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ヘタウマなのか? それとも単にヘタなのか? 百人一首の撰者・藤原定家の筆跡 @東京国立博物館
(2023年)7月……つまりは先月のどこかで、東京国立博物館(トーハク)へ行った時に「藤原定家」の特集が組まれていました(6月27日〜8月6日)。
「はて? 藤原定家って、よく聞く名前だけれど、書だか歌だかが上手だった人だったような…」
という具合の曖昧さで、その特集が組まれた部屋へ行ってみました。そこは、いつも「書」が展示されていることが多い場所です。
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さっそくケースの中を覗き込んで見ると……。
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「え? なにこの下手っぴな文字……」というのが正直な感想です。「おいおい、たまにしか文字を書かない、わたしの字よりも下手なんじゃないか?」とすら思いました。
ただし、ここはトーハクですよ。単に下手な文字が展示されているわけがありません。展示されている理由として考えられるのは3つです。
1つ:藤原定家が『小倉百人一首』の撰者だから
2つ:藤原定家の筆跡を展示しているのではなく、『明月記』を展示している
3つ:この下手とも思える字が、実はすごく上手だと評価されている
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まぁどれも正解のようです。3つめの「実は上手」と言うのは、「かっこいい」とか「素敵ね」とかと同じで、主観の問題なので「いやいやいや……これを上手とは言わないでしょう」と思うか、もしくは「うん…これは間違いなく味のある文字ですね。素晴らしい!」と思うかはそれぞれですからね。
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ちなみにWikipediaによれば、下記のように記されています。
「定家の書は、父の俊成と同じく法性寺流より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の書風を成した。能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である。江戸時代には、小堀遠州や松平治郷らに大変に愛好され、彼らは、この書風を定家流と称して大流行させた。」
まぁ「味のある書」として、後世……特に江戸時代に珍重されたということのようです。そして上記にある松平治郷さんが集めた、藤原定家の真筆が、流れ流れてなのか、松平治郷=不昧さんの松江藩の雲州松平家から博物館(トーハクの前身)へ寄贈のような感じになったのかは、または別の人の手を経て購入したものなのか、解説パネルには記されていませんでした。
■重要文化財『明月記 嘉禄二年八月』(1226年)個人蔵
藤原定家(1162〜1241)が治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたって書いたnote……ではなく日記が、『明月記』と呼ばれています。本人は、他人に見せるために記していたわけではないしょうから、「明月記」などとは呼ばず、「愚記」と呼んでいたとも言われます。
自筆の原本の多くが散逸してしまいましたが、それでも「自筆本80巻近くが現存するほか、断簡となったものが数多く伝わ」っていると、トーハクの解説パネルには記してありました。なかでも比較的にまとまって所蔵されているのが、冷泉家時雨亭文庫(国宝)。そして数巻ずつ所蔵されているのが、天理大学附属天理図書館、大阪青山歴史文学博物館、そしてトーハクなどです(いずれも重文指定)。
まずトーハクにありつつ個人蔵なのが、「明月記」シリーズの中でも1226年に記された『明月記 嘉禄二年八月』。トーハクの特集では、その八月の二十二日あたりからの数日間分が見られました。
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解説パネルには、この『明月記 嘉禄二年八月』について、下記のように記されていました。が……わたしには、さっぱり読めず……釈文が転がっていないか探してみましたが、ネット上では見つからず……残念。
定家が晩年にさしかかった嘉禄2年(1226)子の為家が参議(相公)に出世した頃の日記です。定家は為家に儀式作法の助言を与え、また為家も定家を訪問して公務の報告をしています。一方で、定家がしきりに自身の「老屈」(体力の衰え)を嘆く記事も見られます。
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■重要文化財『明月記 天福元年六月』(1233年・定家72歳)
こちらも重要文化財に指定されている『明月記 天福元年六月』。松江藩の藩主で、風流人として著名な松平治郷……不昧の旧蔵品で、トーハクの所蔵品です。
下記写真にあるQRコードから、『明月記 天福元年六月』(一部)をはじめ、トーハク所蔵品に限り、他の展示作品の釈文が見られます。
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上記の後ろから5行目からの一部分は、トーハクの解説PDFに「釈文」が記されていて、何が書いてあるのかが分かりやすいです。
夕、殿下賜御書、大祀歌事、公卿二人、建暦
一度之例也、仍可為非公卿人、已無其仁、経光
如何之趣也、申云、所存先度委申候了、
不被用公卿二人者、経光之外、其人不候歟、
不知歌趣之人、俄勤仕、不可然事歟、中納言
不可見放之故候、申此趣了、今一人、又
為若納言者、已無他人歟、於其歌者、未知
是非之分限歟、繊月初見、二星頗去云々
天福元年6月3日、 摂政の九条教実(殿下)から定家のもとに、四条天皇の大嘗会(大和)の屏風和歌を担当する歌人2名の選考について、相談の手紙が届きます。先例により、うち1名を公卿以外から選びたいという相談に対し、定家は、その条件に適うのは藤原経光の他にいないと回答しています。
以上2つの文章を提示しつつ、ChatGPTに「(釈文を)現代語に書き換えてほしい」旨をお願いすると、下記のように回答がありました。
具体的には下のように、ChatGPTに指示しています。
「以下の文章を現代語に書き換えてください。
(釈文をコピペ)
なお、上の文章に関しては、おおむね次のような内容です。
(トーハクの解説をコピペ)」
あくまでChatGPTの訳なので、どれだけ正確なのかは保証できません。
昨晩、摂政の九条教実殿下から手紙が届きました。内容は四条天皇の大嘗会での屏風和歌を担当する歌人2名の選出についてでした。その中で、過去の例に従い、2人のうち1人を公卿以外から選びたいという相談がありました。
藤原経光はどうか、という問いに対し、私はすでに前回の提案で経光の名を挙げています。公卿以外から選ばれる候補として、経光以外に適任者はいないと考えています。
詩歌に明るくない人々が、急に公務に従事するのは適切ではないと思います。経光は中納言であり、彼を放置するわけにはいきません。今回の選考について、このように考えています。
また、現時点で経光以外に適任者がいないと考えています。その詩歌について、まだ良し悪しの判断はついていません。月の初めに見えた二つの星が少しずつ離れていくように、事情はまだ進行中です。
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上の画像から下の画像に続く「八日」についても、トーハクの釈文があります。
(六月八日)
昨日、以書状、示合師季朝臣事、志貴皇子、萬葉集載数首、新古今、自他任彼集撰上之、又被入了、今案、此皇子、如国史、若無慥所見歟、将其読、若与施基可同歟、然者御諱可無便哉、答云、件皇子、如彼集者、歌人内、春日・榎井・海上三人王、志貴皇子之子云、如今示給、若施基之音可通歟、日本紀点せキ云々、若有同人之疑者、追号天皇、継体始祖也、不可被書名字、被載田原天皇、可宜歟、重案之、有事疑、御諱可無便、未決疑、諡号又可憚、彼御歌二首、今日切除了、又所案、藤元真入新古今了、訓読有憚、兼房朝臣、已為太相国名字、非殊秀逸、此二人同除棄了、故者名、雖事旧、於時可存機間之故也、和泉道経、又今度不撰入、是皆今案所斟酌也、半月清明、
天福元年6月8日、定家は『新勅撰和歌集』入集の候補としていた万葉歌人、「志貴皇子」について考証しています。国史に詳しい中原師季に問い合わせた結果、今上天皇の直系にあたる「施基皇子」と同一人物の可能性があり、諱を使用するのは不適切だと考えて、定家は草稿から志貴皇子の部分を切除しました。
以上2つの文章を提示しつつ、ChatGPTに「(釈文を)現代語に書き換えてほしい」旨をお願いすると、下記のように回答がありました。あくまでChatGPTの訳なので、どれだけ正確なのかは保証できません。
(6月8日)昨日、手紙を書いて、国史に詳しい中原師季に、志貴皇子のことを尋ねました。志貴皇子の作とされる数首の歌が万葉集にあり、新古今集の撰者自身や他人によって収録されています。これらが新古今集にも入れられるべきかどうか、考えています。志貴皇子の存在については国史に記録がなく、彼の歌を読むと施基皇子と同じように感じます。だとすると、彼の諱(本名)を使って問題ないでしょうか。
回答は、志貴皇子については、彼の歌が収録されている集によれば、歌人の中で春日王、榎井王、海上王の三人は、志貴皇子の子供だとされています。それを踏まえて、施基皇子と同一人物と思われます。日本紀を調査した結果なども示されました。もし彼が同一人物だと疑われるのであれば、彼は天皇の称号を追贈され、皇室の始祖となった人物であり、その名前を書くことは適切ではありません。彼の名を田原天皇として記載すべきかどうか、慎重に考えます。この問題は未解決で、諱(本名)や諡号(死後に付けられる名前)を使うのは避けるべきでしょう。そのため、彼の歌2首は今日、新古今集から除外しました。
また、藤原元真が新古今集に入ることについても考えていますが、読み方が問題となっています。兼房朝臣はすでに太政大臣の名を持っていますが、それが特別に優れているわけではありません。この二人も新古今集から除外しました。名前は古いものでも、時代に応じて保存するべきものです。和泉道経も、この度は新古今集に収録しないことにしました。これら全てが今回の検討内容です。半月が明るく輝いています。
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■そのほか、気になった断簡など……
今回の特集では、『明月記』以外にも藤原定家の自筆と伝わる書が、いくつか展示されていました。いずれもトーハク所蔵なので、わたしのように写真に撮らなくても、見るだけならば、そのアーカイブを見れば良いじゃないか……という話です。以下、撮ってきた写真を貼り付けてましたが、コチラのTNM画像サイトでも同じものが見られます。
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廿五日 天晴
依窮屈平臥、来廿八日直物、天下
又競望云々、頭弁辞夕郎云々、不定世歟、
来廿九日、水無瀬殿御幸云々、
そのままChatGPTにコピペして「現代語に訳して」とお願いした回答が下記です。
25日、晴天の下、体調が窮屈で横になって過ごしました。28日には、直物が来る予定です。また、世間は競争の望みについて話し合っています。頭弁の辞退についてのうわさもあるということです。どうやら世の中は定まらないようです。29日には、水無瀬殿への行幸が予定されています。
もう少し、日記っぽくしてほしかったので「もっと、くだけた感じで訳して」と再びお願いした時の回答が下記です。こちらの方が、ググッと気持ちが伝わってきます。
25日、天気はいいけど体調がすぐれず、ほとんどベッドで過ごしました。28日には、何かが届く予定です。みんな、なんだかんだで競争を煽っているし、頭弁が辞めるかもしれないって噂もあるし、世の中何が起こるかわからないなあ。そして29日には、水無瀬殿への行幸が予定されているようです。
ちなみにトーハクの解説パネルは下記のとおりです。
定家は日記によく 「窮屈」 (疲れた) と書いていますが、疲労で寝込んだこの日も、情報収集は怠りません。 朝廷の人事の噂や、 後鳥羽院の御幸の予定を記しています。 本来は巻子に書かれた 『明月記』 ですが、鑑賞のために 「記録切」 と呼ばれる断簡になった部分が多くあります。
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書家の高木聖鶴さんの長男で、同じく書家の高木聖雨さんによる寄贈です。
3枚の紙を貼り合わせていますが、これは右から定家の父・藤原俊成、藤原定家、定家の息子・藤原為家が記したものです。それぞれ和歌を記しています。
肝心の文字がよく見えないので、それぞれを分割拡大して下に貼り付けました。これらの釈文も、先ほどから参考にしているトーハクのPDF資料に釈文が載っています。
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藤原俊成さんの書は、美しいのですが、とげとげしい感じがします(あくまで素人の感想です。以下同)。解説パネルには「枯れ枝を折ったよう な鋭い起筆と直線的な点画が特徴」と記されていて‥…「あぁわたしもそういう感じがしました! 表現がウマっ!」と思いましたw
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先ほどまで『明月記』で見た書とは全く異なる印象ですけど……これが人に見せる時の書き方だったんでしょうかね。全体の文字のバランスは「イマイチ」な感じですけど、「舟」や「夢」など、何文字かは魅力的です。
最後(一番左)の一首だけ、釈文は下記の通り(PDF資料には、父や息子の分も含めて、全文の釈文が載っています)。
夢のことはかなき物はなかりけりなにとて人に
あふと見つらむ
この和歌の意味をChatGPTは下記のように解釈しました。それっぽいような気がします。
この歌は、「夢の世界は現実とは異なり、はかないものであると知っているにも関わらず、なぜ人は夢で恋人と出会ったり別れたりするのだろうか」という思いを表しています。
「夢のことはかなき物はなかりけり」は、「夢の内容ははかない、つまり一時的であることは明らかだ」という意味で、「なにとて人にあふと見つらむ」は、「それなのになぜ人々は夢の中で出会ったりするのだろう」という疑問や不思議さを表しています。
全体的にこの歌は、夢の世界と現実の世界とのギャップや、人間の心の複雑さ、はかなさを詠んだものといえます。
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為家さんの評価は全く分かりませんが……全体のバランスは良く、可もなく不可もなくという感じでしょうか。一般的な公卿さんの文字という感じのように思われますが……「三」とか「春」という漢字の書き方は好きです。
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この書は、後鳥羽院の熊野詣の途中で開催された歌会で、定家が懐紙にしたためた自身が詠んだ歌なのだそうです。
これまた『明月記』とは全く異なる書き方ですね。解説パネルには、「ぽってりとした線と細くしなやかな連綿とのコントラストに、定家独特の書風の一端がうかがえます。その書法はのちに人々の間で流行し、親しまれてゆくこととなります。」と記されていましたが、この字を見ると「なるほど、人気が出た理由もちょっとわかったよ」という気がします。
こゑたてぬあらしもふかきこゝろあれや深山のもみぢみゆきまちけり
くもりなきはまのまさごに君が世のかすさへみゆる冬の月かげ
さっぱり意味が分からないので、ChatGPTに意味を教えてもらったのが、下記になります。
「こゑたてぬあらしもふかきこゝろあれや深山のもみぢみゆきまちけり」
この歌は、「声を立てずに吹く風(あらし)が、心の深い部分に影響を及ぼしている。まるで深山の紅葉が初雪を待っているようだ」という想いを表現しています。ここでの「声を立てずに吹く風」は、静かだが内部に深い感情や思いがあることを象徴しており、「深山の紅葉が初雪を待っている」は、切ない恋心や期待感を示しています。
「くもりなきはまのまさごに君が世のかすさへみゆる冬の月かげ」
この歌は、「曇りなき浜辺の砂(まさご)に、あなた(君)の世界が微かに映っている、それは冬の月明かりのようだ」という表現です。「曇りなき浜辺の砂」は透明さや純粋さを象徴し、「君の世界が微かに映っている」は相手に対する恋愛感情や深い理解を意味します。「冬の月明かり」は、恋人たちの淡い恋心や慎ましい愛情を象徴すると解釈できます。
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こちらも40歳前後(推定)に記されたようですけど、先ほどの「ぷっくり」した文字とは、また全く異なりますね。解説パネルには「鋭く張りがあり流麗かつ自然な筆致が特徴です。線の肥瘦や漢字の字形にわずかながら定家独特の書風が垣間見えます」とありますが、むしろその「鋭さ」が、お父さんの俊成さんの文字を想起させます……が、俊成さんのように規則性を感じませんね。
以上、既に終わってしまった、藤原定家さん特集のレポートでした。観たことを忘れてしまっていたのですが、noteで、同特集について記されている方がいらっしゃったので、思い出して書いてみました。
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