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【広告本読書録:092】佐治敬三と開高健 最強のふたり

北康利 著 講談社 刊

ユニクロの柳井会長と佐藤可士和さん。
宝島社の蓮見社長と前田知巳さん。
ソフトバンクの孫会長と佐々木宏さん。

経営トップと直接やりとりできる関係性。これは多くの広告クリエイターが心から望むもののひとつではないでしょうか。

なぜか。答えはカンタン。話が早いからです。

特に大手企業ともなると、宣伝担当者と経営トップとの間の距離がえげつないことになります。担当者レベルでOKが出たアイデアが係長、課長、部長、本部長、常務、専務、副社長…と川をのぼる過程でどんどん角が削られ、最終的にはナンノコッチャという形で「GO」がでるという悲劇が今日も日本中のあちこちで繰り広げられていることでしょう。

昔はそれでも大企業の宣伝担当にいわゆる“サムライ”と呼ばれる胆力のある人がいました。しかしスペシャリスト軽視の風潮に加え、コンプライアンスの名目で一人の人材のもとに力が集中することを忌避しだした会社という生き物は人事異動やらジョブ・ローテーションといった小賢しい武器を使うようになります。結果、サムライはほぼ平成中頃には絶滅したといいます。

こういった組織の中では声の大きな人が強かったり、創業者との血縁がある人が最後は決めたりします。そしてその人たちからいかに嫌われないように振る舞うか、がサラリーマン人生において最も重要なテーマということは半沢直樹を一度でもご覧になった方ならおわかりですね。

だから広告制作者の提案がナンノコッチャになるんですね。

そうしたダルいしがらみや意味のない社内政治をすっ飛ばして、ビシッと仕事したいならトップとダイレクトコールの関係にならないといけません。

でもそれはそれでなかなか難しい。大企業のトップともなると、百戦錬磨の魑魅魍魎だったりして。なに考えてるかわからないし、いろんな意味で人格的にも破綻していることが多い。さすがにソニーやトヨタは違うけど、創業社長はもうほとんどクレイジーです。

性格も温厚で話もわかる人格者…が一代で何千人規模の企業をつくれるわけがないんですよね。

そんなバケモノを向こうにして丁々発止とやりあうにはクリエイター側もセンスがどうとかクリエイティブがああとかいってるだけではダメ。きっちり理論武装して、金勘定の話ができて、なおかつシャッチョさんの苦手なアートの話をビジネスサイドにもわかるようにエモく話せなきゃ。

でもほんとうは、そんな対立構造ではなく、お互いにリスペクトしあえるような関係性が理想なんですけどね。

■ ■ ■

そんな理想の結びつきができていた経営トップとコピーライターが、かつていました。サントリーの佐治敬三社長と、芥川賞作家であり寿屋宣伝部のちサン・アドのコピーライター開高健です。

ふたりは経営者と社員という枠を超えた友情で深く結ばれていました。

今回の広告本は、クライアントとクリエイターの関係性としては最高で最強のふたりを描いた評伝をご紹介いたします。北康利さん著の『佐治敬三と開高建 最強のふたり』です。

作家として数々の人物評伝をものにしてきた北康利さん。はじめは佐治敬三伝を書こうと取材をはじめたそうです。しかし、調べれば調べるほどそのビジネス人生に大きな影響を与えているであろう人物の影が濃くなっていきます。それが、開高健だったのです。

そこで、佐治敬三と同じだけの熱量で開高健を描くことで、日本を代表する酒造メーカーの“分断の歴史”と日本文学界の至宝とされた大作家の“知られざる闇”をつまびらかにすることに。

北さんはこの本の執筆のために、当たり前かもしれませんが気の遠くなるような取材と山のような文献にあたっています。結構なサントリーファンを自認するぼくでも知らなかった、敬三の養子縁組の裏話『佐治家 養子の謎』の章では名古屋財界で相当な影響力を持っていた佐治儀助まで調べあげます。

昭和9年版の『日本紳士録』に15歳になったばかりの佐治敬三の名前を見つけるのですが、まさか15歳で日本の高額所得者の仲間入りをしていたとは、当の佐治敬三ご本人も知らなかったのではないでしょうか。

ぼくがいいたいのは、つまり、それだけの力作ということです。経済読み物としても、歴史読み物としても、もちろん人物評伝としても。佐治敬三と開高健の“大河の流れ”を仔細に読み進むにつれて、あなたもきっと涙することになるはず。少なくともぼくは後半、涙なくしては読めませんでした。何回読んでも泣けますよ。

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社長とヒラ社員。稀代の経営者と無頼派作家。それが佐治敬三と開高健なのですが、佐治敬三曰く「弟といってしまうとよそよそしい。それ以上に骨肉に近い」と開高のことを表現しています。それぐらい深いところで混じりあったふたり。その全容は本書をお読みいただくとして、ここでは広告本の観点に基づいていくつかの箇所を抜粋引用しつつ、紹介していきます。

「ほんならあんたの旦那に宣伝文を書いてもらおか。場合によっては、あんたとトレードしようやないか」

もともと寿屋の社員だった牧羊子が、自身の夫を佐治敬三に売り込んだことがきっかけで出会うことになったふたり。佐治敬三は無名の開高健にラジオCMの台本を依頼します。

ともかく開高は後日、原稿用紙六枚に、依頼されたCM原稿を書いてきた。敬三はざっと目を通してみて一驚する。才気のきらめきが行間かた溢れ出していたからだ。

このとき、佐治敬三は原稿料として1枚500円、6枚で3000円を手渡したそうです。現代の貨幣価値にすると25,000円ぐらい。素人に払う原稿料としてはやや多めといえるのではないでしょうか。

のちに稀代の作家として人気を博す開高健が生まれてはじめて手にする原稿料を支払ったのは出版社ではなく自分だ、と敬三は後々まで誇りにしたといいます。

ほどなくして開高は寿屋宣伝部意匠課に正式に入社。先代の鳥井信治郎が片岡敏郎を得たように、息子の敬三もまた、開高入社を機に宣伝部の立て直しに注力しようと奔走します。

三和銀行から山崎隆夫を宣伝部長として引き抜くと、山崎のもとに各方面からさまざまな“サムライ”が続々と集まってきます。坂根進、杉木直也、そして時を隔てて山口瞳。

開高は寿屋宣伝部でトリスウィスキーの傑作広告をいくつもものにするとともに伝説のPR誌『洋酒天国』を発行し、それをきっかけに宣伝部とともに東京に移住することになります。

そのあたりの話については広告本読書録:036『寿屋コピーライター 開高健』で触れていますので、そちらをぜひ。

話を敬三と開高の関係に戻します。寿屋宣伝部を東京に移した後、洋酒天国の発行にも、またサントリーの広告づくりにも脂が乗っているころ、開高に人生最高の朗報が舞い込んできます。芥川賞受賞です。

しかし受賞の喜びは長く続きません。なぜなら開高は稀代の作家であると同時に稀代の遅筆でもあったからです。しかもテーマが定まらないことには何も書けない性分。おまけに洋酒天国の締め切りは容赦なく迫ってきます。

かような状態から開高はやってはならないことをしてしまい(詳しくは本書を)講談社から16年にも及ぶ出入り禁止を喰らいます。どんどん精神的に追い込まれていく開高。その姿を見て心を痛めていたのは誰あろう、佐治敬三でした。

そこで敬三は開高を退職扱いとし、あらためて嘱託にします。給料は月5万円で週2日出社。これで勤務時間に縛られず執筆活動に専念できます。しかも当時の小学校教員初任給が8000円。破格の厚遇ですよね。

敬三は、船場の厳しい丁稚奉公が念頭にある信治郎よりも愛情深い態度で社員に接した。信治郎なら社員に対して友情にも似た感情を持つなどということはゆめゆめなかっただろう。
経営者には冷徹な面も必要だ。情に流されて厳しい決断が出来ないようでは、会社は立ち行かない。しかし敬三の懐の深さが、鬼才たちをのびのびと働かせることにつながったのは間違いあるまい。

そんな佐治敬三が特段、深い友情以上の感情を抱いていたのが開高なのです。もはや社長と社員の絆を超えているほど。それはとりもなおさず敬三のまなざしが文化活動に向けられていたからではないでしょうか。

先代の信治郎も信心深く、社会貢献にかけては相当な入れ込み具合でした。それが敬三の代では豊かな文化活動を通して社会へ貢献しようという進化を遂げたのだと思います。そこに自社の広告宣伝活動に文化の香りをあますところなくもたらせるだけでなく、自らも芥川賞作家になった開高健の存在です。それはもう、絶対に手放したくない唯一無二の存在だったはず。

敬三の広告戦略には、目立つ広告で商品の名前を消費者に印象付けるそれまでの信治郎のやり方とは違い、文化の開拓者としての意識が常にある。のちに彼が公共広告によって国民の道徳心を高めようとして公共広告機構(AC)を立ち上げたのも、そうした考えの延長線上にあったのだろう。

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その後もビールのシェア争いで熾烈な戦いを強いられる佐治敬三と、ままならぬ創作活動並びにストレスフルな夫婦生活での戦いを続ける開高健の絆は深いまま続きます。

カナヅチだった敬三が腰痛改善のためにはじめた水泳を、バックペインに悩む開高に薦めた話。至高のブレンドを編み出し“ザ・ウィスキー”と命名する、というアイデアを開高から聞いた敬三が電光石火の速さでメモした話。開高が敬三とけい子夫人を釣りに誘い、さんざん薀蓄を垂れるも結局釣果があったのはけい子夫人だけだった話。

日に日に名声を高めていた“作家・開高健”は、サントリーにとって最大の広告塔であったが、敬三の前では依然として“寿屋のコピーライター”でもあった。

この本に書かれている敬三と開高のエピソードは、まるで仲の良いやんちゃ坊主同士の友情物語ばかり。二人がじゃれあうようにコミュニケーションを重ねていく様が目に浮かぶようです。

ある日、開高に『南北アメリカ大陸縦断』という冒険の企画が持ち込まれたとき、敬三にスポンサーとなってくれるように相談します。敬三はその場で快諾し、その代わりにサントリーウィスキーのTVCMを3本ほどとってきてほしいと依頼します。

「お安いご用でんがな」そのCMは好評を博し、その年の広告電通賞、フジサンケイグループ広告大賞を受賞します。授賞式で開高はご機嫌で敬三にこう話したそうです。

「どうです佐治はん、私とあんたが組んだ仕事はことごとく大成功でっせ!」
『洋酒天国』から続いている二人の運はまだ尽きていない。開高を大事にしているとまだまだいいことがあると、彼は言いたかったのだ。稚気愛すべしである。

しかし、残念ながら開高は享年58歳にしてこの世を去ります。開高の古くからの親友である谷沢永一先生は『回想 開高健』で開高が佐治をいかに慕っていたかを書いています。

開高をつかんだ佐治は、開高を生涯の友人として遇した。このひとは、才を愛すること敬すること激しく、年少者に対等の座を供する。開高にとっては、終始、ときに甘えうる懐きうる存在であった。佐治敬三に話題がおよぶとき、開高の眼にはうるおいがあった。最後まで、サントリーを、我が家、と観じていた。

開高を亡くした佐治敬三の落胆ぶりたるや。もちろん本書を読めば痛いほどそれが伝わってきます。そして読み進めるほどに、読者も敬三が乗り移ったかの如く落涙しているはず。これ以上はどうぞ、ご一読ください。

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創業当時から広告上手だった寿屋、そしてサントリー。その歴史と変遷はそのまま日本の広告史にスライドできるでしょう。片岡敏郎からはじまり開高健、山口瞳、さらには仲畑貴志、葛西薫と受け継がれるその広告表現の大河はいまだに豊かな水を湛えています。

それは冒頭にも書いた、広告主企業トップとクリエイターの距離の近さがなしえることに他なりません。サントリーの広告を見るにつけ、いまだサン・アドとの蜜月は続いているのだと安堵します。

利害関係を超えた友情でつながれた企業トップとクリエイター。この組み合わせがもっともっと増えてくれば、日本の広告文化がより良い方向に発展していくのではないでしょうか。

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