美術史第20章『ルネサンス美術-発展編-』
絵画の分野では、そもそも建築や彫刻と違って見本となる古代のローマやギリシアの絵画があまり残っていないため、そもそも古代のものを一職人が参考にして絵を描くこと自体が難しく、ローマやギリシアのような遠近感や陰影のある非常にリアルな絵画は生まれなかった。
そのため、非常に華やかで写実性ではなく描くべき所は空間を捻じ曲げてでも描くような初期キリスト教美術時代に神秘を表現するために敢えて崩した絵画様式が中世後期まで続いている状況であった。
しかし、ゴシック時代後期のフィレンツェの画家ジョット・ディ・ボンドーネにより従来のビザンティン美術の絵画の影響を排除した今までより多少、立体的で人物の感情も表現した自然な絵画が行われ始め、その数十年後、前回で触れたブルネレスキやドナテッロと同時期のフィレンツェの画家マサッチオにより、光の明暗によって奥行きを表現する技法や透視図法が確立された。
それ以降の画家は立体感の表現を模索するようになり、フィレンツェのパオロ・ウッチェロによって数学的に完全に正確な遠近法が生み出され、他にも救世主イエスや聖母マリアを肉感などリアルに描いたフィリッポ・リッピや明暗や遠近法に拘ったフラ・アンジェリコなどによりフィレンツェの宗教画にもマサッチオの確立した立体的なルネサンス絵画が導入されていった。
貿易利益を求めたスペインやポルトガルが大西洋からアジアへの航路を開いていった大航海時代が起こった15世紀後半、イタリア半島ではフィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇国、ナポリ王国が和平協定ローディの和を締結し、イタリアでは安定期が到来した。
これによってフィレンツェの中で栄えていたルネサンス文化がイタリア諸国全体に波及、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやマントヴァのイザベラ・デステのようなヒューマニズムを持った統治者が文化的な活動を促進した事で、ルネサンスはより発展していっており、このルネサンスの拡大の時代の人物としてはフィレンツェの画家ピエロ・デラ・フランチェスカが特に有名である。
また、15世紀末期のフィレンツェはロレンツォ・デ・メディチの統治下でルネサンス文化の全盛期を迎えており、絵画と彫刻にはモチーフとして動き、勢いが取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポライオーロの写実的な筋肉の表現や、アンドレア・デル・ヴェロッキオの解剖学的に分析したリアルな人体の表現などが育まれていき、優美な装飾を持った作品も人々が豊かになるにつれ流行した。
サンドロ・ボッティチェリが描いた「ヴィーナスの誕生」のような耽美主義、つまり「美しい事に価値がある」とする思想も誕生し、フィレンツェ以外でも活躍する画家が現れ始めパドヴァでは「死せるキリスト」などで有名なアンドレア・マンテーニャ、ヴェネツィアでは「神々の饗宴」などで有名なジョヴァンニ・ベッリーニが著名である。
またこの頃にはローマがフランスのアヴィニョンの教皇とローマの教皇が並立する状態となりカトリックの指導者としての地位が微妙になっていたローマの教皇が「コンスタンツ公会議」によりローマ教皇一人に戻された事で、権威を取り戻しており、教皇の下でフィレンツェのボッティチェリや、ドメニコ・ギルランダイオ、教皇国出身のペルジーノなどの人気画家によりバチカン宮殿の礼拝堂「システィーナ礼拝堂」の壁面装飾事業が行われるなど芸術活動が展開されていき、フィレンツェでロレンツォ・デ・メディチが死に芸術を抑制するジロラモ・サヴォナローラが君主となると、芸術家がローマに移り次第にルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移っていくこととなる。