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シーン理論 -イノベーションの源泉としての孤独と未熟さ
私は、いくつかの先進的かつ革新的なプロダクトの新規事業開発に関わった経験がある。
特に、無名の科学者や技術者が挑戦する、理解を得づらい未来志向な事業のデザインに関わってきた。
まだまだ経験が浅いことを自認しているが、こう似たような背景のプロジェクトに関わると、うっすらと見えてくるパターンがある。
好奇心を持て余した科学者や技術者が、小さなコミュニティを形成してから大きなムーブメントを起こすまでのパターンだ。
それを明確に説明してくれるのが、サラ・ペリー氏の「シーン理論」である。
サラ・ペリー氏のシーン理論
寂しさとは、繋がりへの渇望だ。
それは、部分的には、情報への渇望である。
他の誰かについて、世界について、自分自身について、まだ知らない情報を渇望している状態だ。
この寂しさこそが、好奇心の出発点である。
だから我々は、自身の情熱や関心を認めた手紙を瓶に入れ、海に流し、誰かが拾うことを願った。
新聞や雑誌に寄稿した。
それが今は、ツイッターやその他のSNSで行われている。
多くが海の底に沈むが、時折同じ情熱と孤独、好奇心を抱えた者たちが出会い、「シーン」が生まれる。
シーンとは、サブカルチャーと呼ぶにも満たないクリエイターの小さな集まり、そして彼らが好奇心を満たすための微かな活動である。
シーンは、無知の共有を可能にする。
どれだけある分野に関して情熱を持っていても、知識を有していても、答えが見えない。
話し合っても、話し合っても、欲しい知識に出会えない。
そしてシーンは、無知を知り、迷う。
シーンに属さない人々は、この苦しみを気にも留めない。
むしろ、文化や分野の価値観にそぐわないシーンの信念を、瑣末なものとして扱う。
それでも深い苦しみの挙句、知識を探求し続けるシーンのみが、我々の情熱は所詮瑣末なものだったと諦めたくなる感情を押し殺し、エネルギーに変えられる者だけが、生き残る。
苦行を乗り越えた好奇心は、やがて自信へ、そして過信へと変わる。
過信は、シーンの信念の不確実さを取り除くためのあらゆる努力を推進する。
そしてそのフロンティアスピリットは、やがてシーンをサブカルチャーに、そしてカルチャーへと導く。
「シーン理論」実践から得た学び
私が関わったプロジェクトのいくつかは、オタクたちが好奇心を満たすために週末の空き時間を創作活動に当てたことに端を発する。
事業化も考えなくはないが、具体的なアイディアも、ノウハウもなく、ただ好奇心だけが彼らを推進していた。
大抵の場合、こういう活動はそう長く続かない。
リソースも時間もないから進捗は出ないし、恋愛したいし、だらだらしたいし、成果が出たからと言って好奇心が満たされる以外のインセンティブがあるわけでもない。
故に私が思うのは、こうした活動の中心人物には、「心地よい緩さ」を維持できるマネージメント能力が求められるということだ(事業化した時には別の話である)。
毎回集会に来る必要はない。ヒエラルキーがあるわけでもない。タスクを命じられることもない。そんな心地よい緩さだ。
活動が多少注目を集めると、スタートアップ志向の人材やバリバリのビジネスマンが寄って来るようになるが、多くは「意識が低すぎる。スピードが遅すぎる。」と長く留まることはない。
しかし、それで良いのだ。
彼らは世界を変えることを目的としていない。
ただ好奇心を満たそうとしているだけで、たまたまそこに世界を変えるかもしれない種があっただけである。
いつか彼らが本気でアイディアを社会に還元しようと事業化を決意する時が来るかもしれないが、それに十分な素養を養うまでには長い時間がかかる。
プロジェクトのミッションが大きければ大きいほど時間がかかる。
もしあなたがビジネスマンや投資家なら、そんなシーンを見つけ、事業化を説得することがあなたの仕事ではない。
あなたがやるべきことは、ただゆっくりと待って、求められた時に全力で支援をするか、もしくはシーンに混ざり、辛抱強く貢献して、ムードを醸成するかのいずれかである。
好奇心の自己破壊性
シーン理論に関連して、最後に好奇心の自己破壊性について触れておきたい。
孤独がカルチャーに変わった時、人は以前のような好奇心を取り戻せるのかという問題である。
一つに、一度カルチャーが出来上がると、孤独から解放される。
解放されずとも、承認欲求は満たされ、情報への渇望は減退してしまう。
もちろん、人が増えれば増えるほど疎外感を感じることは往往にしてあることだ。
シーンメイカーは、その孤独を、また同じようにエネルギーに変える力が問われるのである。
もう一つに、シーンからカルチャーへの以降を経験すると、無知を知るようになる。
つまり、自分が間違っていることへの恐怖がなくなり、自身の信念を過信出来なくなってしまう。
好奇心を持って成長すると言うことが、好奇心を破壊する原動力になり得るのだ。
もちろん無知を知ること、すなわち知的謙遜は、確かに多様性を与え、文化の形成に貢献する。
しかし、シーンがカルチャーにのし上がるには、しばしば「勢い」が必要である。
いつまでも自分がリーダーに居座るのではなく、新しい未熟な人材を進んで登用していく選択肢は十分に検討に値するだろう。
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参照
The Power of Pettiness by Sarah Perry(ribbonfarm)