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美術史第79章『春秋戦国・秦代美術-中国美術6-』

  血のつながった王族などに領土を与えて家族経営のようにして影響力を持ってきた周王朝だったが、時が経つにつれ、当然、領土を与えた家系と王家の血縁関係は薄れてほぼ他人となっていき、これにより影響力を失った周は衰退した。

 さらに諸侯との対立も起き始め、前9世紀中頃の厲王は民衆により追放、その十数年後に息子の宣王が即位した後には周の影響力は消え、この頃には繁栄を極めた青銅器美術でも技術力の低下で精密な模様は失われていった。

春秋時代

 その後、幽王と現在の南陽市を支配した申国が離婚問題で揉めた事で、申が西方異民族の犬戎を引き連れて進軍、幽王は死亡し首都の豊京は陥落、周王家は鄭国の協力などで東部支配の拠点洛陽に逃れたが、鄭、宋、魯により、中国の中心地帯だった中原地域は分裂し「春秋時代」が開始した。

管仲
孫武
伍子胥
范蠡

 その後、管仲の活躍で斉国の菅公が東方諸国の同盟を結成し、南方の侵略を阻止、周に代わって諸国の盟主となり「覇者」の国となるが管仲の死後は没落、次に晋国の文公が、その次は邲の戦いで南方の楚国が覇者となるか、鄢陵の戦いで晋に取り返され、長江文明圏に位置する闔閭や夫差、伍子胥、孫武などの呉と勾践や范蠡などの越が勢力を伸ばして楚や晋と争ったが敗北した。

 しかし紀元前5世紀、晋は反乱により趙、魏、韓に分裂、これ以降、「戦国時代」が開始し、最初には中心地で発展していた中原地方を支配した魏が李克、呉起などの活躍で覇者となる。

商鞅
孫臏
呉起

 前4世紀半ばには大きいが未開発の部分が多い秦国で商鞅による法整備が進み発展、同じく未開発領土を多く持つ斉国には鄒衍、荀子、孟子など世界でも有名な哲学者が集結しそのうちの孫臏の桂陵の戦いなどでの活躍で魏は衰退、一方、魏から逃れた呉起は楚で改革を行い国を強化し周辺を支配、趙国は馬に乗って矢を射る北方異民族の戦い方を導入した。

白起

 その後、魏・趙・韓は連合して秦に攻め入るが敗北し白起率いる秦軍に攻められ、最終的に中国の東部は斉、西部は秦が支配したが、秦の白起将軍やその死後に活躍した王翦、蒙恬、王賁により残っていた国々は全て併合され、秦による中華統一が達成された。

儒家の始祖の孔子
道家の始祖の老子

 この春秋時代や戦国時代には数万人程度の人口だった小国家が生き残りをかけて改革を行ったため数十万人規模となり、鉄器が普及し農業生産が上がった事もあり商工業が発達、貨幣経済が開始し、思想の面でも戦乱の不安から「諸子百家」と呼ばれる哲学者達が現れ儒家、墨家、法家、名家、道家などが誕生するなど文化全体での変化があった。

 美術の面では周の本拠地だけでなく、分裂した各国で独自に青銅器が作られるようになっており、蓋の頂部に板状の突起を持つ方壺や簋はこの時代の特徴といえ、刻まれる模様も怪物や鳥獣から簡略化された窃曲文や蟠竜文、蟠螭文が作られた。
 これはこの時期の青銅器本来の祭具として役割が消え、単なる宝物と考えられるようになっていったためで、北方遊牧民由来の動物文様や長江文明地域の幾何学模様や人々の生活の様子が薄く何の飾りもない器に象嵌された作品、躍動的な模様が描かれた黒陶などが作られ、一度衰えた青銅器美術も繁栄を取り戻したといえる。

始皇帝

 中国にあった全ての国家を征服し、中国を統一した秦では王の嬴政が自らを王を超える「皇帝」と名乗り、後に始皇帝と呼ばれることとなる。秦は強国化した商鞅の改革の際にも法家の思想を採用していたため続けて、内政整備は法家の李斯が行った。

秦の篆書体碑文
現在の万里の長城

 これにより秦では王の始皇帝に権力が集中する中央集権国家が確立され、各地の各地方の統治も政府が直接派遣する職員が行うこととなり、さらに漢字や貨幣制度、物の単位なども統一、統一された字体「篆書体」で各地に文章を刻みつけ、一方では北方遊牧民を防ぐために巨大な建造物「万里の長城」を増築した。

阿房宮の想像画

 また、この時期には首都だった咸陽の人口が爆発的に増えた事で新たな宮殿「阿房宮」の建築が開始され、これは建設途中で破壊されたため詳細は不明だが東西約700m、南北約115mほどと非常に巨大であったのは確かで、現在、阿房宮遺跡の復元や発掘が行われている。

 また、始皇帝は中華統一以前から驪山という山に自らの墓の建設を始めており、その東約2kmの地点に三つの坑内を埋め尽くす外側から守る守護する構成で軍団を模した大量の像、いわゆる「兵馬俑」が埋められ、これは春秋戦国時代に殉死の風習が廃れて人を象った華北では陶俑、華南では木俑が埋められるようになっていたものをそのまま超大規模化したものである。

騎兵と軍馬
指揮官

 その遺跡にあったものとしては木製の戦車、陶器の馬、陶器の騎馬兵、陶器の武人、青銅器の武器などがあり、これらはすべて等身大サイズで作られ、さらに非常に写実的に作られていた。

 一つあっても高い水準の美術作品がここまで大量に同じ地帯に存在するのは他に例がなく、20世紀後期に再発見された際には世界中で大きなニュースとなっており、秦の時代の美術は非常に精密で写実的であった事がわかる。

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