光悦/光琳/抱一などの琳派や若冲などが描いた扇子絵@トーハク
秋も深まっている今日このごろ。東京国立博物館の本館2階には、先日紹介した巨匠絵師が描いた扇子用の浮世絵など、たくさんの扇子が並んでいます。
ということで、今回は本館2階にある「書画の展開」の部屋で展示されている、扇子絵を紹介していきます。
なんと、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱一などの琳派をはじめ、伊藤若冲や池大雅、そして谷文晁など、いずれも安土桃山時代から江戸時代の絵師のスーパースターたちが描いた、作品が並んでいました(狩野派も多かったのですが、ちょっと今回は時間がなかったため、琳派のみをじっくりと見てきました)。
ラインナップのなかで、最も目立ったのは琳派と呼ばれる人たちです。、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱一と聞けば、誰もが知る……とまでは言いませんが、江戸時代を代表する絵師たちですし、とても人気です。
では、琳派って、どんな特徴があるんだろう? とネットを調べてみると……その絵画的な特徴を記しているサイトが非常に少ないことに気が付きました。たいてい、琳派の特徴として挙げられているのが、「師弟関係や親子関係でつながっているわけではない」ことです。Wikipediaでは「家系ではなく私淑による断続的な継承などが特質として挙げられる」と記されています。
また、「オレは琳派だ!」と自称していた琳派の絵師は(江戸〜明治時代には)いませんでした。その「琳派」の元となると考えられる「光琳派」という言葉が初めて使われたのが明治時代。さらに、大正になると芥川龍之介が「琳派」という言葉を、『京都日記』で使っていることが確認できるようです。さらに「琳派」という呼び方が、社会に定着したのは、昭和47年に東京国立博物館で開催された創立百年記念特別展「琳派」が決め手であったと言われています。(国立国会図書館Webサイト『琳派が「琳派」になるまで』)
話が琳派という呼称に偏ってしまいましたが、その絵画的な特徴については、下記のサイトに詳しく解説されていましたので、ご紹介させていただきます。
■本阿弥光悦(1558〜1637)
■俵屋宗達(1570年代〜1643年?)
琳派の祖の一人、俵屋宗達の作品はありませんが、宗達派による『扇面散屏風』がありました。
源氏物語や伊勢物語などを題材にした60面の扇面を貼り付けた屏風で、俵屋の工房の画風が表現されています。「こんな絵が描けますぜ!」という、工房の画工たちによるサンプルのような位置付けだったのかもしれません。
■尾形光琳(1658〜1716)
尾形光琳の『仕丁図扇面』。
「仕丁」とは、中央官庁で雑用に従事していた地方から徴収された人たちのことです。この扇の絵を見た時には踊っているのかと思いました。
でも、解説パネルには「彼らが大げさな身振りで駆け抜ける様子を描いている……(中略)……慌てる仕丁たちのざわめく声が聞こえそうです」と記しています。また保元の乱を中心に描かれた『保元物語絵』にも、同様の図様があるようなので、戦闘から逃げている人たちの姿なのかもしれません。
同じ並びには、尾形光琳の弟の尾形乾山の『芙蓉図扇面』もありました。ちゃんと見なかったなぁ…。
伊藤若冲(1716~1800)
伊藤若冲の『鶏図扇面』。もうちょっとちゃんと見たいなぁと思ったのですが……。
紙が傷んでいるんでしょうか。この扇子だけは、「もうちょっとちゃんと開いてぇ〜」という感じの開き具合でした。
池大雅(1723〜1776)
池大雅の『白梅図扇面』。
酒井抱一(1761〜1829)
酒井抱一は、「尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった」人です(Wikipediaより)。
姫路藩の世嗣の子として生まれた名門のお坊ちゃん。青年時代から、おそらく武家の教養として狩野派や長崎派につく。そして20歳前後からは浮世絵師の歌川豊春に師事しています。
絵画以外でも狂歌や俳句にも、のめり込んでいたようで、狂歌師の太田南畝との交友でも知られています。ただし、谷文晁の主君・松平定信がはじめた寛政の改革により、好きだった狂歌や浮世絵は規制を受けるようになります。
そしてこの頃に、酒井抱一は出家。『老子』の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」から「抱一」という号を使うようになります。これは「聖人は道徳という最低限のものだけをしっかり抱えることで、人々の手本となる」という、かなり気合の入った号と言っていいでしょう。
そして、同時期に尾形光琳に私淑していったようです。とはいえ、実家の酒井雅楽頭家には、尾形光琳が一時期仕えていて、作品も残っていたといいます。そうであれば、絵を描いていた青年期から酒井抱一は、尾形光琳の絵を見ていたのではないでしょうか。ただ、魅力を感じるようになったのが、40代となった寛政年間だったのではないでしょうか。
とにかく酒井抱一は、40代になって尾形光琳や弟の尾形乾山に私淑したと考えられています。さらに「円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れ(Wikipediaより)」、自らの画風を進化させていったようです。
谷文晁
谷文晁は、「酒井抱一や亀田鵬斎と「下谷の三幅対」と評され、享楽に耽り遊びに興じた(Wikipediaより)」そうです。さらに享和2年には「酒井抱一、亀田鵬斎らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は『下谷の三幅対』と呼ばれ、生涯の友となった。(Wikipediaより)」とあります。
亀田鵬斎のことは知りませんが、近所の下谷(現 東京都台東区)に住んでいた才能あふれる三人が、大の仲良しだったことを知るとうれしいです。
谷文晁については、『南画の大家・谷文晁が描いた、伊豆・相模の偵察図』にも記しました。もしよければ、読んでみてください。
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