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横山大観など仲良し四人組が旅して飲みまくって描いた紀行絵巻《東海道五十三次絵巻》

東京国立博物館(トーハク)の近代絵画の部屋に、またまた《東海道五十三次絵巻》が展示されています。横山大観をはじめ下村観山や今村紫紅(35歳)、それに小杉未醒の4人が、再興された日本美術院の運営資金を工面するために、東海道を汽車を使わずに写生旅行して描いた作品です。描かれたのは大正4年……1915年のこと。

再興日本美術院研究所の発起人。左三人目から横山大観、一人(安田靫彦)飛ばして今村紫紅、下村観山、小杉未醒

東京と神戸を結ぶ東海道線が開通したのは、1889(明治22)年7月のこと。横山大観などが旅したのは、その26年後なので、なんで汽車を使わないの? という時代だったのかもしれません。この絵巻は全9巻。旅行には表具師を連れていったそうで、描きながら絵巻に仕立てていき、全巻は、ほぼ旅の間に完成した…と解説パネルに記されています。

また、後には文淵堂というところから豪華本のような形で出版というか印刷されて、絵巻として発売されたもよう。当時の書評誌を読むと、この4人の東海道中は、一般にもなかなかに話題となったようです。

▲東海道五十三繪卷(大観、観山、紫紅、未醒合作) 當て四画家が相携へて日本橋で出發點とし徳川時代の東海道五十三次を經由し京都三條大橋に至る日記にして詩酒放浪一駅毎に高興に乗じて筆を揮ひたる者即ち本著にして五十三次の今昔の変遷風物の転化を彷彿せしむ、例の文淵堂一流の意匠を凝したる美装にして極上等細長洋紙七十四枚、織り合して以て九巻の絵巻物となすべく美しき紙函に收む之を紙函の儘にして保存せんも優に應接室を飾るに
足るべし合作の四家に和洋の両家あり四人特殊の筆趣は見る者をして飽くことを忘れしむ蓋し四画家の東海道旅行は當時各新聞に其の一斑を記るされ佳話好談珍らしき旅行として伝へられたるは人の尚ほ記憶に新なる所なるべし(金五圓、麹町區平河町五の五金尾文淵堂)

『読書世界』6(10)の中の『新刊批評』のページから,讀書會,1915-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1530794

もう何度も見てきた《東海道五十三次》のスタート地点……日本橋です。汽車を使わない、大正時代の旅って……歩いたのかな? そんなわけないよな? と思って調べてみると、人力車で旅したそうです。

大正3年9月、研究所の落成を機に、再興日本美術院の開院式をあげ、10月に第1回展を首尾よく開催した横山大観、下村観山,今村紫紅,小杉未醒らは、翌4年正月、谷中の寺内氏の後援で東海道を下り京都までの写生旅行に出る。汽車を使わず人力車を連ねての大行軍という。各々のスケッチは順序
よく編集され全九巻の合作絵巻に仕立てられて3月に高島屋で公開されている。淡い暖かみのある色調,豊かな掃情性と、そこに院展ロマンティシズムとも言うべき共通の空気を感じさせる。未醒は奉書紙にニュートン製水絵具で描いたと言う。

栃木県立美術館 編『小杉放菴展 : 仙境に遊ぶ脱俗の画家』,栃木県立美術館,[1978]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12740064
今村紫紅《品川》

大正四年三月、紫紅は、横山大観、下村観山、小杉未醒(のち放庵)表具師寺内銀次郎とともに東海道を京へ向け出発した。その折の印象を全巻にまとめ上げたのが本図で、写生をしておいて帰ってからの制作ではなく、毎夜宿泊地で少しづつ完成させながらの旅行であった。柴紅は、第一巻品川・神奈
川、第二巻大磯・箱根湖水、第三巻吉原・蒲原、第四巻岡部、第五巻金谷・袋井、第六巻新居・御油、第七巻鳴海、第八巻色山・関、第九巻京を担当している。

今村紫紅 [画]『今村紫紅 : その人と芸術 特別展』,山種美術館,[1984].
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12426050
今村紫紅《品川》
今村紫紅《品川》

この旅行には酒豪が揃つたこととて連日大盃を擧げたのが害をして、(今村紫紅は)四月廿六日に湯から出て卒倒した。可なり危い命をとり留めたのであつたが無邪氣な小供らしい氏は、飛行機が来たとて二階に駆け上つてまた倒れた。

『美術画報』39(8),画報社,1916-07.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1898304
今村紫紅《品川》
下村観山《大森》
下村観山《大森》
下村観山《大森》
下村観山《大森》
横山大観《川崎》
横山大観《川崎》
横山大観《川崎》
横山大観《川崎》
横山大観《川崎》
横山大観《川崎》
今村紫紅《神奈川》
今村紫紅《神奈川》
今村紫紅《神奈川》
今村紫紅《神奈川》
今村紫紅《神奈川》
今村紫紅《神奈川》

(今村紫紅は)あだ名は目黒の貸元といわれた人で、親分肌で、よくけんかなんかをやったらしいし、一つの話では原富太郎(原三溪)はしっかりしていて、毎月後援のお金をあげる、だけども、それ以上の絵を納めさせるような人だった。紫紅がお正月に二、三人の弟子を連れて原家へ行ったら、道具を出して「これに絵を描け」といった。すずりに墨をすらして、手にべったり墨をくっつけて屏風にべったりとやって、「もみじの絵でございます」といったというような話もあるし、腹いせでやったような、ちょっとそういうような人ですね。
それから『東海道五十三次絵巻』を描きに、大観と観山と小杉未醒、のちの放庵などと一緒に行った時なんか箱根かどっかで遊んじゃって、お金がなくなったという話があってね。あとで東京から持ってきてもらったらしいね。それからどっかの遊廓へ行って見たら、きれいな女の人がいたので、くじ引きをやったら、紫紅に当たったんですが、観山が内緒でそこの主人に袖の下をやってその人をとっちゃったので、柴紅が怒って、「おれは帰る」といい出したら、大観がなだめて思い留めた。ともかく大観と紫紅は天才的な人で、うまが合ったふうですね。

学習研究社 [編]『NHK日曜美術館』第4集の中の『テレビ対談「私と今村紫紅」』作家・金堂啓太郎のインタビュー記事から,学習研究社,1977.7.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12718836
下村観山《保土ヶ谷》
下村観山《保土ヶ谷》
小杉未醒《戸塚》?
小杉未醒《戸塚》
小杉未醒《戸塚》
小杉未醒《戸塚》
小杉未醒《戸塚》
横山大観《藤沢》
横山大観《藤沢》
横山大観《藤沢》
横山大観《藤沢》
横山大観《藤沢》
横山大観《藤沢》
1916年3月22日、旅の途中…豊橋で撮影。左から(表具師)寺内銀次郎、小杉未醒、今村紫紅、下村観山、一人おいて横山大観。
編集制作: 座右宝刊行会『現代日本美術全集』3,集英社,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12725717

ということで今回のnoteは以上です。

<過去にnoteした《東海道五十三次絵巻》>


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かわかわ
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