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数寄者の系譜-能因・登蓮・西行

▢ 「すき」の変遷

現代の「すき」の用法の主流は「わたしはあなたが好きです」の「好き」である。これは「like」や「love」で「こころが引きつけられる」という意味だ。もうひとつ、「物好き」の「すき」がある。加トちゃんの「あんたも好きねぇ」の「すき」。あれである。「片寄った好み」という意味で、今日では傍流だが、平安時代ではこの加トちゃん用法の方が主流である。
たとえば、有名な伊勢物語40段。

昔の若人は、さるすける物思ひをなむしける。

伊勢物語40段

訳は「昔の若者はそのような一途に異性を好む物思いをしたものだ。」となり、この「すき」は「異性に熱中する」という意味である。たた、違いもある。現代の加ちゃん用法では、対象の特異性に重心があるが、伊勢の「すき」は「ひたむきに打ち込む」という「一途性」の方に重きがある。

また、平安時代の「すき」は「一途性」の対象によって2つに分類される。ひとつは、今挙げた伊勢物語の恋を対象にした「色好み」系。もうひとつが詩歌管弦を対象にした古語でいう「あそび」系である。

面白いのは平安末から「数寄」という表記が現れてくることだ。これは色好みや他の芸道と区別され「歌道に一途にうちこむ」という単独の意味で用いられる。

そしてややこしいことに、これが室町時代に変移する。歌論書「正徹物語」で「歌数寄」に対して「茶数寄」という言葉が用いられているが、この時代、偏執狂が茶の湯にも多く出現するようになる。あげく、茶道が「数寄」の主流になり、室町以降は「数寄」といえばもっぱら茶道になる。

「数寄」の変遷

ちなみに「数寄」は単に「すき」の当て字で、「運命のめぐりあわせが悪い」という意味の「数寄(すうき)」とは無関係である。念のため。

この数寄の意味をふまえて、歌の数寄者(すきしゃ)として浮かび上がってくるのは、能因法師、登蓮法師、西行法師である。

▢ 能因法師(988-?)

能因は平安中期の歌人であり、その時期は「数寄」の表記はない。彼が「数寄者」と認識されたのは平安末期である。平安末の「袋草紙」と鎌倉期の「古今著聞集」において「白河の関」のエピソードが取り上げられ、特に「古今著聞集」においては「数寄者」として紹介されている。

能因はいたれる数寄者にてありければ、
  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
と詠めるを、「都にありながらこの歌を出ださむこと念なし」と思ひて、人にも知られず、ひさしくこもり居て、色を黒く日に当りなして後、「陸奥の方へ修行のついでに詠みたり」とぞ披露し侍りける。

古今著聞集 和歌第六

能因は、都で詠んだ「白河の関」の歌を日焼けすることによって長旅を偽装し、自分の歌のアリバイをつくっているのである。能因の歌への偏執的こだわりはまさしく「いたれる数寄者」といえる。

しかし、である。水を差すようだが、この能因のエピソード、じつは話自体が数寄者能因を印象づけるプロバガンダであったという疑いもある。

二年の春、みちのくににあからさまに下るとて、白河の関にやどるとて

能因集

自撰の家集「能因集」の「白河の関」の歌の詞書きである。このことは「数寄者と中世文学」(木下華子)で取り上げられているが、同時に能因が二度も奥州の旅を敢行していることも示されている。

それは、旅が能因の「数寄」の精神を形成していた、いや、むしろ「数寄」には旅が必要だった、ということを表しているように思える。そう考えると先のエピソードも、そのことを伝播するための広告的フィクションと受け取ることもできないことはない。

▢ 登蓮法師(生没年未詳)

登蓮という歌僧の人物像は、鴨長明の歌論書「無名抄」(1216年)の「ますほのすすき」にでてくる。話はつぎのようにはこぶ。

雨の降る日、ある人の家に親しいものが集まって話している。そのうち謎の歌語「ますほのすすき」のことが話題になる。すると座にいた老人が「摂津の渡辺に、ますほのすすきをよく知っている聖がいると聞いた」という。それを聞いた登蓮は家の主に「蓑と笠を貸してくれ」というやいなや、周囲の制止も聞かず、降りしきる雨の中へ出ていった。

「雨が止んでからにしてはどうか」と制止する一座の人たちに対しての登蓮は次のごとくである。

「いで、はかなき事をも、のたまふかな。命は我も人も雨の晴れ間など待つべき事かは。何事も、今静かに」とばかり言ひ捨てて往にけり。

無名抄「ますほのすすき」

  命は我も人も雨の晴れ間など待つべき事かは

登蓮のこれ。しびれるセリフである。直訳すれば、
  命というものは自分もあの聖も雨が晴れるまで待つという保障はない。意訳すると
  わたしもあの聖もいつ死ぬか分からない。
  雨が止むのを待って
  知らないままでおわったらどうするんだ。
最短訳は
  人はいつ死ぬかわからん いますぐいかなきゃ。
最々短訳は
  われ行動する故に我あり

この登蓮を長明は「いみじかりける数奇者なりかし」と称した。
謎とされた「ますほの薄」の正体を知るためには雨なんか問題にしない。京から摂津渡辺まで数十キロ。それを雨の中、蓑笠のみでむかうのである。ひとつに賭けて生きる人間のすごみを感じる。そんな一途に歌道に突っ走る姿勢を長明は賞賛しているのである。

▢ 数寄者における「出家」と「旅」

雨はわれわれをとりまく外在要因であるとみてよい。それは自分の成すべきこと(道)を逡巡させたり、迷わせたり、はては見失わせたりする。
たとえば、家族。地位。世間。金銭。他の用事。

高校を中退し、サッカー修行のために単身ブラジル、サンパウロへ渡ったカズのようなまねはほとんどの人間はできない。そうしてなにもしないまま一生をおわるのである。このことは、同じ登蓮逸話のでてくる「徒然草」188段において言及されている。

では当時の「数寄者」たちが歌道追求のためにやったことは何か。それは「捨てる」ことである。何を。それは先に挙げた「雨なるもの」。家族、地位、世事等・・・ひと言で言えば「絆し(ほだし)」である。「捨てる」ために彼らは出家して法師になった。そして、それでも不足と思えば旅にでたのである。「出家」と「旅」、それは仏道のためでも、物見遊山のためでもない。あくまで歌道専心のためであった。そこに「数寄者」の特異性がある。

▢ 西行法師(1118〜1190)

西行と登蓮は同時代の人である。こんな話が残っている。

或人云、千載集のころ、西行東国にありけるが、勅撰有りと聞きて上洛しける道にて、登蓮に行きあひにけり。勅撰のこと尋ねけるに、はや披露して御歌も多く入りたると云ひけり。鴫立つ沢の秋の夕暮と云ふ歌入りたるととひければ、それは見えざりしとこたへければ、さては見て要なしとて、それよりまた東国へ下りけると云々。

井蛙抄 頓阿

なぜ登蓮が千載集に選ばれた歌を知っているのかは不明だが、自詠の「鴫立つ沢の秋の夕暮」が選ばれているか否かの確認のためわざわざ東国から京へやってくる西行はやはり尋常でない数寄者である。なにはさておいて歌のためには行動する。これが数寄者のあり方なのである。

▢「数寄」を引き継ぐ者

能因も西行も東国、陸奥を旅し、登蓮もまた筑紫に下っている。
歌、出家、旅は数寄者の三要素である。こう見てくると能因、登連、西行のあとの数寄者の系譜はあきらかである。もちろんそれは、芭蕉、若山牧水、そしてわがアイドルの種田山頭火である。

  あるけば草の実すわれば草の実     山頭火
  やつぱり一人がよろしい枯草


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