盆踊りのルーツなの? 鎌倉仏教・時宗の踊り念仏が描かれた《遊行上人縁起絵巻》
わたしは仏教徒ではないのですが、一遍さんの「時宗(じしゅう)」が好きです。なぜ好感を抱いているかと言えば、20代の後半に四国の八十八箇所霊場巡りをしていた時に、時宗のトップ……遊行(ゆぎょう)上人の秘書をしていたという僧と、一週間くらい一緒に歩いたことがあったからです。その僧の(当時は)おっさんが、とても気さくでおもしろい人で、若かったわたしにも終始丁寧語で話しかけて、まったく偉ぶらず、弁当を買ってきてくれたりするような……とても好感の持てる僧だったんです。そうしたごく個人的な体験によって、「時宗(じしゅう)」に親近感を抱いているわけです。
その時宗(じしゅう)の一遍さんは、鎌倉時代の1239年に生まれて、1289年に亡くなられています。全国をぷらぷらと歩いて、布教というか修行をされていたために「遊行上人」と呼ばれるようになり、時宗(じしゅう)のトップは代々が遊行上人と言われています。その一遍さんの法灯を継いだのが二祖の他阿(たあ)さん……遊行上人の二世……ですが、こちらは1237年生まれで……え? 師匠の一遍さんより歳上なんですね……一遍さんが九州に来た時に「こいつ年下のくせに、すごい考えを持っているな」と一晩で意気投合して、それからは一遍さんと一緒にぷらぷらと旅をすることにしたわけです。
■《遊行上人縁起絵巻》 放生津の南条九郎が帰依した……の巻
現在、東京国立博物館(トーハク)には、その時宗(じしゅう)の一遍さん……それに弟子の他阿(たあ)さんの行状絵巻……《遊行上人縁起絵巻 乙巻》が展示されています。今回展開されているのは、一遍さんが亡くなった後の、他阿(たあ)さんが、越中(富山県)や信濃(長野県)をぶらぶら旅した時の話になります。
トーハクでは定期的にこの《遊行上人縁起絵巻》が展示されるのですが、今回は絵だけではなく、絵の前に書いてある詞書(ことばがき)に何が記されているのかも読んでみました。
今の富山県にあたる越中国での話です。他阿さんが放生津(ほうじょうづ)という場所へ行くと、おそらく地域豪族の南条九郎という人が他阿さんに尋ねました。
「御坊様が念仏を勧め、すべての人を往生に導くとおっしゃるのは、私のような武士……罪深い者でも仏にしてくださるということでしょうか」
すると他阿さんは、「誰は往生できて誰が往生できないといった、人によるものではありません。阿弥陀如来の本願に帰依して念仏をとなえれば、疑いはありません」と応えました。
すると南条九郎が重ねて聞きました。「でも、尊い人といわれる人は、確かに仏になるには簡単なことではないとおっしゃっていますが、それはどういうことなのでしょうか?」と。
すると他阿さんは、次のように丁寧に教えました。
「末世の衆生であり、罪深い凡夫である私たちが迷いを脱するには、ただ阿弥陀如来の大いなる慈悲の本願にすがるほかありません。阿弥陀如来が法蔵菩薩だったときに、こう誓われました。『十方の衆生が私の名を称え、十声の念仏でも往生できなければ、私は悟りを成し遂げない』と。その阿弥陀仏は、今まさに悟りをお開きになられ、仏に成られているのです。この誓いを知りなさい。阿弥陀さんが誓った(みんなを救うという)本願は決して空虚ではなく、名号を称える者は必ず往生できるのです。善悪や煩悩の多寡を問わず、ただ口に『南無阿弥陀仏』と唱えることで、声そのものが往生への道となるのです」と。
つまりは、阿弥陀如来がまだ修行中の法蔵菩薩だった時に、「私の名を称えたすべての人たちを往生させてあげられるようにならなければ、私は悟りを成し遂げないし、如来にもならない」と誓ったんです。その法蔵菩薩が今や仏……如来になったのだから、『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも往生して救われるということです。
さらに他阿さんは、「頭の良い人のなかには、ときに仏教の教えや念仏の意味を理論的に解釈しすぎてしまい、本来の信仰の本質である「阿弥陀仏への信頼」に至らないことがあるものです。ですが、あなたのような武士は、自身の役割を果たすために、時には自分の命を軽んじて戦場へ赴きますよね? そんな自らの命すら惜しまない覚悟で阿弥陀仏に身を委ねることができるならば、往生は難しいことではありませんよ」と語られました。
これを聞いた南条九郎は、「これで往生の道理がよく分かりました。どのような妄念が浮かぼうと、名号=南無阿弥陀仏を唱え、往生は仏にお任せすればよいのですね」と言いました。これに対して他阿上人は、「善悪を問わず、心を労せずに行うのが他力の念仏です」と教えました。この言葉を聞いた南条九郎は、二心なき念仏者となったと言います。
ある時に他阿さんが詠みました。
■《遊行上人縁起絵巻》 善光寺で踊り念仏を披露する時衆……の巻
越中での南条九郎さんが帰依した話の後は、他阿さんたち時宗……時衆……が、信州へ行った時の話題に移ります。
越後国府(現在の新潟県上越市)から関の山を越え、熊坂を経て信州へ向かいました。山道で日が暮れてしまったので、苔を払い、露をしのいでその場に横たわります。夜、耳に入るのは木を伐る音や牧笛の音色でした。夜明けには谷間に朝日が差し込み、梢を分けて霧に包まれる山道を進みます。目に映るのは竹林から立ち上る煙や、松にかかる霧の景色です。この自然の中での体験が、世俗を厭う気持ちを強め、悟りを求める心を引き起こさずにはいられませんでした。
そうして善光寺に到着されると、式日(特別な行事の日)以外にはめったに行われない舎利会(釈迦の遺骨を祀る法要)が、臨時に行われて御戸開(仏像の扉が開かれること)がなされました。これはまさに、阿弥陀仏の慈悲と方便(人々を救うための手段)によるものに違いないと感動し、寺院から「日中の行法(法要)は礼堂で行ってほしい」との申し出を受け、如来(阿弥陀仏)の前で勤行を行いました。このようなことは以前には例がなかったとして、多くの人々が感嘆して首を垂れました。
この善光寺の如来像は、インドから伝わった霊仏として、日本の本尊となったものです。阿弥陀仏は、人々の因果応報の救済を示し、その影響力を日本に及ぼして、縁ある者が帰依できるよう、信州に霊場を定められたとされています。一光三尊の仏像は、阿弥陀仏の深い意図を表し、この場所が浄土の中でも特別な地であることを示していました。今回、宿縁が浅からぬおかげでこの如来に参拝できたことを深く感謝し、七日間の参籠(寺にこもって修行すること)をしました。その間、日中の念仏は毎日、御前の舞台で行われました。
この修行は、聖徳太子がかつて用明天皇のために七日間念仏を捧げたことを思い起こさせました。その際、聖徳太子が如来に向かってこう申し上げたといいます。
「七日間にわたり功徳を称えたのは、広大な恩に報いるためです。本師である阿弥陀仏にお願い申し上げます。どうか私を助け、衆生を救済し、常にお守りください。」
これに対して、如来はこう返答されたといいます。
「たった一日称えただけでも止むことなく功徳があるのに、七日間の功徳がどれほど大きいことでしょう。私は常に衆生を救いたいと思っています。あなたが衆生を救うなら、私が守護しないことがあるでしょうか。」
このような背景を思い浮かべながら、七日間の参籠は非常に感慨深いものとなりました。
■第二段の書き下し【放生津の南条九郎が帰依した……の巻】
越中國放生津にて、南条九郎と云
いひける人まうてゝ申ていはく、御房の
念佛すゝめて、あまねく往生とけさ
しめ給と申ハ、我等かやうなる罪人をも
佛に成し給へきか、と申けれハ、人に
よるへきに非す、本願に歸して念佛申
給はゝ、疑やハあるへき、との給けれハ、い
さとよ、たうとき人の仰られしハ、まさし
く佛になる事ハ、おほろけにてハ叶か
たきよしの給き、いかゝあらんすらん、と申
けるを、誠末世の根機、造悪の凡夫、出
離にをきてハ、只彌陀一佛の大悲本願
に乗せすより外ハ、大方かなふへからす。依之
阿彌陀佛の法藏菩薩たりし時、
誓日、若我成佛せむに、十方の衆生
わか名号を稱して、下十聲にいたらん
に、もしうまれすといはゝ、正覺をとらしと。
彼佛今現に成佛し給へり。しるへし、本誓
をもく、悲願むなしからす、名字を稱せん
者、必往生すへしといふ事を。たれも煩悩(ばんのう)
のこきうすきをいはす、罪障のかろき
をもきを論せす、只口に南無阿彌陀佛と
唱れは、聲卽往生なり。中ゝ才學
立る人ハ、教訓にかゝはらぬ方もあり、各
のやうなる重代の武士の命をかろく
持給へるか、往生ハやすく遂給へき
なり、と示されけれは、さてハ往生のいはれ
ハ心得侍ぬ。いかなる妄念のうへにも名号
を唱て、往生をハ佛にまかせたてまつる
へきか、とこたへけれハ、善悪につけて心を
用さるを他力の念佛とハ申也、といはれ
けれハ、此人二心なき念佛者に成けるとかや。
或時よみ給、
をくるまのわつかに人とめくりきて
心をやれはミつのふる道
いくせにもなかれてきゆる山川の
あはれはかなきおいの波かな
身をおもふ人の心のやみちこそ
くらきよりなをくらきにハいれ
■第五段の書き下し【善光寺で踊り念仏を披露する時衆……の巻】
さて越後國府より関の山、熊坂◯り
にかゝりて、信州へおもむき給ふ。山路に日
暮ぬれは、苔を拂(はらい)て露に臥す。語を
交るものハ樵(きこり?)歌牧笛の聲(こえ)。澗戸(まど?)に
天明ぬれハ、梢を分て雲をふむ。眼に
遮るものは竹煙松霧の色。凡視聴
にふるゝ所、厭離の思をすゝめ、欣求の
心をもよほさすと云事なし。かくて
善光寺に詣給たれハ、式日の外は
稀にもつとめられさる舎利會、臨時に
おこなはれて、御戸開れたり。是併
加來の慈悲方便にてこそましますら
めとて、寺家より、日中の行法ハ禮堂
にて有へきよし申うけられけれハ、如來
前にしてつとめ給へり。昔よりいまた
かゝる例なしとて、萬人首をそかたふけ
ける。此如來ハ天竺の霊彿として、
日域の本尊となり給へり。酬因の來
迎をしめして、影向を東土の境にたれ、
有縁の歸依を頼て(?)、霊場を信州の
中にしめ給。一光三尊の形像、如來
の密意を表し、決定往生の勝地、他
方の浄刹にこえたり。今宿縁あさから
さるによりて、逢奉る事をえたりとて、七日
参籠ありけるに、日中の念佛ハ、毎日に
御前の舞臺にしてつとめられたり。彼
聖徳太子、用明天皇の御爲に、七日
の御念佛あるよし、如來へ啓し給ける。
其詞云、
七日稱揚功徳已 斯此爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我済度常護念
如來御返報云、
一日稱揚獪无止 何况七日大功徳
我待衆生心無隟 汝能済度豈不護
とそあそはされたりける。今七日の
参籠もおもひあはせられて、いとあ
はれに覺待り。
■参照文献
・角川書店編集部 編『日本絵巻物全集』第23巻 (遊行上人縁起絵),角川書店,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション
・東京国立博物館 編『Museum』(322),東京国立博物館,1978-01. 国立国会図書館デジタルコレクション
以上が今回トーハクに展開されている《遊行上人縁起絵巻》です。たいていの絵巻は、ストーリーを記した「詞書(ことばがき)」と、その詞書をビジュアル化した「絵」の部分とで構成されています。つまりは現在の絵本のように、「絵」を観るだけで楽しめる構成になっているわけです。今回は、その「詞書」部分に注目してみました。意外と興味深いことが書かれていることに驚きました。
一遍さんと他阿さんのコンビ僧についての絵巻では、国宝の《一遍聖絵(ひじりえ)》が有名です。おそらく内容は今回の重要文化財《遊行上人縁起絵巻》と同じようなものでしょう。
日本の仏教を考える時に、例えば時宗や時衆といった「宗派」でカテゴライズしがちです。でも、例えば一遍さんが「時宗」という現代的な概念の「宗派」を作ろうとしたのだろうか? といつも考えてしまいます。例えば一遍さんが全国を歩いて「布教」したというのは、衆を増やすためではなく、往生できる人たちを一人でも多く増やすためだったはずです。今の宗教とは全く別の同機で活動していたのだろうな……と思いたいな……と。
そんなことを酉の市(二の酉)が始まった、0時を過ぎた時間に考えています。外はクルマや人が行き交い……頻繁にクラクションが鳴り、興奮した犬の吠える声が絶えません。おそらくいつも通りに逆走したり違法駐車するクルマも多いことでしょう。商売繁盛がメインの目的ですからね……人の迷惑を顧みない人が商売で繁盛することが多い……という世の中の道理からすれば、特に不思議な情景でもありません。かくいうわたしも、明日の夕方あたりに覗いてみようと思います。