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美術史第52章『古代ペルシア美術-前編-』
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ペルシア美術はイランと付近のアフガニスタン、タジキスタン、アゼルバイジャン、ウズベキスタンなどを意味するペルシア地域で展開された美術のことであり、西にはメソポタミア文明やギリシア文明、北東には中国文明、南東にはインド文明が存在する場所に位置した。
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気候的には山岳、砂漠、デルタ地帯など多様で、古来から多くの民族が行き交ったため、中央アジアと同じく文明の合流地として美術も繁栄し、その建築、絵画、手織物、陶芸、カリグラフィー、金属工芸、石彫などの文化は現在まである程度続いているとされる。
また、イスラム時代においてペルシアは科学、文学、美術の中心地として大きな繁栄を迎えることとなったが、この52章や次回の53章ではイスラム勢力到来以前の古代ペルシアの美術について扱うこととする。
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ペルシアとは本来、イラン南部の現在のファールス州、古代ペルシア語の発音でパールスと呼ばれていた一部地域の名称で、イランの別名としても用いられる事も多いが、先述の通り歴史的な用語としてはペルシアがより広い地域を意味しており、その理由としては世界初の超大国アケメネス朝ペルシア帝国の発祥の地であったことがある。
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アケメネス朝ペルシアよりもずっと前、ペルシアでは紀元前6000年頃にはすでに高度な農業社会が形成され地母神や動物を象った土偶が作られるようになり、粘土を用いた建築がなされるようになり、紀元前4000年頃には轆轤が生まれた事で土器制作が盛んとなった。
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その中でも祭祀にて用いられたと考えられる彩文土器は形態が様々で、色は素焼きか赤褐色もしくは淡黄色の化粧土に黒っぽい顔料で、幾何学や生物などの模様が描かれるといった風に全体的に変化に富み、大規模な遺跡であるテペ・シアルクなどイラン各地で発見されているが、全体的に統一感がなく、当時のペルシアにはまだ統一勢力が存在していなかったことが窺える。
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テペ・シアルクの発掘では彩文土器の他にも糸を紡ぐための紡錘車もこの頃に作られ始めた事もわかり、漆喰が塗られた日干しレンガによる建築も行われ、建築の内部で赤い塗料で装飾されていた事もわかっている。
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その後の紀元前4千年紀、ペルシアは青銅器時代を迎え土器は衰退、紀元前3千年紀にはペルシア南西部ではすぐ西に灌漑農業や文字を生み出し発展したメソポタミア文明が存在していた事からスサという都市を中心にメソポタミア文明の影響を強く受けたエラム文化が誕生、さらに紀元前2千年紀前半にはペルシア北東部で灌漑農業を行い大きな都市がいくつも生まれたバクトリア・マルギアナ複合あるいはオクサス文明と呼ばれる文化が誕生し、その遺物はインダス文明、ペルシア各地などで発見され、エラムの文字も発見されているため各地と交流を行ったことがわかっている。
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エラム文化はクティク・インシュシナク王の元でスーサを首都とする高度な統一国家となり、初めてメソポタミアを統一したアッカド帝国やその後のウル第三王朝などの支配下に入るなどメソポタミアとの交流が常に続き、全盛期の紀元前12世紀にはバビロニアと戦争を行い最終的に滅ぼした。
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このエラムの代表的な建造物としては「チョガ・ザンビール」という遺跡に残るメソポタミア系の巨大神殿ジッグラトがあり、この神殿の門には怪物などの彩釉が施されたテラコッタ製の動物像があったとされ、彫刻の分野では他にも崖に彫られた彫刻やスーサやチョガ・ザンビールで発見される丸彫り彫刻、ブロンズ像があり、金属工芸も繁栄した。
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また、エラムが誕生したのと同じ頃のペルシア北部のテペ・ヒッサールなどの遺跡では彩文土器に代わって、灰色や黒色の土器が造られるようになっており、前20世紀前半からはペルシアの北部や西部では北方からやってきた騎馬民族イラン系民族が繁栄を開始、現存する作品の多くが盗掘品であるため詳細が不明ではあるがイラン系民族と現地人の融合により古代ペルシア美術の特色ある動物模様や装飾趣向の基礎が築かれ始めたと思われる。
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この時代のイラン北部のマルリク遺跡では、数多くの竪穴式の石室墓が発見され、そこから豪華な金銀器、精密な金粒細工、青銅製の動物像などが掘り出されており、そこでは杯の装飾に立体的な表現なども用いられるなどしている。
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また、同じ時期のイラン西部のザグロス山脈中のルリスタン地方でも盗掘により詳しいことはわからないがエラムやバビロニアとの接触で青銅器美術「ルリスタン・ブロンズ」が確認でき、また、クルディスタンのジビエ遺跡からは家具など日用品の装飾に用いられた象牙細工の彫刻や、優れた金属工芸が発見されており、これらはイラン系民族による文化であると思われる。