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なにこの見ていて気持ちいい書画!…酒井抱一と根岸の仲間たち @東京国立博物館
今季の東京国立博物館(トーハク)の、本館2階にある「近世絵画の部屋」のタイトルは、勝手ではございますが『酒井抱一と根岸の仲間たち』ということにさせていただきます。永徳を始めとする狩野さんたちの絵も多く展示されているなかで、異見も多々あるかと思いますが、特に受け付けるわけでもありません。
さて、酒井抱一さんは…なんていう話を書き始めて、そこから根岸の仲間たちをご紹介していこうかと思ったのですが…調べながら書いているっていうこともあり、こりャァいくら時間があっても今回の作品の話まで辿り着かないなぁと思ったので、まず先に、展示されている作品からnoteしておくことにします。
■琳派に写実を掛け合わせた酒井抱一さんの《流水四季草花図屏風》
今回は「酒井抱一と根岸の仲間たち」ということで進めたいので、まずは酒井抱一さんの《流水四季草花図屏風》です。今回(2025年4月6日まで)は、展示室の一番奥に置いてあるので、もしかすると来季も酒井抱一さんの作品が選ばれるんじゃないかと、ちょっと期待しています。まさかね…とは思いますけど、酒井抱一さんが敬愛する尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏っかわに描いた《夏秋草図》なんかが来季に展示されたら、狂喜してしまいますけど…まぁまさかね。
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まぁでもわたしは、今回の《流水四季草花図屏風 A-12321》を見て、事前に画像を見た時よりも数倍良いと感じました。今回のタイトルにもしましたけれど、見ていてものすごく気持ちいいんです。
なにが気持ちいいんだろうって、観覧しながら思ったんですけど…まずは国宝じゃないから、あまり人だかりができないことですね…今回は特別感のある展示ケースでもないので、なおさらゆっくりと見られます。
あとは、この琳派っぽい水の流れです。そして水辺に咲いている四季の草花のセレクトがいいんですよ。つくし、たんぽぽ、すみれ(?)や…この黄色いのは菜の花ですかね。
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解説パネルには「二曲の金地屏風を鮮やかな群青の絵具による流水でつなぎ、右から順に四季の草花を描いています」というのは良いのですが、わたしが注目したのは、続いて書かれているこの部分…「鮮やかな絵具を用い、陰影をつけない琳派の伝統的な描き方を継承しながらも、草の重なりの向こうにモチーフを配するなど現実感のある描写で季節の情感を醸し出しています」。
流水の描き方は確かに琳派っぽいんですけどね…あと背景に金箔を敷き詰めた金地についてもね。でも、これは尾形光琳をひたすらリスペクトしながら、その技巧を踏襲していた頃の描き方とは違うんじゃないかなと。
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解説パネルでは、もちろん文字数の制限があり詳細を記せないため「鮮やかな色使い」と「陰影がない」ことを「琳派っぽさ」としています。でも、琳派ではなくたって、やまと絵は陰影なんてないですよね。それよりも、尾形光琳などの琳派の特徴は、図案化でしたよね。モノをシンプルに描く…現代のイラストのように、一見したところシンプルな線とベタ塗りでモノを表現していた…ように思います。
そういう琳派っぽさは、今回の《流水四季草花図屏風》にはありません。特に紫陽花の描き方なんて、写実的です。花…というかガクですけど…一枚一枚を丁寧に描き、それらがかさなりあって、こんもりとした紫陽花になっています。そして紫陽花の葉っぱなんて…あ、でもこれ“たらし込み”とか使っているとしたら琳派っぽいですけど…葉っぱの写実性の高さは、琳派っぽさと対局にあるような気がします。
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まぁ琳派っぽくても、琳派っぽくなくてもいいんですよ。この絵が見ていて気持ちがいいっていうのは変わりませんから。
最後に落款を見たら「雨華抱一筆」とありますね。これは根岸に建てた酒井抱一さんの草庵…雨華庵(うげあん)…で描いたってこと…根岸に引っ越したあとに名乗った号のはずです。つまりは、酒井抱一さんの晩年ではなかったかもしれませんが、後半生の作品だったことは確実です。単に琳派っぽい作品を脱して、抱一さんなりのアレンジをしようとした時に、その1つとして、写実性を取り入れたのかもしれません。
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■尾形乾山の《桜に春草図》
酒井抱一さんは自身が生まれる約40年前に亡くなり、琳派の名前の元となった尾形光琳を勝手に師と仰いでいた……私淑(ししゅく)していたと言われます。事実、彼は尾形光琳のイラスト集のような『光琳百画』を出版したほか、荒廃していた尾形光琳の京にある墓を見つけ出して整備したり、根岸のスタジオ「雨華庵(うげあん)」で光琳百回忌を行なったりしています。
そんな尾形光琳には、主に作陶家として著名な弟、尾形乾山(けんざん)がいました。実は酒井抱一さんは、この乾山を、光琳と同じくらいかそれ以上に私淑していたと言われています。
尾形乾山は、兄の尾形光琳とともに活動していました。よく知られるのは、乾山が作った器に、光琳が書をしるした作品です。そして光琳が亡くなった後の、乾山最晩年の正徳・享保年間(1711-1735年)に、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、今のメトロ入谷駅の近くに窯を開いて作陶していました。そして間もなく、寛保三年(1743年)にこの地で亡くなったそうです。
酒井抱一さんは、忘れ去られていた乾山の墓が、下谷坂本の善養寺にあることを探り当てます。そして、乾山の元窯や墓があった入谷からほど近い、根岸に引っ越した後の1823年に、乾山を顕彰する石碑「乾山深省蹟」を建てました。
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こうして書いていくと、色んな縁を感じずにはいられません。
尾形乾山の窯があった場所(尾形乾山窯元の碑)から、酒井抱一の住居兼スタジオである「雨華庵」までは、Google Mapによれば徒歩約15分…自転車で約6分の近さにあります。乾山窯元は、厳密に言えば「根岸」ではないのですが、現在の入谷・根岸に2人が暮らしていたら、同じスーパーで買い物をしていただろうし(ココス中村か いなげや)、出かける時にはメトロの入谷駅かJRの鶯谷駅を利用していたはずです。
また、尾形乾山が仕えていた輪王寺宮公寛法親王(寛永寺門跡)は、現在の東京国立博物館(トーハク)がある場所…しかもトーハク本館のある場所で暮らしていました。
明治になると、上野の山の谷沿い…尾形乾山の墓や抱一が建てた「乾山深省蹟」のあった善養寺(寛永寺の子院)は、線路を敷くために巣鴨への移転を余儀なくされます(豊島区西巣鴨4-8-25)。そして同地に、尾形乾山の墓や「乾山深省蹟」がなくなってしまったことを憂いた有志が集まり、昭和7年に、寛永寺に残すことにしたそうです。ただし、明治維新の上野の山の戦争により、寛永寺自体がほぼ全焼し、数十年後にはトーハクが建てられてしまっていたので(当時の名称は「博物館」または「帝室博物館」)。そこで、どんな何やかんやがあったのか分かりませんが、現在の寛永寺本坊の境内に、そのレプリカが建てられました。
(現在の西巣鴨・善養寺にある石碑は、もともと上野・善養寺にあったものが、明治末の線路拡張&寺の移転に伴い、鶯谷にあった国華倶楽部の庭に写されました。さらに大正10年に寛永寺境内へ移転。その後のいつだかわかりませんが、西巣鴨・善養寺へと移ったそうです)。
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この時には、乾山が入谷に住んでいたことを知らなかったので、「なんで(京都の)乾山の石碑が、寛永寺にあるんだろか?」と、不思議に思いました(隣の看板を読めば、全部説明が書いてあるのに…読んでいませんでした)
「乾山深省蹟」の文字は、亀田さんが書いたものだったような…(要確認)
ということで、前置きが長くなりすぎましたが、そんな縁もあってか、尾形乾山さんの作品は、トーハクに「常に」というと嘘かもしれませんが「だいたい」1点は展示されています。
ただしですね、たいてい展示されているのは陶器であって、今回のように絵が展示されているのはとても珍しいと思います。
今回は春ということで、《桜に春草図 A-11907》です。
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山本富子氏・山本賢二氏寄贈
書かれている和歌は室町幕府の第九代将軍・足利義尚(よしひさ)に対して詠まれたもの。桜を将軍の権力にたとえた祝いの歌で「みるたびの けふにまさしと 思ひこし 花は幾世の さかりなるらん」とあります。
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「みるたびの けふにまさしと 思ひこし 花は幾世の さかりなるらん」
見るたびに、今日こそが最も美しいと感じてきた桜の花は、いったい幾世にわたって盛りを迎えてきたのだろうか。なんだか歳をとったからなのか、和歌の意味を知ると胸がジーンとします…なんででしょうね。
この和歌を詠んだら、写真家の星野道夫がエッセイか何かで書かれていた「春のピークは一瞬だけなんです。その一瞬を写真に撮りたいと思っているんです」と記した後だったかに「わたしは、この一瞬をあと何度見られるだろうかって思うんです」と書かれていたことを思い出します……と言っても、わたしの記憶によるものなので、もしかすると別の意味で書かれていたかもしれません。
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上の《桜に春草図 A-11907》と同じ部屋の別の場所には、わかりにくいのですが、尾形乾山の《色絵椿図香合 G-5363》が展示されていました。
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乾山|江戸時代・18世紀
広田松繁氏寄贈
小さいのにケースのガラス面から離れて置かれているのが惜しいというか…もうちょっと近くに展示してくれないかなぁ…。こちらは椿が描かれていますね。
江戸時代を代表する絵師尾形光琳の弟尾形乾山は、元禄12年(1699)に京都鳴滝に窯を開き、作品には「乾山」の銘を書き込みました。「深省」四十年程の作陶歴のなかで、この香合は初期鳴滝時代の作と推測されます。椿一輪を型抜きした細やかな色絵陶器です。
いやぁ…入谷の窯で作られたものではなかったのか…と、少し残念です。
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そして、本館1階の刀剣の部屋の隣の部屋には、《銹絵十体和歌短冊皿(さびえじっていわかたんざくざら)》が展示されています。これは、これまでもたびたび展示されているのを見ています。
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乾山が「八十一歳」の時の作品だと記されているそうです…こんどちゃんと見てみよ…。それにしても数えで81歳…っていつなんでしょう。乾山が生まれたのが1663年ですから…1743年ってことであっていますかね? 乾山は、寛保3年6月2日(1743年7月22日)に亡くなっているので、本当に最晩年の作品ということになります。
そして、わたしたち台東区民にとって、もっと重要なのは、この皿が前述した入谷の窯で作られた確率が高いということです。なのにトーハクったら、解説パネルに京都・鳴滝の窯の話しか書いていないなんて! そりゃないよ!
■酒井抱一さんの親友・亀田鵬斎(ほうさい)さんの書
これまで何度か酒井抱一さんについて記してきました。『江戸琳派の創始と言われる酒井抱一ってどんな人?』というのもその1つです。
このnoteで、こんな一文があったので、そのままコピペします。
出家した酒井抱一は、江戸市中を転々としたのち、文化六年(1809)に下谷金杉大塚村に引っ越しました。田んぼが広がり、静かな小川が流れる江戸の下谷・根岸に一庵「雨華庵」を建てて住み始めたのです。今で言うメトロの入谷駅(東京都台東区)の近くですが、当時は、鄙びた情感豊かな場所だったのです。また、吉原までは歩いて10分〜15分ほどで行ける上に、侍臣であり弟子でもある鈴木其一は隣に居を構えます。さらに親友の文人、亀田鵬斎(ほうさい)の家とは目の鼻の先……御徒町の谷文晁の家からも歩いて20〜30分くらいの場所ということで、毎日を非常に楽しく過ごしていたことでしょう。(なお、谷文晁が生まれたのも根岸)
(記憶によれば…)酒井抱一さんと谷文晁(たにぶんちょう)さん、それに亀田鵬斎(ほうさい)さんは、3人で茨城だったか千葉だったかあたりまで旅をするほどに仲が良かったようです(追記:常州若柴の金龍寺=現在の茨城県龍ケ崎)。そして酒井抱一さんの、自宅兼スタジオの雨華庵(うげあん)の、ほんとうに近所には亀田鵬斎(ほうさい)さんが暮らしていました。また谷文晁にしたって生まれたのは根岸であり、成年になってから長く暮らしたのは御徒町のあたり。根岸も御徒町も同じ台東区ですし、根岸=今のメトロ入谷駅から仲御徒町駅…またはJR 鶯谷駅から御徒町駅は、いずれも電車でふた駅…4-5分で着く場所で…たらたらと歩いても20-30分ほどでしょうか。
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https://dl.ndl.go.jp/pid/9369588/1/2
亀田鵬斎(ほうさい)さんのことは、正直に言って…よく知りません。どうやら儒者であり、書家でもあったようです。この時点で、この方面に教養のないわたしには、残念ながら興味の範囲外なんですよね…。
それで、今季のトーハクには、亀田鵬斎(ほうさい)さんの書が展示される! って知っても…「おそらく見ても分からないんだろうなぁ」っていう感じでした。でも名前は知っていますし、なによりご近所の根岸の人ですし、酒井抱一さんのお友達ですし、今まで書を見たことがありませんでしたし、「忘れずにしっかりと見よう」と思ったんです…意識しないと通り過ぎちゃいそうだったので。
そんな亀田鵬斎(ほうさい)さんを舐めた感じというか、たいへん失礼な感じでトーハクへ行ったのですが!
予想外に、とんでもなく存在感のある書でした。大げさに言うと、衝撃を受けました。
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展示されているのは《蘭亭序屏風》。これまで王羲之(おうぎし)の蘭亭序については、何度もnoteしてきました。中国人だけでなく、日本人からどれだけ愛されてきたのかも、この歳になってやっと知りました。ただし、わたし自身は、まだ王羲之の書や蘭亭序に記されている意味を愛せているかと言えば、それほどでもないんですけどね。でも、今回の亀田鵬斎(ほうさい)さんによる《蘭亭序屏風》を見たら…以前よりも蘭亭序が好きになりました。にょろにょろ文字なので、文頭の「永和九年…」しか、何が書かれているのか分かりませんけどね…。
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なにが書かれているか分からないし、わたしはニョロニョロ文字が苦手なのですが……なぜか亀田鵬斎(ほうさい)さんの今作には魅力を感じました。亀田鵬斎(ほうさい)さんのことを全く知らなければ、また別の感想を抱いたでしょうけれどね。
ちなみに蘭亭序については、下のnoteに全文やら解説やらを頑張って書きました。専門家ではないので、どれだけ正確かは保証外ですけれど。
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さて、亀田鵬斎さんの《蘭亭序屏風》については、下記のような解説パネルがありました。これがおもしろかったんです。
まず「亀田鵬斎は近世後期の儒学者です。幕府による朱子学以外の学問の禁止(寛政異学の禁)に反対し弾圧を受けました」とあります。このNHK大河ドラマの『べらぼう』と同時代の人たちは、田沼意次の自由な雰囲気の時代を謳歌したのちに、松平定信の治世で息苦しさを感じていた…というのが一般的な歴史認識となっていますよね。
白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき
儒学者の亀田鵬斎さんも弾圧「される側」だったんだぁ…というを、はじめて知りました。だからなのかもしれません。亀田鵬斎さんの後半生は、不遇な雰囲気をまとっているんですよね(詳しくは知りませんけど…)。それで、どこかの資料を見た時に、友だちの酒井抱一や谷文晁が、亀田鵬斎さんを見舞っていたとか励ましていたようなことが書かれていた気がします(気がするだけですけどね)。
解説パネルは次のように続けます。「酒井抱一、谷文晁、良寛との交流が知られます」と……。
良寛さんって、この時代の人だったの!! というのがびっくりポイントでした。良寛さんの書って、トーハクでも見かけることがあるんですけど、確かに近世書画の部屋に展示されています。でもでも、その良寛さんが亀田鵬斎さんと友だちだったなんて!! びっくりですよ! ってことは、良寛さんと酒井抱一さんが面識があっても、ぜんぜんおかしくないじゃないですか!
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まぁそんなこんなで、なんで良いと思ったのかは分からないのですが、屏風の前に立ったら、良い文字だなぁ…こんなふうに書けるようになりたいな…と思いました。
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それで……なんでこんなにしつこく写真を撮ってきたかといえば……この亀田鵬斎さんの《蘭亭序屏風》って、個人蔵の寄託品なんです。個人からトーハクがお預かりしているものなんですね。そうすると、トーハクの画像アーカイブにもないし、ColBaseにも画像データがないんです。なので、ここにアーカイブしておこうという思いで、たくさんnoteしておきました。
■(書きかけの)酒井抱一さんとは?
酒井抱一さんは、姫路藩…酒井雅楽頭(うたのかみ)家の次男として生まれた名門のお坊ちゃんです。幼い頃に狩野派の先生(狩野惟信)について絵を学んでいますが、これはおそらく大名や旗本の子息であれば、現代の子どもたちがピアノなどを習うのと同じようなノリだったと思います。と同時に、藩主である実兄の酒井忠以(ただざね)さんが、そうとうの文化人だったようで、書画を始めとする文人墨客を屋敷に招いていて、さながらサロンのような様相を呈していたようです。
その後、酒井抱一さんは20歳前後からは浮世絵師の歌川豊春に師事しています。のちの絵から想像できませんが、この頃に師匠の絵を真似て書いた美人画が残されています。また、ほかにも中国写実主義の南蘋派(なんぴんは)から影響を受けたり、その流れでだと思いますが、日本画と写実を融合した京画壇の円山応挙や伊藤若冲などにも私淑した時期があったようです。
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だいたい今回のnoteのどこかに登場するはずなのですが…書きかけのまま終わるnoteなので、登場しない人たちも何人かいるかもしれません。
<登場人物>
■松平定信=寛政の改革で有名。抱一さんの親友、谷文晁さんの主君。
■酒井忠以=酒井抱一さんの実兄で、姫路藩藩主。抱一さんの最大の理解者。
■松平不昧=松江藩七代藩主。茶人として、抱一の実兄・忠以さんと懇意。
■狩野惟信=抱一の若い頃の絵の師匠
■宋紫石=長崎の南蘋派の絵師(日本人)。江戸に来た際に実兄・酒井忠以さんと一緒に歓待。
■歌川豊春=浮世絵師。抱一さんの師匠の一人
■伊藤若冲と円山応挙=抱一さんが、なんらかの影響を受けている。
■大田南畝や山東京伝などのオレンジ線は、抱一さんの友だち。
■蔦屋重三郎=吉原出身の版元。蔦重が出版した狂歌集に「尻焼猿人」として登場するなど、状況証拠からして、抱一さんと蔦重は「知り合いだったはず」。知り合いではなかったと否定するのは難しいはず。
■緑の線は、その他の知り合いまたは関連の深い方々。
そして酒井抱一さんが最も有名なのが、尾形光琳へのリスペクトがすさまじかったというお話ですね。もともと俵屋宗達が描いた《風神雷神図》(建仁寺蔵)を、尾形光琳が真似して描いていますが(東京国立博物館蔵)、その《風神雷神図》を酒井抱一さんも描いていますし(出光美術館蔵)、尾形光琳版の《風神雷神図》の屏風の裏側に、酒井抱一さんは《夏秋草図》を描いていることでも知られています。
こうして藩主家の御曹司というよりも、ガチの絵師のような解説ですが…戦術の通り、お兄さんが相当の風流人だったのと、おそらくですがこのお兄さんが抱一さんと馬があったんでしょうね。酒井抱一さんはニートみたいな生活をしていましたが、藩主であるお兄さんが理解者だったんですね。名門酒井家の御曹司ですから、ニートとはいえ、色んな縁談の話が来ます。酒井家としても、藩主に子が生まれた後は、弟・抱一さんには早く家を出ていってほしかったでしょうに、藩主のお兄さんが「いいよいいよ、抱一には好きなようにさせてあげてくれ」といった感じだったのか、縁談を断ったりしてしまうわけです。(ちなみに「抱一」という号を使い始めるのは、兄が亡くなった後のことです)
それだけでなく、お兄さんは、色んな文人墨客を自邸に招待しては酒井抱一さんにも合わせていたようです。その時に合わせてくれた人の中には、後に抱一さんの親友と言ってもよい関係になる南画家の谷文晁(たにぶんちょう)さんや、書家・儒学者である亀田鵬斎(ほうさい)さんなども含まれます。
でも、酒井抱一さんが30半ばの頃に、その最大の理解者であったお兄さんが、亡くなられてしまいます。そうなると遊郭・吉原通いが度を越していたということもあったでしょうけれど、酒井家に居づらくなってしまいました。それで、自らなのか家来などが無理やり仕向けたのか分かりませんが、頭を剃って、浄土真宗の東本願寺の僧侶となります。この時に「抱一」となるのですが、同時に酒井家を出て、今の台東区の「千束(せんぞく)」という場所に引っ越します。
分かる人には分かると思いますが、この千束は…遊郭の(新)吉原があったエリアです。後の明治になると、一時期、樋口 一葉が暮らして、名作『たけくらべ』の舞台となった街ですね。
この前後には、酒井家からの俸禄(給料)のようなものが途絶えてしまいましたから、吉原へ遊びに行くお金はもちろん、生活費も自分で稼がなきゃならなくなって、かなり本格的に絵師として自立していったようです。
さらに10年後くらい経つと、酒井抱一さんは新吉原の大文字屋の花魁(おいらん)・香川を見受けして、少し離れた根岸というエリアに草庵・雨華庵(うげあん)を建てて引っ越します。
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なぁんて、だらだらと書いていたのですが、途中で「こんなに細かく書いていたら、トーハクでの酒井抱一さんの展示などが終わってしまうんじゃないか?」と、思い至ったので、ここで力尽きました。また今後、酒井抱一さんなどを紹介する機会もあるでしょう。その時に、また続きを書けたらいいなと思います。
■(参考資料)抱一さんの《花鳥十二ヶ月図》
トーハク蔵でもなければ、いま展示されているわけでもないのですが、酒井抱一さんが最晩年の1823年に描いた《花鳥十二ヶ月図》を、ここにこっそりとnoteしておきます。
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昨年5月下旬から皇居三の丸尚蔵館における展覧会で展示されていたものです。隣には伊藤若冲の国宝《動植綵絵》が4幅かかっていて、もちろん、展覧会のメインはそちらでした。《動植綵絵》には常に誰かが見入っていましたが、国宝ではない酒井抱一さんの《花鳥十二ヶ月図(うち4幅)》は、かなりじっくりと見られる状況でした。どちらが良い絵なのかはわかりませんが、わたしがより関心を抱いたのは、ご近所さんの酒井抱一さんでした(笑)。
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以上、いろいろと中途半端ですが、今回のnoteは以上です。
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