクロードを支配し今までになくシルクロードが活発化した時代に西洋と東洋を行き来した人物の中で特に有名なものを挙げていく。

 まず、ラッバーン・バール・サウマは元の首都大都、つまり現在の北京で生まれたウイグル人でイルハン国の使節としてビザンツ皇帝アンドロニコス2世、ナポリ王カルロ1世、教皇領の枢機卿達と滞在中に教皇に選ばれたニコラウス4世、ジェノヴァのドージェ、フランス王フィリップ4世、イングランド王エドワード1世などに歓迎された人物となっている。

フランス王にサウマが届けたモンゴル文字で書かれた書簡

 逆に西洋から東洋に渡った著名な人物ではプラノ・カルピニがおり、彼はヴェネツィアの修道士でモンゴルを脅威に感じた教皇インノケンティウス4世らによって、ヨーロッパ侵攻を行なっていたバトゥに謁見、バトゥにより本国のグユク・ハンへの直接交渉を勧められ、首都カラコルムに赴いて和睦交渉を行うが、服従を望むグユクは突っぱねて、そのまま教皇の元に戻り、そこで「モンゴル人の歴史」を記した。

グユクに謁見するカルピニ

 また、同じく西洋から東洋へ行ったウィリアム・ルブルックというフランスのフランドル地方出身の修道士は、フランス王ルイ9世によりモンゴルの首都カラコルムに派遣されグユクの後に即位したモンケに謁見、キリスト教の布教などを行い、「東方諸国旅行記」を記している。

ルブルック一行を描いた挿絵

 そして、ルブルックやカルピニと比べると知名度が低いジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノという聖職者は、彼らに比べて東洋世界に大きな影響を及ぼした人物であると言える。

 モンテコルヴィーノは教皇ニコラウス4世によりモンゴル帝国の分派イルハン国が支配する中東への布教を目的に派遣され、帰還後に元のフビライがカトリックの宣教師の派遣を要請したことで、再び東に出発、中東やインドを経て元の大都に着いた頃には、フビライは死亡しテムルが後を次ぐところで、テムルはカトリックにそこまで関心が無かったものの、彼自身は気に入られ、保護を受けながらカトリックを布教した。

 当時の中国ではカトリックが生まれる前に他から別れたネストリウス派キリスト教が景教として広まっていたものの、カトリックも信者を増やしていき、中国の大都や厦門などでカトリックの教会が建設されるに至った。

モンテコルヴィーノ

 その後、オドリコというドイツ領フリウーリ地方の修道士は、トルコ、アルメニア、イラク、イラン、インドで布教を行いながら東に進み、インドからは海のシルクロードを行き来する中国のジャンク船に乗ってスマトラ、ジャワ、ニコバル、スリランカ、アンダマンなどを回った後に中国に上陸、モンテコルヴィーノによりカトリックが広まっていたこともあって数年間滞在し、チベットや中東を通って帰還した。

オドリコ一行

 他にも教皇ベネディクトゥス12世の使節としてトゴン・テムルに謁見し帰還したジョヴァンニ・デ・マリニョーリなど多くの人物が存在するが、最も有名な東西文明を行き来した人物はマルコ・ポーロとイスラム世界のイブン・バットゥータであろうがそれは次回とする。

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