国宝《三日月宗近》の刃文を突き詰めて見てみました
東京国立博物館(トーハク)では、毎年1月から、国宝《太刀 三条宗近》が展示されます。今年……2024年……も3月3日まで見られます。
《太刀 三条宗近》とは、いわゆる名物の「三日月宗近」のこと。解説パネルの内容を加味して語ると、作刀したのは……この刀を作ったのは、平安時代後期に、京都の三条に工場……鍛刀場を構えていたという「宗近さん」です。
現在は「刀剣乱舞」というオンラインゲームのキャラの、元ネタとして大人気ですね。トーハクにも、おそらく同ゲームが大好きだったことから、《三条宗近》の大ファンになっただろう、主に女性たちが、わんさか駆けつけて熱心に観覧しています。
なぜ「三日月宗近」と通称されているかと言えば、「刀身に三日月形の刃文があることから」とされています。が、少なくとも現存する鞘などの拵が作られた時には「たなびく雲間に浮かぶ三日月形の刃文」という感じだったようです。これは拵に雲と月のマークが見られることから推測できます。ただし、刀身の反り具合を見ると、この刀身全体の形が「三日月っぽいよね」と言われていたのではないのか? と個人的には思いました。
ということで、刀身の鋒(切先)から見ていきます。
下の写真は、上の写真を拡大したものです。もうここから、ふわふわした雲がたなびくような刃文が始まっていることが分かります。面白い刃文ですね……。この刃文は、作刀された平安時代末期から同じような感じだったのでしょうか。それとも研いでいくうちに変わっていったのでしょうか。
この《三条宗近》は、豊臣秀吉の正室(奥さん)である高台院……通称は「ねね」さん……が所蔵していました。そこから徳川秀忠(台徳院)に伝わり、江戸時代は徳川宗家が大事にしていました。では高台院以前は? となると、その伝来は諸説ありまくりで、はっきりとしません。その諸説の中でも本当っぽい伝来の最後が、戦国時代初期の日野内光さんという公卿が所持していたというもの。
日野家と言えば、藤原北家の真夏流。日本史上の三大悪女とも、応仁の乱→戦国時代のきっかけを作ったともいわれる日野富子さんが有名ですね。日野富子さんは、室町幕府第8代将軍の足利義政の正室です。富子さんの兄は日野家24代の勝光さんで、その2代後の26代を継いだのが日野内光さんです。ちなみに三代将軍の義満から十二代義晴までは、だいたい正室が日野家から出ていて、母親は日野家です。当然、日野家は超有力な公卿だったことになります。
この日野内光さんが、1527年の恵勝寺合戦(桂川原の戦い?)で《三条宗近》を携えて戦死した……という記録が残っています。ということで、同太刀は日野家もしくは、内光が生まれた徳大寺家に伝来していたのかもしれませんね。
なお、刀剣ワールドには、「日野内光(1489年-1527年)が日野富子(1440年- 1496年)の“兄”」と記されていますが、おそらく“日野勝光”(1429年-1476年)と混同しているか単に誤植かと思われます。義理の兄という可能性も考えられますが、49歳も年下の義兄というのは、あまり考えられないかなと。
それは良いとして、日野内光さんの合戦記録に記されている《三条宗近》の通称は、「五阿弥切り」と呼ばれていたとしています。なぜ「五阿弥切り」と呼ばれていたのかは分かりませんが、もしかすると刀身も刃文も、今見るものとは異なっていたのかもしれません。少なくとも日野内光さんの時には戦場で使われたようですし……その後に豊臣秀吉(ねねさん)へ伝来するまでにも使用されて、大幅に研ぎ直された可能性も、ないわけではないでしょう。
なにはともあれ《三日月宗近》の刀身の中ほどを見ていくと、より雲のたなびきや三日月(?)の刃文がはっきりと見て取れます。上の写真を拡大したのが、下の2枚の写真です(データは同じ)。
わたしには「三日月」には見えない……というのが率直なところです。それよりも「たなびく雲」というのが、とてもしっくりと来ます。まぁ別に三条の宗近さんが、月や雲を描いたわけではないので、どちらに見えるか……何に見えるのかは、本来どうでもいい話しなのですけどね。
上の写真は、雲というか月のようと言われる独特の刃文がよく見られる刀身の中ほどを、少し角度を変えて撮ってみたものです。刀身にピカピカと何灯かの光が当たっているので、角度を変えてみると、異なる刃文がくっきりと現れたりすることもあります。
そして茎です。手で掴む柄が施される部分ですね。その茎には、3つの目釘孔が見えますが、そのうちの2つの穴は埋められています。目釘孔をテキトーに開けていたとも思えないので、はじめの2つの目釘孔から茎尻に数cmずらして新しい穴を開けたのには、何か理由があるはずです。もしかすると戦国時代に大幅な研ぎ直しなのか磨り上げを行なったことで、刀身全体のバランスが変わったので、穴も開け直したのかもしれません。
茎の写真をよく見てみると、なにか文字が銘打たれています。拡大して見てみると「条」と刻まれているように見えます。当然、「三条」という文字のはず。ですが、どんなに写真を拡大しても「三」が見えません。変だな……と思って、ColBaseに掲載されている画像を確認してみましたが、やはり「三」の全体は見られませんでした。これを改めて見てみると、やはり三条宗近が作刀して以降に、この太刀は磨り上げ……作り直されているのではないでしょうか。そうでなければ、宗近が完成させてから「三条」の銘を刻んだはずなのに、その一部の「三」が、ほとんど消えかかっている理由が分かりません。
■「三日月」の由来を本阿弥さんが語っている
わたしは「三日月」の由来が、刀身の反りの印象から来ているのではないか? と、今回の展示を見て思いました。ただし、一般的には「刃文に三日月の形が見えるので、『三日月宗近』の号をもつ」とされ、Wikipediaには「三日月宗近の名前の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる」としています。
昭和17年に発行された本阿弥光遜さんの『刀剣鑑定秘話』には、その「三日月」の由来について触れられています。本阿弥光遜さんは、言うまでもなく、江戸時代以前から続く研師または刀剣鑑定師の権威である、本阿弥家の系譜にある方です。血は継っていないようですが、本阿弥家を継いだ方です。
結論としては、おおむね上述の由来を支持するもので、もう本阿弥さんがおっしゃっているのだから、はじめに「三日月宗近」と呼んだ人が、どんな思いで名付けたのかは確定できませんが、少なくとも現代の人たちは「刃文に三日月の形が見えるから『三日月宗近』」というのが、正解ということになります。
著作権がとっくに切れている書物なので、いちおう、その触れられている部分について、書き起こしておきます。興味のない方は次項に飛んでください。
■《名物 三日月宗近》を収める鞘(さや)も見られます
現在、《三条宗近=三日月宗近》の隣には、それを収める鞘(さや)……《梨地菊桐文蒔絵糸巻太刀鞘》が一緒に展示されています。わたしは知りませんでした。鞘しか残っていなんですよね……手で掴む柄の部分がないんです。紛失しちゃったんですね。
いつ作られたものか分かりませんが、色んな菊紋と桐紋が金蒔絵で施されていることから、ストレートに考えれば、豊臣秀吉または正室の“ねね”さんが所蔵していた頃に作られたものでしょうね。
正面左側の太刀緒には雲のマークが、右側には三日月のマークがあしらわれていますね。また足金物(一の足)というのでしょうか?……の付け根には雲と三日月マークが、二の足の付け根には桐紋があり、足金物には桐と雲のマークが交互に配されているようです。
↓ 色んな菊と、太閤桐っぽい桐紋がぱらぱらとあしらわれています。
↑ 撮るのを忘れましたが、鞘の尻の部分には、石突金物というものが無く、ちょっと摩耗しています。もともと金物を付けなかったのか、もしくは途中で外れて紛失してしまったのかは分かりません。
ということで、かなり徹底的に見てきました。この《三日月宗近》に限って言えば、これまでも何度か見ていることもあり、前述の本阿弥光遜さんよりも、わたしの方がじっくりと見たと言えるのではないでしょうかw 本当は、昨年開催された特別展『東京国立博物館のすべて』の時のように、太刀の裏側も見られれば良いのですが……裏側も見られるように展示されることは、今後もめったにないかもしれませんね……。
ということで、次回あたりでは、現在見られる他の刀剣についてnoteしていきたいと思います。
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