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トーハク散歩のススメ……自分基準の“美しい”を探しに……

東京国立博物館(トーハク)ですが……1,000円という破格の入場料で、国宝や重要文化財の指定品を含む、日本トップクラスのお宝を一日見放題ということで、最近ではどの曜日のどの時間帯に行っても、むちゃくちゃに混んでいます(金曜と土曜の18時〜20時の各2時間は除く)。

前回も、そんな混み具合だったので、できるだけ誰からも見向きもされていない、じっくりと見られる展示品を、飛び石のように伝って見ていきました。こうして見ていくと、いつもとは異なるジャンルの展示品を見ていくことにもなり、今まで気が付かなかったそれらの魅力に気が付くこともできて、楽しいものです。

そういうわけで、普段はnoteすることもあまりない、素敵な展示品の数々をnoteしていきます。

■暗いから特別感もある漆工芸の小部屋

トーハク本館の1階にある、たくさんの仏像を通り抜けた先に、うす暗い小部屋があります。主に江戸時代以前に作られた漆工芸品が並んでいるんですけど……ここには美しいものがたくさん展示されています。

いつも写真を撮ってみるのですが、光(紫外線?)に弱い漆を守るためだと思いますが……部屋がとてつもなく暗いんです。なので、わたしの10年前くらいに買ったOLYMPUS PEN-Fデジタルで、展示品を高解像かつブラさずに撮るのは至難の業なのです。

《菊螺鈿鞍》鎌倉時代・13~14世紀|木製漆塗

写真が上手に撮れないのと、漆芸に詳しくないというのもあって、ほとんどnoteに記したことはありませんが……本当にきれいなものが多い部屋です。

《菊螺鈿鞍》鎌倉時代・13~14世紀|木製漆塗

解説パネルには「やや薄い貝片を使用して幅1mmに満たない輪郭線に切
り透かし、菊の花枝・蜻蛉・蝶などを描き出しています」と書かれています。そして撮ってきた写真を拡大して見ると……彫った人の手の仕事っぷりが見えてくるんですよね……すごいです。

《菊螺鈿鞍》鎌倉時代・13~14世紀|木製漆塗
《菊螺鈿鞍》鎌倉時代・13~14世紀|木製漆塗

■ジーッと見ていると美しいような気もしてくる刀剣

漆工芸の部屋を後にして、隣の明るい部屋へ行くと、いくつもの刀剣が見えてきます。先週展示替えされたばかりで、今季は2振りの国宝が並んで展示されています。相変わらず贅沢な展示です。

行った日は、台風が近づいていて東海道新幹線も運休するような日なのに……トーハクには大勢の外国人が詰めかけていました。外国の博物館って、あまり行ったことはありませんが、トーハクくらい素晴らしい“自国製”の展示品が並んでいるところって、少ないのではないでしょうか? だって、欧米系の博物館は……やめておきます……。でも、おもわず……「どうだ? すごいだろ?」って、話しかけたくなりますね。

国宝 短刀(名物 厚藤四郎) 粟田口吉光 鎌倉時代・13世紀

使い方は「鎧通し」でしたか……通称が「厚藤四郎(あつしとうしろう)」と呼ばれるとおり、とても分厚いことで知られる短刀です。どれだけ分厚いのか……下から覗き込むように見てみましたが、いまひとつ厚みは分かりませんでした。それにしても、国宝の刀って、一度で良いから持ってみたいですよね。「絶対ダメ!」って言われるでしょうけど、刃の部分を指で撫でてみたいし、どのくらいの切れ味なのかを自分の指先あたりで少し試してみたい気もします。すんごい切れ味が良ければ、それほど痛くないんじゃないかなぁ……なんて。

国宝 短刀(名物 厚藤四郎) 粟田口吉光 鎌倉時代・13世紀

■実は薬入れを見せていた黄門様……「この紋所が目に入らぬか!?」

刀剣の部屋は、ものすごい人で、落ち着いて見るのが難しい雰囲気だったので、同じく本館の2階に上がってみました……。

浮世絵でも見てみようかなぁ……なんて思ったのが間違いでした。観覧者がずらりと並んで見ていたので、その列に並んで気ぜわしく見ていくのも嫌なので、比較的に目にする人が少ない印籠を見てみることにしました。

これも漆工芸品ですね。ライティングも暗くて……ガラスケースも古くて少し曇った感じがするので、肉眼ではよく見えません。こんなにキレイなものなのに、もったいないなぁといつも思います。

《五十三次蒔絵印籠》
底裏金蒔銘「梶川作 英(朱漆描壺印)」
江戸時代・19世紀|金薄肉高時絵、金金具
クインシー・A.ショー氏寄贈

《五十三次蒔絵印籠》という名前からして、東海道を描いた作品のようです。ググッと写真を拡大して見ると……わぁ〜お! 細かく山水の景色が描かれていて、各宿場の特徴が分かるようになっているようです。豆粒くらいの大きさで、人まで描き込まれていますよ……超絶技巧ですね。

こちらは《鳩蒔絵印籠》とあります。蒔絵って、ほんとキレイですよね。どうやったら、こんなにキレイなものを作れるんでしょうか。

《鳩蒔絵印籠》
底裏金時銘「茂永茂永(朱漆方印)」|江戸時代・19世紀
金・青金研出蒔絵
クインシー・A.ショー氏寄贈

こちらもクインシー・A・ショーさんが寄贈してくれたものです。主に江戸時代に作られた印籠や根付などを買い取って守ってくれて、しまいにはトーハク(おそらく戦前の帝室博物館へでしょうか)に寄贈してくれたという……感謝しかないですね。

同じ展示ケースの、印籠の隣には、印籠に付けて楽しんでいたアクセサリー……根付(ねつけ)が展示されています。が、今回は根付ではなく、ケースの裏側に展示されている、かんざしや櫛などを見てみました。

かんざしや櫛を見ていたら、印籠を見てきた若い女性が、わたしの隣でケースを覗き込む男性に話しかけてきました。きっと恋人か夫婦なのかなのでしょう。

女性が「ねぇねぇ、印籠って薬を入れるものだったって知ってた?」
男性は「うぅん……知ってたよ」
女性が「知ってたん? じゃあ『この紋所が目に入らぬかぁ〜!』って突き出してたのって、薬入れを見せてたってことなんやね。なんか笑えるわぁ」

という微笑ましい会話を聞いて、少しほっこりとしました。

■きれいでおしゃれな小袖です

普段、博物館などへ行って着物を見ることは、ほとんどありません。これまで着物をnoteしたことも、1度か2度くらいだったでしょうか。

でも、この日はあまりにも混んでいたので……比較的にゆっくりと見られる着物を見てみたんです。いくつか展示されているなかで、この《小袖白綸子地竹垣萩文字模様》という小袖がきれいでしたしおしゃれだし……。

《小袖白綸子地竹垣萩文字模様》
江戸時代・18世紀|綸子(絹)、刺繍、型染、描絵
野口彦兵衛旧蔵

あれ? 文字みたいなのが書いてありますね……ということで解説パネルを読んでみました。

解説パネルには「清少納言の父、清原元輔(908~990) の和歌『秋の野の 萩の錦を ふるさとに 鹿の音ながら うつしてしがな』(『元輔集』)を文字散らしで意匠化しました。錦のように美しい萩の野を鳴く鹿の声とともにわが故里に移したい、と詠じています」と書かれています。

文字が浮き出るように見せるんじゃなく、秋の野に溶け込むように散らしているあたりが……なんておしゃれだろ……。

■この人、どこかで見たことある……

ちょうど誰もみている人がいなかったので、浮世絵も2点だけ見てみました。歌川国貞(三代豊国)さんの、《夏の朝》……なんだかすっきりとしたタイトルですけど……歌舞伎の演目かなにかかな……とよく見れば……。

《夏の朝》
歌川国貞(三代豊国)(1786~1864)筆|江戸時代・19世紀
大判錦絵 3枚続

このちょんまげのお兄さん……どっかで見たことあるよなぁ……と……にせ……偽紫……『偐紫田舎源氏』の足利光氏さんじゃないですか。《夏の朝》なんていう爽やかなタイトルで、作品解説もなかったので、見過ごすところでした……もちろん見過ごしてもいいんですけどね。

《夏の朝》というわりに、着物の柄に、椿っぽいのが見えるんですけど、これは椿ではないのかな……。ほかはクチナシ? ユリ? キク? などですかね……。

版元(板元?)は「住政」というところのようです。

↓ 以前のnoteに、東京都美術館で見た『偐紫田舎源氏』がいくつか載っています。

浮世絵は、もう1つ喜多川歌麿の《蚊帳の母子》を見てきました。これは前回来たときにも見入ってしまった作品です。お母さんが蚊帳(幌蚊帳)の中で子どもに話しかけながら授乳している場面です。喜多川歌麿さんって、美人画とか役者絵というイメージが強かったのですが、こんな優しい空気感の絵も描いているんだなあと。そう思いつつ解説パネルを読むと「歌麿は母子絵を得意としたことでも知られる」といったことが書かれていました。そうだったんですねぇ。

《蚊帳の母子》
喜多川歌麿(1753?~1806)筆|江戸時代・18世紀
大判錦絵

■何に使った? トーハクの異形土器

浮世絵の部屋から、近代の書画の部屋へ抜けようかとも思いましたが、そちらから向かってくる人の波がすごかったので、一度展示室を出て、反対側の1室へと向かいました。ここは縄文や弥生の土器や土偶、埴輪……それから飛鳥時代の仏像などが、各時代1-2点ずつ展示されています。

その中で、今回は撮っておきたいものがありました。長野県茅野市の北山糸萱(いとかや)から出土した、前3000年から前2000年の縄文時代中期に作られた《香炉形土器》です。

先日のnote『ヘンテコな形の縄文土器(異形土器)が、千葉県松戸に大集合!』を書いている時に、トーハクにも香炉形の土器が展示されているなぁと思い出しました。改めてどんな形だったかなぁと、見てみると……ほんとに過剰な装飾なのですが、過度にデザインするっていうのは不思議なことではないんですよね。わたしたちも普段、実用とは無関係の装飾が施されたものを使っているんですから……飾りたいというのは人間のサガなのでしょう。ただ、この器が、どんな目的で使われていたのかには興味が尽きません。

■槍が背中に刺さった古代人が描いた狩猟図

やっぱり本館は混んでいるなぁということで、東洋館へ行ってみました。あまり行かない東洋館の中でも、定期的にチェックしに行っている中国書画の部屋は、台湾人を含むのか中国人観光客で混んでいたので、エレベーターで最上階へ。

最上階は、朝鮮・韓国の部屋です。

《獣文飾板》は、これも元は何に使っていたんだろう? というような形です。人や馬の防御用の鎧の破片……かなぁとわたしは思っていますが……シカやイヌが描かれている(イヌは未確認)ので、狩猟に必要な何かだったのかもしれません。

《獸文飾板》
伝韓国慶州出土|初期鉄器~原三国時代・前3~前1世紀|青銅
小倉コレクション保存会寄贈

2頭のシカがよく見えます。左側のシカの背中には槍がブスッと刺さっていますから、やはり狩猟の図なのでしょう。シカの描き方はシンプルなのに対して、周りの装飾が細かいのに驚きます。その装飾の細かさを見ると、もっとシカも精緻に描かたんじゃないかなとも。あえてシンプルな描き方をしたんでしょうか。

《獸文飾板》

■木製ではなく鉄製だった煙草入れ

19〜20世紀……ということは明治〜大正の時代くらいに朝鮮で作られた、《煙草入》です。木彫かなぁと思って見ていたのですが、いま解説パネルを確認すると、「鉄製」と書いてあってびっくり。

《煙草入れ》
朝鮮|朝鮮時代・19~20世紀|金属製

これって鉄製なのか……と認識を改めてから想像し直してみると、すごく重そうです。

解説パネルには「銀を文様にはめ込む象嵌技法によって、蓋には囍の字が、側面にはは不老長寿を示す鶴や鹿の文様がほどこされています」とあります。読んでも、どう作ったのが想像できません……。

■見たかった《菩薩半跏像》はまだありません( ;  ; )

これまで何度も見てきた小さな《菩薩半跏像》。やさしい表情なのが印象的です。

この小型の仏像を集めた展示ケースの隣に、独立ケースに入れられた、これよりも少し大きな京都・八瀬やせの妙傅寺所蔵の《菩薩半跏像》が、展示されていることがあります。撮影禁止なうえに、おそらく“あえて”目立たないように展示されているんです。その菩薩像が「そろそろ再展示されていないかな?」と思いながら、今回もやってきました。そして今回も残念ながら、展示されていませんでした。

《菩薩半跏像 TC-669》
朝鮮| 三国時代・7世紀|銅造鍍金
小倉コレクション保存会寄贈

京都・八瀬やせの妙傅寺所蔵の《菩薩半跏像》については、以前、詳細をnoteしたことがあります。仏像ファンであれば知っておきたい菩薩像と言えるんじゃないかと思います。

この京都・八瀬やせという場所は、天皇の大喪の礼の時に、棺を担ぐ役割を担っていた人たちが住んでいる地域です。そうした特別の場所にあるお寺の仏像なので、やはり特別なものが置かれたのかも……しれません。

■精緻に織られた生地を何枚か……

フロアを下りていき、中国大陸のコーナーへ。部屋の一画に、いつも布っきれというか……が、展示されている場所があります。ここも定期的に展示品が変わるのですが、今回は以下の通りでした……。

《卍繋地花唐草文様経浮紋織》
中国|明時代・17世紀|経浮紋織(絹)

布なので、上の全体像を撮った写真では確認できませんが、解説パネルにあるように「卍繋ぎの上に、リズミカルに円を描く菊、牡丹の唐草文様が織り出されています」。

解説は続けて「これは浅葱の綾地に、太い黄色の経糸をさらに織り入れ、文様にあわせて浮かせることで表したものです。密に織られた地と比べて、よろけた風合いの唐草文様が味わい深い作品です」とありますが……そう書いてあるとおり、じっくりと見るほど味わい深いです。写真を拡大してもらうと、「密に織られた地」も「よろけた風合いの唐草文様」というのも分かるはずです。

《卍繋地花唐草文様経浮紋織》

その隣に展示されているのが《白地霊芝文様金襴大燈金襴》です。金襴ですが、キンキラしている感じではなく、落ち着いた風合いです。

《白地霊芝文様金襴大燈金襴》TI-190-25
中国|明時代・14~15世紀|綾地金欄(絹)、平金糸

金糸で渦を巻く霊芝雲を織り出しています。霊芝とは万年茸を指し、その形の雲は、長寿を願う吉祥文様として親しまれました。よく見ると、白地の裂には綾織で細かく円文が織り表わされています。「大燈」の名は、禅僧大燈国師(1282~1337)に由来すると言われています。

解説パネルより

下のように拡大してみても、解説に書かれているような文様を視認するのは難しそうです。地と文様の色が、もう少し異なると、文様が浮き出てくるんでしょうけどね。

次は《紫地鳳凰文様銀襴 興福寺金襴》です。

《紫地鳳凰文様銀襴 興福寺金襴》
中国|元時代・14世紀|綾地金欄(絹)、平銀糸

「興福寺金欄」と呼ばれてきた名物製ですが、実際は銀糸を織り込んだ銀欄です。興福寺の帳に用いられてきたという由来からこの名称で伝わりました。よく見ると、綾織で細かく地紋を織り出した紫の地の上に、銀糸で翼を広げた鳳凰と雲を表してします。

解説パネルより

こちらは、鳳凰とそれを囲むように描かれた雲によって、“おにぎり形”の文様がなんとなく分かります。日本人はよく「手先が器用で、細かい作業でも根気よく丁寧な仕事をする」などと言われますが……いやいや、日本人の“中にも”そういう人はいますが、中国人の“中にも”そういう人は昔からたくさんいたのでしょうね……と、中国の遺物をみていると感じます。

■いつも“あんにゅい”な表情の加彩女子

中国のフロアの代表的な展示品に「加彩〜〜」があります。こちらも頻繁に展示替えされていますが、よく展示されているのは《加彩女子》や《加彩舞人》などの女性です。なぜか決まって無表情というか、ムスッとしているというか、あんにゅいな雰囲気が漂っています。

《加彩女子 TJ-4834-16》
中国|唐時代・8世紀
宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈
《加彩女子 TJ-4834-16》
《加彩女子》
中国/唐時代・8世紀
横河民輔氏寄贈

頬を覆うようにふっくらと丸みをもたせて結い上げた髪を頭頂部で一つにまとめ、髷をつくるように束ねています。この髪型は唐時代後期に身分の高い女性たちのあいだで流行したものです。女性の俑は化粧や服飾の視点からもたいへん興味深い資料といえます。

解説パネルより
《加彩女子》
《加彩騎馬俑》
中国|南北朝時代(北魏)・6世紀|灰陶加彩
個人蔵

副葬用に作られた陶製模型です。バレードを構成する楽隊の一員で、楽人の右ひざには鼓が据えられています。左手に手綱を、右手に撥をもつ仕草を表現しています。馬の精悍な立ち姿と楽人の柔和な表情からは、北魏の造形感覚の鋭さと高い技術力がうかがえます。

解説パネルより
《加彩騎馬俑》

■最近、彫刻みたいな絵にハマっています

先日、国宝の《線刻蔵王権現像》をnoteしましたが、あれ以来、トーハクへ行くたびに《線刻蔵王権現像》をチラッと……と言ってもガラスケースに顔を近づけて見ています。ああして金属とか石とか硬いものに「刻む」でいる絵にハマっています。

ということで、少し風合いが異なりますが、こちらは6世紀の中国で彫られた《印文磚(いんもんせん)》です。「ということで」なんて書きましたが、いま撮ってきた解説パネルを読んだら「型押し粘土に文様や文字をスタンプして焼成」しているそうで、刻んで描いたものではなかったです。

《印文磚(いんもんせん) TJ-674》
中国|北斉・天保八年(557)|土製
横河民輔氏寄贈

北斉の王都に用いられた建築部材です。型押し粘土に文様や文字をスタンプして焼成しています。人面鳥身の図像の上下に「千秋」「萬歳」とあります。道教の理論実践書『抱朴子』に「千歳の鳥、万歳の禽、みな人面鳥身」とあり、この図像とよく一致します。

解説パネルより

そっか……スタンプを押していったってことは、そっちのスタンプを作る時に彫ったり刻んだりしていたわけですね。このバストアップが人で、ボディが鳥って……すごいな。人って、人魚もですが、合体させるのが好きですよね。空を飛びたいとか海を泳ぎたいとか、願望を形にしていったのでしょうか。

■作るの大変じゃなかった? と思ってしまう三本足の器

古代の人って「え?」て思うような土器を作りますよね。日本では「異形土器」って言うらしいですけど、こちらは《紅陶鬲(こうとうれき)》です。「鬲(れき)」ってなんだろうって調べてみたら「三足の器」のことを言うそうです。

驚いたのは解説文に「袋状の三足をもつ鬲(れき)は、新石器時代から戦国時代にかけて、華北でもっともよく使われた煮炊き用の土器です」と記されていたからです。この場合、現代人が見ると「異形」に感じますが、ある地域の……この時の場合は前2500~前2000年頃……には、この形が普通……煮炊き用の土器としてはスタンダードな形だったということ。

《紅陶鬲(こうとうれき) TJ-5601》
中国陝西省出土|陝西龍山文化・前2500~前2000年頃
土器

でもこれ、ちょっと考えてみると、もしかすると……燃焼効率がむちゃくちゃ良い形なのかもしれないなぁと。なぜなら……この3つの足の内側に火を入れるとすると、三方向の足の部分が温められる上に、もちろん上方向にも熱が加わりますよね。かといって四方が密閉されているわけではなく、三方は空いているから空気=酸素の通り道も確保されていて、おそらく木片などの燃料がよく燃えそうです。気になるのは足が低いので、太い薪などを燃料に使えないなということ。しかし、この袋状の足の部分も空洞だとしたら、形が複雑すぎて、製造しにくそうですけどね……でも「もっともよく使われた」のなら、ある程度の量産が可能だったんでしょう。すごいな。

袋状の三足をもつ鬲(れき)は、新石器時代から戦国時代にかけて、華北でもっともよく使われた煮炊き用の土器です。時代や地域によって形や色などに違いがあり、様々なバリエーションが生まれました。本作のように把手をもつ例は中国西北部で数多く出土しています。

解説パネルより
《紅陶鬲(こうとうれき) TJ-5601》

そんなふうに考えていたら、さっき通り過ぎた展示室にも三足の器が置いてあったなぁと……それで、戻って撮ってきたのが下の、青銅製の《象文鬲(ぞうもんれき)》です。おぉ〜、こっちも「鬲(れき)」だ……と。上の土器製の鬲が「前2500~前2000年頃(前26世紀〜前21世紀)」に作られたものですが、こちらの青銅製は「前13~前10世紀」とのこと。ざっと1,000年くらい経つと、青銅製になって……さらに足の形とか洗練されている感じもします。

まぁ足の形が変わったのは、足の部分を温めなくてもよくなったとか、燃料の種類が変わって、火の形なのかが変わったからなのかなぁ。

それにしても、なんちゅう昔に、こげなもんを! と……そしてよくトーハクまで来たなぁと感動してしまいます。

《象文鬲(ぞうもんれき) TJ-5510》
中国|殷~西周時代・前13~前10世紀|青銅
中路三平氏寄贈

袋状の三足に象文を飾ります。高は食物を煮炊きして先祖に供えるための器種ですが、本作は底部に彩色していたと思しき痕跡があります。もし実際に底部に彩色していたとすれば、本器で煮炊きしたとは考え難く、もっぱら供物を盛るためのものだったと考えられます。

解説パネルより

■主尊・阿弥陀様が大英博物館にいる観音菩薩像

そうして2階なのか3階なのかから1階を見てみると……いつも足元から仰ぎ見ている大きな《観音菩薩立像》がよく見えることに、初めて気が付きました。冠の「化仏=観音マーク」も、ここからだとよく見えます。

《観音菩薩立像 TC-376》
中国河北省|隋時代・開皇5年(585)|石造(大理石)

台座の銘文に、隋の開皇5年(585)に崇光寺(廃絶)で三尊像の1躯として造られたと記されています。この像の中尊に当たる像(阿弥陀如来像)がイギリス・大英博物館にあり、その銘文から三尊像が韓という姓の一族を中心に100人を超える人々の結縁によって造られたことがわかります。

解説パネルより

大英博物館であれば画像データがあるだろうと思って調べてみましたが、写真データは残っていましたが、詳細ページが削除されてしまっているようでした。ただ、ググってみると、大英博物館に取材したような中国語のブログが見つかりました。

这尊隋代开皇年间的阿弥陀佛石像,矗立在大英博物馆两层之间的楼梯空隙处,腰部有明显的切割痕迹。石像原供奉于河北韩翠村崇光寺。大英博物馆文物档案显示,1935—1936年,伦敦中国艺术国际展览会期间,古董商卢芹斋将此像提交给中国政府,并通过驻英大使,捐赠给该馆。当年赴英参展的故宫专家傅振伦明确表示过,这尊佛像系1915年由卢芹斋盗卖出国。摄影/动脉影

(ChatGPTで日本語訳)この隋代の開皇年間に作られた阿弥陀仏の石像は、大英博物館の2階と3階の間の階段の隙間に立っています。腰部には明らかな切断の痕跡があります。この石像は元々、河北省韓翠村の崇光寺に奉納されていました。大英博物館の文物記録によると、1935年から1936年にかけて開催されたロンドン中国芸術国際展覧会の際に、古董商のルー・チンジャイがこの像を中国政府に提出し、駐英大使を通じて博物館に寄贈されました。しかし、当時イギリスに出展した故宮の専門家である傅振倫は、この仏像が1915年にルー・チンジャイによって盗まれ、海外に売却されたものであると明確に述べています。写真撮影/动脉影

https://www.sohu.com/a/680923066_121124385

なるほどねぇ……なのですが、中国政府から寄贈されたのか、盗品を購入したのかは大違いですけどねぇ。日本の……おそらく帝室博物館に収蔵された観音菩薩は、どのような経緯で収蔵されたのでしょうか。

もう少し調べてみると、なんと英字のWikipediaには、この像の専用ページがありました……。そんなにすごい像だったのか。

Wikipediaにも「1935年から1936年にかけてロンドンで開催された中国展を記念して、美術商のC.T.ルー(卢芹斋)によって中国政府に寄贈され、その後1938年に大英博物館に贈られました。」とあります。“盗品を購入”的なことについては触れられていません。

とにかく台座に記されているとおり「隋朝の開皇5年(585年)に河北省韓翠村の崇光寺で奉納された」阿弥陀如来像ということは間違いないのでしょう。そして現在では、韓翠村も崇光寺の位置も分からないようです(河北省保定市の南西に位置していたと推測はされています)。

そして高さは5.8m……両手はなくなりましたが、右腕は上に上げ、手のひらを外側に向けて無畏の印を示し、左手は下方に位置し、施与印を示していたことが分かるそうです。腕を胴体と接合していたジョイント部の部材はナツメ。胴体の腰の部分で上下に分かれています。

同像について解説している大英博物館のブログを発見しました。

阿弥陀仏の巨大な像が蓮台の上に立っており、白大理石で作られ、金箔と顔料の痕跡が見られます。仏像の腰には接合部があり、両手は失われていますが、腕の末端には手を支えるために設置された木製のダボと鉄製のブラケットが残っています。台座に刻まれた銘文によれば、この像は西暦585年に奉納されました。
現地での処置では、5.78メートルという印象的な高さを誇るこの仏像に積もった埃を取り除く作業が行われました。金箔や塗料の痕跡が確認されており、科学者たちは走査型電子顕微鏡を用いて、失われた腕や手を支えていたダボが、ナツメの木で作られていたことを突き止めました。また、掃除により、部分的に隠れていた銘文が完全に明らかになり、この巨大な像が中国北部、河北省の崇光寺と、**「邑義」(Yi-yi)**と呼ばれる仏教組織の80人のメンバーに関連していることが判明しました。

それにしても大英博物館に阿弥陀如来がいて、トーハクに観音菩薩がいるのなら、最後の勢至菩薩はどこへ? という感じですが、それについてはググっても出てこないので、明らかにされていないのか……まぁ普通に中国のどこかにあるのかもしれません。

ということで、以上です。

<大英博物館蔵の阿弥陀如来立像についての参照サイト>
大英博物館の同像の削除された解説ページをアーカイブしていたページ
大英博物館公式サイト内の同像について記されたブログ風ページ
同像に関する英字Wikipedia
中国人のニュースページ?…大英博物館で窃盗が横行していることを伝えている。関連して阿弥陀如来立像についても言及

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