『雪舟・山水図屏風の系譜』みたいなトーハクの展示構成 伝周文&雪舟から狩野山楽&探幽…そして呉春
じゃじゃん! 今季の東京国立博物館(トーハク)の展示構成について、わたしが勝手にタイトルを付けるとすれば『雪舟・山水図屏風の系譜』です。
周文や雪舟が描いたと伝わった作品だよ……たぶん違うけどね……という作品は、トーハクに頻繁に展示されています。そんな中から、今回は「山水図」をフィーチャーしています。
室町時代に生きた伝・周文の《山水図》から、伝・雪舟……そして、彼らを神格化するようにリスペクトしていった室町時代後半から江戸時代初期の狩野派……山楽さんと探幽さん……さらには、雪舟さんとの関連は知りませんが与謝蕪村や円山応挙に師事した呉春さんの「山水画」が続きます。
■伝・周文さんから伝・雪舟さんの山水画
まずは伝・周文さんの山水画から見ていきたいところでしたが、どうも人が引くタイミングが合わず……じっくりと見ることができていません。そこで、以前noteした伝・周文さんの《四季山水図屏風》を、先にササッと見ておくと、なにか気がつくことがあるかもしれません。
そして、今季ドドーン! と展示されているのが、伝・雪舟等楊の《四季山水図屏風》です。「伝」なのですが、やはり作品横の解説に「雪舟等楊」と記されているのを見ると、日本人の場合は高確率で「おぉ〜、これ雪舟だってさ」……「さすがだね」と言った声が聞こえてきます。
で、《四季山水図屏風》をパッと見てみると……「どこが四季やねん?」と思ってしまいます。これに関しては、解説パネルによれば「春の梅、夏の水景、秋の雁の群れ、それに冬の雪山」が描かれているそうです。
特に夏の水景については“夏っぽさ”が分かりづらいのですが、もしかすると「青」が経年劣化……変化? して、今は見られなくなってしまっているんじゃないかなと思います。つまりは、描かれた当時は、もっと青色が濃くて、もっと水景に涼しさが感じられたのではないかという予想です。
それで、上の写真に水景の青を足してみました。こんなに青インクは使っていなくて、おそらく要所要所にサッサッと青が引いてあっただけだとは思いますが、少し強調してみました。うん……だいぶ印象が異なりますね。
それで?
って感じですけれどね。
まぁ全体をそんなふうに想像しながら見ていくと、味気のない水墨画も少し楽しく見られるような気がします……言い忘れましたが、わたしはそんなに禅宗的な水墨画が好きなわけではありませんし、雪舟の良さもいまひとつ分かっていません。
でもまぁ面白く見ていきましょう……ということで右側の屏風である右隻の右端から見ていきます。
右端には、巨岩なのか断崖なのかの下を抜ける道を、従者を連れた(仮に)雪舟さんが歩いています。当たり前ですけれど、描いた人は、自分がどんな道を歩きたいかを想像しながら描いていると思うんですよね。「こんな景色の中を歩きたいなぁ」って。伝・雪舟さんが想像したのは、大きな岩に囲まれた湾をめぐったところにある、城(街)へ向かっている様子だったんでしょうね。この絵を(たぶん違うけれど)雪舟さんが描いたのだとすれば、かつて雪舟さんが行って、大いに刺激を受けただろう中国の風景だったのかもしれませんし、または中国の風景に、お世話になった大内家の城というか大内氏館を重ね合わせていたかもしれません。
断崖の上には緑色の濃い春の(おそらく)梅の枝が力強く張っています。心地の良い季節に、居心地の良さそうな街へ向かっているんでしょう。その城壁で囲まれた街には、大きな楼閣というのか、中国風の大きな門があり、そこを入っていくと高い塔がそびえる大きな寺院があります。
正面の門の左側からは、もう山の裾野が広がり始めています。中国へは、わたしは上海にしか行ったことがありませんが、山の裾野が迫っている大きな街ってあるでしょうか? ないような気がするんですけれど、これは当時は西の京と呼ばれるほど繁栄していた大内氏の本拠地である山口盆地や、京都または奈良の古都をイメージしているのかもしれません。
実在の場所をイメージして描いたかどうかは置いておき、この屏風絵には山の裾野が必要なんです。だって雪舟は、繁栄した街に向かい、そこで数日なのか数週間を過ごしたいのと同時に、その喧騒の街を抜けた後には、誰ともすれ違わないような深山へも行きたいのですから。笑いだけでなく何事も緊張と緩和が必要です。この屏風で言えば、緊張とは喧騒の街であって、緩和とは深淵な山々ではないでしょうか。
大いに栄えている、そんな街の前には、大きな川なのか海が必ずあります。今は見ることができませんが、雪舟(ではないと思いますが…)が描いた当時は、うっすらと青いインクが塗られていたのが分かったのではないかと思います。少なくとも、繁栄して文化レベルの高い城=都市と、大きな川や海はセットですよね。
さて、予定通り都市に立ち寄って、寺で絵を書いて奉納した雪舟は、数日なのか数週間後には目の前にある港から船に乗ります。描かれている船をよく見ると、やはりここは波が穏やかな川でしょうかね……とうてい外洋には出帆できそうにもない船の形です。その船に乗って、比較的に穏やかな水面を左隻へと渡って行くのでしょう。
川または海を渡って左隻に進んでいくと、遠くの奇岩のそばを雁(かり)の群れが飛んでいくのが見えます。あぁもう秋になってしまったかぁ……と、少し寂しい気持ちになりつつ、自分と同じ方向へ向かう雁の群れを見ながら、これから行く場所への期待が膨らんでいったことでしょう。
さらに遠くには、これから向かう高く険しい山がそびえています。かつては修行する場所として名高い山でしたが、今は山道も整えられて、その景観を愛でに行く場所として人気が出ている山……なのかもしれません。
こうしてじっくりと見ていくと、「伝」ではない雪舟の真筆と言われる国宝指定の絵よりも、愛着すら感じつつ「こっちの絵の方が味わい深くないか?」とすら思ってしまいます。
小さくチマチマと描かれた国宝のあの絵よりも、ダイナミックで大きく見えるだけでなく、奥行きが感じられる気がします。
山の中へ進んで行くと、文人たちが構えただろう別荘がぽつりぽつりと見えます。そのなかの一棟が雪舟の持ち別荘かもしれませんし、もしかすると先ほど寄った町の豪商などの別荘かもしれません。「雪舟さん、わたしの別荘に寄って行ってくださいよ」と言われたかもしれません。
とにかくこれから山奥にあるそこへ向かい、文人仲間と一緒に詩を詠み、絵を描き、茶を喫むといった生活を送るのでしょう……空想の中で、ということですけどね。
↓ 嘘っぽいですけれそ、いちおう「雪舟」と落款が記されています。
■狩野山楽さんの《山水図屏風》
狩野派の山楽さんは、国宝の《唐獅子図屏風》などで有名な永徳さんのお弟子さんです。「山楽さん」と書くと、少し身近に感じられますし、落語家のようにも思えて親しみが湧くので、さん付けで進めていきます。
さて、師匠の永徳さんが息子と描いた《唐獅子図屏風》というと、豊臣秀吉の成金趣味的な桃山文化を代表する作品です。そのことから狩野派と言えば、キンキラな作品ばかり作っていたんじゃないの? っていうイメージがわたしのなかにはあったのですが……実はその狩野派は、モノクロの地味絵を描いていた、雪舟等楊さんをずいぶんと信奉していました。雪舟等楊さんの水墨画と、イメージにあるキンキラ狩野派の作品とは、どうにも共通点が見いだせませんが、そもそも狩野派はキンキラな作品ばかりを作っていたわけではないんでしょうね。
現在、トーハクに展示されている《山水図屏風》は、地味な雪舟等楊さんの水墨画と、華美な絵が求められる桃山文化とを上手に融合させているようにも思えます。いまでこそ展示を見ると、山楽さんの《山水図屏風》は落ち着いているようにも思えますが、この屏風絵……「紙本墨画金泥引」なんです。
「紙本墨画」は、たいていの水墨画と同じですが、「金泥引」はあまり聞きません。でも仏像では、珍しくありませんよね。金泥とは、粉末状にした金を“膠(にわか)”で溶いたもの……まぁ金色の絵の具みたいなものでしょう…‥それを刷毛で「引いた」……塗りたくったのが「金泥引」です。
つまりは、この作品を描いた当初は、キンキラとまではいかないにしても、かなりゴージャスな光を放っていたことでしょう。
まず右隻を見ていきましょう。どこから見ても良いのですが、わたしは左下の川舟から見ていきました。おそらくこの、船頭さんがタバコを吸っている舟には、深山の別荘へ向かう山楽さんが乗っています。その川舟の舳先からはローブが河岸に伸びていて、それを5人の人たちが……おそらく引っ張っています。川舟が下流から上流へ向かっているのでしょう。
舟が岸に着いたら、そこからは徒歩になります。岩壁の下に作られた細い道が山の奥へと伸びていくのですが、おそらく山楽さんも頭の中ではこの細道を深山へと向かっていったのでしょう。
道を歩いていくと、すぐに大きな屋根の楼閣に到着します。たいていの水墨画は、この楼閣から、さらにそそり立つ岩山を眺めるためにできているのですが……山楽さんの描いた《山水図屏風》だと、楼閣から眺められる景色は、鋭くそそり立つ奇岩や山陵ではなく、なんともほのぼのとした山影です。
このご飯茶碗にご飯を詰めた後に、チャーハンのようにポカっと皿に盛ったご飯の形に似た山って、わたしが知る範囲だと、東海道新幹線で滋賀に入ったあたりから見かけるようになるんですよね。関東では、あまり馴染みのない形です。
何が言いたいかといえば、山楽さんって、ずいぶんと日本っぽい情景を描いた人だなぁとね。楼閣の形にしても、明らかに大陸のものではなく、日本の寺の大師堂や地蔵堂みたいな形ですよね。周文や雪舟を経て、中国の水墨画の日本画への吸収が、かなり最終段階に入ってきた時期の絵……ということが言えるかもしれません。
ここまでが右隻を見た感想です。もう一ついえば、そもそもこれって「右隻」ではありませんね。右左がセットの「一双」の屏風ではないな……と思いました。同時に使うものではなく、右側の屏風は例えば春に使い、左側は冬に使う……または右側と左側を部屋の別の位置に立てて使うものなんだろうなと。
たいていの屏風絵は……それが左右に分かれた一双の屏風であれば特に……左右の屏風を全体から見ると、なにか1つの絵のように、ゆるりと連携しているように描かれているものですよね。もしくは対峙するように描かれていることが多いです。
でも、この山楽さんの作品は、左右の構図が似ているんですよ。画面の右下のあたりから細い道が上の方に伸びていき、岩山に伸びていく……その岩山は屏風の右側の大半を占めている……というもの。似てい過ぎているので、並べて立てると、どうにも違和感が拭えません。いま思えば、右と左の屏風のそれぞれに解説パネルがあったような記憶があります。
そして、以下は左側の屏風です。右の屏風と同じような場所ですが、雪が積もっています。
屏風の左下に目をやると、小さな馬なのか驢馬なのかに乗って従者を従えて進む山楽さんの姿が見えます。ちょうど八ツ橋のような小さな橋を渡っているところで、やはり山の奥にある楼閣を目指しているようです。
先の道に目を進ませると、体と比して大きな傘を差して、風に抗うような前傾姿勢で進む1人が見受けられます。どうやら、そうとう激しい風が吹き雪が降っているようです。
■狩野探幽さんの《山水図屏風》重要美術品
狩野探幽さんは、《唐獅子図屏風》で有名な狩野永徳の孫です。前項の山楽さんが永徳の弟子ということなので、山楽さんが33歳頃に、師匠の孫として生まれた探幽さんとは、何らかの接点があったかと思います。ちなみにお母さんは、織田信長麾下の武将として知られる佐々成政の娘だといいます……ということは、探幽さんは佐々成政の孫ということ。
Wikipediaによれば、探幽さんは「桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った」のだそうです。
現在トーハクに展示されている《山水図屏風》の解説パネルにも「広く余白を取った画面に、ところどころ濃く墨が引かれ、山水のそれぞれのモチーフが強調されています。墨色の微妙な諧調で濃淡をあらわし、簡潔で柔軟な筆墨と透明感を帯びた理知的な画面構成は、探幽が創出した江戸狩野派様式とよばれるものの典型です」と、同じようなことが記されていました。
そういう難しい解説はさておき、画面の右下を見てみると、いましたいました……従者を連れて驢馬に乗って進む探幽さんが見えます。右側に大きな岩山がそそり立ち、左側は海または川に挟まれた細い道を進んでいます。
進む際にある城壁に囲まれた中国風の城=町は、さきほど伝・雪舟さんの《四季山水図屏風》で見たような光景です。町の規模の割に小さな門を入ると、少し右側には日本風の五重塔のような高い建物が立っています。描かれている川なのか海なのかには、小舟が漂っている様子も、構図的には同じです。
町の正面にある門の前には、男女が立ち話をしている姿が描かれ、少しほのぼのとした雰囲気にも見えますね。2人とも、少し腰を曲げているのは、2人で恐縮しあっているのか、もしくは高齢者なのかもしれません。
城門の右側からは、こちらも従者を連れた一人の文人らしき人が歩いてきています。伝・雪舟さんの絵には、人の気配が希薄でしたが、探幽さんの山水画は、少し人影が多く描かれています。
右隻の左側には、楼閣の中に佇む人の気配もあります。探幽さんは、多くの友人を訪ねて回るという感じで、この絵を描いたのかもしれません。
以下は左隻になります。左隻の少し左寄りには、これは雪舟等楊の絵を想起させるような岩の多い険しい山が据えてあります。この山が探幽さんの最終目的地なのでしょう。
改めて屏風から少し離れて左隻の全体を見てみると……そうかぁ……たしかに空白が多いなぁということが分かります。左隻の山の右側には、ほとんど何も描かれていない余白があるんですよね。解説などで語られているのは、これかぁ……と思います。
その左隻の山の細部を見ていくと、まずは山道を小童を連れて歩く文人らしき人が進んでいくのが見えてきます。
その道を辿っていくと、急峻な山道が、時に現れて時に見えなくなりとしながらもしっかりと描かれていて、これから文人と小童が辿り着くのだろう山奥の小さな村まで描かれています。
こうしてじっくりと見ていくと……
う〜ん……探幽さんって、じょうずですね。
■呉春さんの《雨山水図屏風》
呉春さんは、司馬遼太郎の短編小説『天明の絵師』を読んでから、かなり身近に感じる画家になりました。今回も、解説パネルを見て「あっ! 呉春さんだぁ〜」って、知り合いかのように思いましたもの。
その呉春さんが描いた《雨山水図屏風》ですけど……帰って解説パネルの写真を見返すまで、ずっと、雨ではなく、山々に光が差し込んでいる情景を表現しているものとばかり思って見ていました。(いつも解説を読まずに見ています)
この斜め線は雨だったんですね……となると、かなり激しい「驟雨」と言ってもよいくらいの雨でしょうか。でも……本当に雨でしょうか……とも思います。雨だとして、その雨が斜めに降っているということは、風が吹いているはずです。でも、木々も水田の稲も、風に揺れている様子がないんですよね。
わずかに、激しい雨が降っているのかもと思わせる要素は、激しく流れていそうな川でしょうか。↓ 鴉? も、木の枝に止まって、のんびりとしているような気がするのですが……。
呉春さんって、激情型の絵師だたのかなぁって思っていました。でもこの絵は、とてもやすらぎを感じさせるものでした。もしかすると、白い斜め線が雨ではなく、陽光がやさしく差し込んでいると勘違いしながら見たからこその感想かもしれません。あとは、家があまりにも日本的で、のどかな情景に感じるんですよね。
↑ 左の方に描かれている木は、少し風に吹かれているような感じにも見えますね。
この《雨山水図屏風》の列品番号は「A-1009-1」と記されています。それで、もしかすると左隻があるのかもと思ってトーハクの画像アーカイブを調べたら、ありました。
そのもう一方が「A-1009-2」ということなのでしょう。それにしても、左隻は雪山が描かれています。もう一度、アーカイブサイトで作品名を確認すると……《雨雪山水図屏風》とありました。なるほど……夏の雨と冬の雪を左右の隻に描いた屏風でした……いや、もしかすると春の雨なのかな……。そして、夏と秋を描いた屏風もあったのかもしれませんね。
今回は、時代の異なるいろんな山水図を見ることができました。それも、伝・雪舟さんから狩野山楽さん、探幽さん、そして呉春さん……と、いずれの方も当時を代表する絵師さんたちです。なんだか贅沢ですね。ということで、また今週中には再訪したいと思います。