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【広告本読書録:103】広告がなくなる日

牧野圭太 著 クロスメディア・パブリッシング 発行

ショッキングなタイトルの本です。

で、書店で手にとると、もっとショッキング。

なんとこの本、縦開きなのです。わかります?縦開き。こんなかんじ。

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どうです?もうこの時点で「おおお」ってなりますよね。こんな調子で固定概念を崩されていくと読み終わる頃に本当に広告はなくなっているんじゃないか。「わわわ」とおもいながら青山ブックセンターをあとにしました。

ちなみにあまたある書店のブックカバーでぼくがいちばん好きなデザインが、この青山ブックセンター(ABC)のカバー。

シンプルで、色味も書体もシック。こういうのが大人のデザインだよなあといつもほくほくした気分になります。

ぼくはあらかじめ大事だとわかっている本は必ずABCで購入することに決めています。この『広告がなくなる日』もその一冊です。最近だと古賀史健さんの『取材・執筆・推敲ー書く人の教科書』がそうでした。

ただ、名著との出会いは偶然だったりもします。

今年すでに名著ナンバーワンの座を揺るぎないものにしている原野守弘さんの『ビジネスパーソンのためのクリエイティブ入門』はふらっと入ったジュンク堂池袋店でした。ワタナベアニさんの『ロバート・ツルッパゲとの対話』はブックファースト新宿店だったっけ。

読んで良かった本はABCで買い直そうか、ともおもうのですが、さすがにそれはやりすぎかと行動には移していません。

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そうそう『広告がなくなる日』のチャーミングなポイントはもうひとつあります。それはいわゆるアマゾンなどのネット販売を基本的にしない、という販売方針。本屋さんでしか買えないのです。

いいなあ、このスタンス。本屋なら何時間でもいられるぼくにとってはとても好ましい姿勢です。あ、なんか上から目線ですね、すみません。

縦開きにしても、本屋さんでしか売らないのも、どちらも著者の牧野圭太さんの極めて個人的な想いやこだわりから。そのせいで一度は出版ができなくなるところまでいきかけたんだそうです。

牧野さんも本編で書いていますが、クリエイターはいい意味でわがままで、どこか天の邪鬼です。同書の仕掛けはまさに牧野さんのわがままが現代の出版の秩序だらけの常識にドロップキックをかますようなもの。

しかしドロップキックでおしまいになってしまってはただの初代タイガーマスクです。その最も個人的なことをきちんとエグゼキューションまで持っていくことではじめてクリエイティブワークは完結するのです。

だからこうして無事に(?)ほぼ目論見通りの仕様で出版されるところまでこぎ着けたのは、ひとえにも牧野さんのクリエイティビティの発露によるもの。

これはすでに広告クリエイティブの手法が、広告という枠をはみ出て出版の世界でも通用どころか有益であることの何よりの証左ではないか。

そのことをまさに身をもって読者に提示してくれている点も『広告がなくなる日』の醍醐味なのかもしれないなあ、とおもいました。

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さて、この『広告がなくなる日』ですが、内容は最先端のクリエイティブ事例を引用しながら、これまでの広告を振り返りつつ、これからの広告のあるべき姿について語られています。

令和時代の前提は平成のそれとも昭和のものともまるで文脈が異なってきます。にも関わらず、テレビをつければ旧態然とした販促があたかも広告のメインストリームであるかのような顔をして、どうでもいい差異について垂れ流している。

別にカンヌで賞を獲ることが全てではないが、それにしても世界の潮流から大きく外れてしまった日本の広告。もはやハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違い、みたいな単純な表現の問題ではありません。

もっと本質的な、広告産業そのものが社会課題とどう向き合うか、という意識の差。文化の成熟度が日本だけ大幅に遅れてしまっているのではないか。もちろん牧野さんはそこまでは言って(書いて)いませんが、でも行間からはそんな危機意識、問題提起が伝わってきます。

もちろん、だからといってただ悲観しているわけではなく、逆に新しい領域に向かって広告クリエイティブをもっと活かしていこうという提言がなされています。それがブランディングや社会課題解決といった分野への積極的進出です。

つまり、昭和から平成にかけて主流だった、高い料金を払ってマスメディアに載せるはいいが、ある一定の期間が過ぎたら使い捨てられる広告クリエイティブから、持続する、あるいは運用し育てていくクリエイティブへ。

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ここで急にぼくの話をするのですが、ぼくはいわゆる消費財の広告をつくらない、というかつくれないコピーライターです。つくった経験はありますがごく短い期間、限られた分野(自動車、不動産、流通小売)のみ。そして大手メーカーが莫大な予算を投下して行なうマスでのキャンペーン、なんてのは無縁のコピーライターでした。

代わりに長いあいだ採用広告、いわゆる求人広告の分野でバリバリやってきました。そしていまはそのキャリアを活かして企業のインナーブランディングやプロダクトのブランディング設計、そこから付随してネーミングやPRコピーなどをつくっています。

ぼくはながらくマス広告にコンプレックスを抱いていました。憧れあり、やっかみあり。つくづく自分の運のなさをのろったりしました。のろうべきは実力のなさなんですけどね。

だけどいつの間にかそういった考えは雲散霧消していて、気づけば目の前のクラフトワークが楽しくなっていたんです。

なんかこう、実際に応募の数や質の変化という目に見えてわかる効果性や、社員たちのモチベーションが変わっていったり、買う人の層が広がったりする手応えを感じていると、実業をやっているような気持ちになってきて、それは心を満たすに充分な温かさがあるんですよね。

この『広告がなくなる日』にかかれている世界は、ですからぼくにとっては非常に腑に落ちるというか。最新にして最先端にして納得感ある。

ああ、そうだそうだ、もっとすごいマスのクリエイターの人たちが、ブランディングや商品開発、地域創生などにすばらしいアイデアを出してくれるようになると、すごくいいのに。

そんなふうにおもえたのです。

もちろん、すでに一部のクリエイターの方は進出しておられますよね。その裾野がひろがると、コピーライターやデザイナーという職業がもっともっとふつうの地道な仕事として認められる社会になるんじゃないか。

そうなってはじめて、文明から文化へと一歩、前進するんじゃないか。クリエイターの仕事がこれから先の「文化していく社会」に貢献することになるんじゃないか。

そんなふうにおもえるんですよね。わくわくします。

と、いうことで『広告がなくなる日』はあんがい早く来たほうがいいんじゃないかな、とかつて広告に恋焦がれてこの道(ちょっと脇道でしたが)に入ったおじさんは静かに目を閉じるのでありました。

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