「反論ヒエラルキー」の上進がネットの未来を明るく変える
世界は矛盾と対立で溢れている。
これ自体は決して、害悪ではない。
ヘーゲルの言う通り、テーゼに対してアンチテーゼが現れることで、ジンテーゼ、即ち新たな真実が生まれるのだ。
社会はこうして前進するのだと、私も強く信じている。
そしてインターネットの出現は、このプロセスを日常的な行為に変えた。
YouTubeを見ても、2ちゃんを見ても、Twitterを見ても、どこもかしこも対立した意見の衝突で溢れている。
しかし、これらの衝突の多くは、感情的かつ証拠の欠落した「論理」の上に成り立っている。
インターネットが誹謗中傷に溢れ、見るものを不快にするコンテンツを量産するのは、インターネットの本質に由来するものではない。
我々ユーザーの拙い「反論力」が、インターネットの不快な側面に寄与しているのだ。
反論力の拙さとは具体的にどんなものか、Y Combinatorの創業者ポール・グレアムが唱えた「反論ヒエラルキー」の概念を交えて考察したい。
反論ヒエラルキー
反論ヒエラルキーは、異なる6つの反論方法が成す階層構造を指す。
ピラミッドの下層ほど、反論力は拙く、観察される絶対数も多い。
罵倒
悲しくも、最も多く使われる反論方法は、筆者に対する「罵倒」である。
お前はクズだ。
義務教育からやり直せ。
上記の例の通り、元々ある議論点に対して反論する訳ではなく、筆者を非難しているだけである。
これを反論と言うことさえ憚られるが、事実、世の中にはこうした反論しか出来ない人々が多い。
人身攻撃
人身攻撃(ラテン語でargumentum ad hominem)は、罵倒同様に筆者、及び筆者の信念や個性を攻撃するものである。
罵倒との微妙な違いは、多少なりとも事実を含んでいる点だ。
実際にその経験がない奴ほど、「好きなことを仕事したってろくなことがない」と言う。
例えば上記の例は、確かに事実かもしれないが、たとえその人たちに好きなことを仕事にした経験がなかったとしても、彼らが間違った意見を言うとは限らないのである。
むしろ、アウトサイダーだからこそ分かることもあるだろう。
論調批判
論調批判は、筆者に対する攻撃でこそないが、重要な論点に対する効果的な反論手法でもない。
そんないい加減な態度でLGBT問題を語るな。
上から目線の論調はおかしいのではないか。
論調、つまり筆者のトーンを批判することに終始しており、重要な論点に対して意味のある反論には至っていないのである。
論拠無き反論
論拠無き反論は、反対のケースや矛盾を述べることで自身の意見の妥当性を主張する反論手法である。
フェミニズムのイデオロギーとしての正当性を否定する連中がいるが、フェミニズムは国際的な支持を得る正当なイデオロギーである。
例えば上記の例は、確かに反論はしているが、ご覧の通り論拠がない。
これでは、相手がどれだけ知的謙遜力を備えていても、納得しないだろう。
反論
反論は、文字通り「論拠無き反論」に証拠を加えた手法である。
反論は、ヒエラルキーの極めて高い位置にある、正当な手法だが、必ずしも論破に至る訳ではない。
一見すると白熱した議論を展開しているように見えるが、異なる要点について議論が進み、それに当人たちが気づいていないこともしばしばである。
冷静に考えると実はお互いの意見が同調していました、と言って仲直りするTwitter上の議論を目撃したことがあるのではないだろうか。
論破
最も説得力に満ち、最も稀な反論形式が論破である。
なぜ稀有かと言えば、最も労力がかかるからであろう。
論破するためには、具体的な相手の発言を一語一句違わず、かつ背景から切り離さない形で引用することが求められる。
これは決して容易なことではない。
好きなところだけ引用して、論破した気になっている人が大勢なのである。
最後に
インターネットのおかげで、アイディアの衝突と融合が容易になった。
これによって、イノベーションの速度は加速し、世界は急速な発展を遂げている。
しかし、誤った形で議論や衝突が進めば、インターネットは正よりも負の影響をもたらしかねない。
我々一人一人のネット市民が自身の発言と議論に責任を持つことが、明るいインターネットを作る第一歩となるのだ。
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