見出し画像

美術史第77章『殷周美術-中国美術5-』


殷墟

 「殷」王朝は多くの小国家を従える華北の黄河文明の統一国家で、自身は「商」を名乗っており、前期には現在の鄭州市にある広大な城壁を持った「二里岡遺跡」が首都だったが、後期には現在の安陽市にあった現在「殷墟」と呼ばれる都市に遷都した。

殷墟の后母戊鼎

 ここでは王宮や宗廟、漢字の祖先にあたる「甲骨文字」が刻まれた占いに使われたと思われる多数の甲骨の破片、十数もの大きな墓などが発見されており、墓には何十人もの殉死者と共に大量の巨大な青銅器製品が埋められ、殷王朝の王の権限が既に大きかったことがわかる。

婦好の墓

 殷王朝では占いの跡などから王が神やそれに近しい存在として崇められるというかつての日本のような神権政治が行われていたと推測されており、現在、この頃の墓の中で完全な形で残っているものとしては22代王武丁の妻で軍事司令官としても活躍した婦好の墓がある。

武王

 殷から後の始皇帝の時代までの華北一帯は邑と呼ばれる都市国家が散在し、それを一つの王朝が名目上従えているという政治形態であり、紀元前11世紀、30代目の殷王である帝辛と対立した殷の支配下の諸侯の一つである「周国」の武王や周公旦、呂尚らが反乱を起こし「牧野の戦い」によって殷は滅亡した。

西安

 周は現在の西安(中国史上の長安)である「鎬京」に首都を置き、各地の領土を血のつながった王族や功臣に与える封建制を行うこととなり、すぐに幼い王の摂政となった王子の一人に権力が集中したため、反発した王子や領主たちと殷の本拠地があった東部にいた殷王朝の残党勢力が手を組んで反乱し「三監の乱」を起こすが鎮圧された。

洛陽

 これにより中国東部の支配の拠点として新たにその後の中国史で重要となる都市「洛陽」が建設され、その後には遺跡から黄河流域に止まらず中国最北端の遼寧省や最南端の広東省にまで後に中国となる地域に周の文化の影響が広まっていったこともわかっている。

邑諸侯国

 また、この時代には邑が君主の宮廷や宗廟などを丘に設けてそれを頑丈な城壁で囲いその他の地区も土壁で囲う構造となり、農業発展で人口が増加したことで邑が拡大して狩猟や遊牧を行う「夷」の領域を都市化し始め、後には農民が増加したことで軍事で貴族の騎兵でなく歩兵が重要となったことで小規模な邑の独立性は失われ、大規模な邑が大きな領域を持ち始め、また、建築では瓦が普及した。

 この、殷から周の時代は青銅器文化が最高潮に達した時代で、鼎(てい)、鬲(れき)、献(けん)は食物を煮る器、簋(き)、豆(とう)は食物を盛る器、爵(しゃく)、斝(か)、盉(か)は酒を温める器、尊(そん)、卣(ゆう)、罍(らい)、壺(こ)、瓿(ほう)は酒を盛る器、觚(こ)、觶(し)は酒を飲む器、盤(ばん)、鑑(かん)、盂(う)、匜(い)は水を盛る器というように非常に多様な器形が作られた。

 刻まれる銘文は殷代には非常に短い一文だったが周代には製作の由来を詳しく知る事ができるほど詳細な文が記されるようになり、それによるとこのような青銅器は祖先を祀るためのもので、王や領主の偉大さを誇示してその栄誉と特権が受け継がれていくという事を示す事も目的としてあった可能性があるとされ、実際、青銅に文字を流し込む技術は王室のみが独占保持した。

饕餮文
夔龍文

 このような目的で作られたため、この時代の青銅器の形や刻まれた模様が芸術的に美しく作られたといえ、刻まれた模様には大きな二つ目の獣を象った饕餮文や爬竜文のような怪獣や、鳥、虎、蛇などの鳥獣が描かれ、主要な文様の間は細かい渦巻き状の雷文で満たされるようになっていた。

周の斉侯匜

 しかし周の時代に入ると先述したさまざまな器種は淘汰されていき多様性がなくなり始め特に酒器系のものが陶器や漆器に置き換えられて減少、周中期には壺と尊がほんとどとなり、模様でも饕餮文などが消えて動物文様をシンボル化した竊曲文・山形文・鱗文などが増加、芸術的な要素は薄れより簡素な青銅器が作られ、その役割も副葬品から子孫への継承が主となっていった。

白陶

 また、陶器の分野では一般の生活用品として「灰陶」という灰青色の表面に櫛や縄で模様が付けられた陶器が普及しており、釉薬を用いたものも存在したとされ、途中からは高熱で上質な土を焼成した事で純白となった「白陶」も誕生した。

 衣服には麻などの繊維の他に毛皮や絹が使われ、装身具として笄、櫛、首飾り、腕飾り、魚や鳥獣を象った翡翠などが作られており、象嵌や漆絵などの技法はすでにある程度発展していた。  

いいなと思ったら応援しよう!