見出し画像

ほっこり白描画…トーハクの《理趣経曼荼羅》と《釈教三十六歌仙》

以前から白い紙に細い墨線でサッサッと人物などが描かれている「白描画」っていいなぁと思っていました。初めてそう感じたのは、東京国立博物館(トーハク)で見た、紫式部や小野小町などが描かれている《為家本の時代不同歌合絵》だったのですが、その後に同館の東洋館で見た《五百羅漢図巻》にもワオッ! となり、白描画が自分の好みにピッタリということが分かって、注目するようになりました。

それで先日の特別展『神護寺』は、ここだけの話ですが(ヒソヒソ……)、国宝の《両界曼荼羅(高雄曼荼羅)》よりも、同作品に描かれた神様などを後世の人が写した図案集のような、《高雄曼荼羅図像》などの白描画の方が魅力的に感じてしまいました。

でも特別展は撮影禁止なので、noteでは紹介しにくいなぁということだったのですが(1089ブログで少し見られます)……、同じトーハクの総合文化展(いわゆる平常展)でも、現在、白描画……と断言してよいのか分かりませんが、それに類する良品が展示されているので、noteしておきます(間もなく展示替えかも……)。


■理趣経ワールドをビジュアル化した《理趣経曼荼羅》

《理趣経曼荼羅》は、その名のとおり経典の1つである『理趣経』の曼荼羅です。元性さんという方が平安時代の承安元年(1171)に、紙に墨で描いた画です。

曼荼羅ってなんだよ? とも思いますが、ざっくりと言えば「理趣経曼荼羅」の場合は、理趣経という経典をビジュアル化したもの……と、わたしは認識しています。理趣経で語られている世界には、こういう仏さまがいて、こんな表情をされているとか、こういう配置で座られているんだよ……みたいな感じです。

そして、この理趣経というのは、司馬遼太郎が著した『空海の風景』でもかなりの文量を割いて説明されていましたが、密教の経典の1つで、かなり重要視されている、アダルティな経典です。

まぁ、司馬遼太郎さんが一生懸命に説明してくれていたのですが、今でも「で……理趣経って何なの?」という感じではあります。

例えばこれは↑↓は、「大日尊理趣会」とあるので、まぁ理趣経のもっとも重要な部分を表している気がします。わたしは理趣経を全く知りませんが、てきとうに言うと(信じちゃダメ)……真ん中にいるのが大日如来さんでしょうね。密教では大日如来さんが、ほかの菩薩や如来よりも上位にいる、Top of the topの存在です。

お経を読んでいても、おそらく難しすぎて頭がショートして眠くなってしまうだろうから、こうやってビジュアル化したのかもしれません。それで、偉い僧が、弟子たちに曼荼羅を見せながら、理趣経のお話を聞かせる……のではないかと思います(確証はゼロです)。

↑↓こちらは「金対輪菩薩理趣会」の世界が描かれているようです。「金対輪菩薩」……聞いたことがないのですが、おそらく中心に描かれている方なのでしょう。腕が六本の六臂で、左手に法輪を、右手に剣を持ち、頭上で「オッケー」をしています。表情は、もしかすると元は怖い顔なのかもしれませんが、白描画だと、少しやんちゃな……ニヤッと笑っているように見えるのが良いです。

理趣経の「会」……とは何でしょうね……グループとか世界のことでしょうか。同書には色んな「会」が描かれているのですが、その中でも「文殊師利理趣会」に注目してみました。というのも、「文殊師利」が何なのか分かりませんが……調べたらサンスクリット語の「Mañjuśrī」(マンジュシュリー)の音写とのこと。その「文殊師利」は、わたしの守護仏だからです。

なにか両手に持っていますが……多くの文殊菩薩が持っている剣とお経ではなさそうです。なにを持っているんですかね……。

↓↑ちょっと目を伏せているのが、文殊菩薩でしょう。

↓ 同じ文殊菩薩グループの会員です。おそらくこういう絵は、見るたびに印象が変わるものじゃないでしょうか。いまこの時には、わたしには「ん?」ていうような表情に見えます。

↑↓「五秘密会」とあります……なんか、この5人の仏さまのポージングが……失礼ながら、ちょっとプププッとなってしまいました。なんだかゴレンジャーとか、チューチュートレインっぽいと思っちゃったんですよね。

というかですね、さっきまでの人と違う人が書いているんじゃないかってくらい、墨線がキレッキレな感じがしますけど……どうなんでしょうね。対象を大きく描いているから、そういうふうに感じるだけかもしれません。

↑↓ なんの「会」だか分かりませんが、先ほどの文殊グループと同じで、穏やかな表情の方が多くて、ほっこりします。

↑↓ いつも人が見ていないところを優先して撮っていくので、順番がガチャガチャかもしれませんが……こちらは一転して、激しいですね。明王とかでしょうか。

ということで展示されている全てではありませんが、以上がトーハク所蔵の《理趣経曼荼羅》です。

Colbaseで調べたところ、奈良国立博物館にも同じような……《理趣経曼荼羅図像》というのがありました。それによると、一番下に登場した鬼みたいな方は、愛染明王です。画像データを並べて比べたわけではありませんが、ほぼ同じ絵ですね。

奈良の方のは、時宗の円伊さんが描いたと、江戸時代に鑑定されたようです。円伊さんと言えば……国宝などに指定されている『一遍聖絵』なども描いています。時宗の画僧が、理趣経曼荼羅を描く……というのは、驚くほどのことではないんでしょうか。

■歌自慢の僧侶36人の選抜《釈教三十六歌仙絵》

《釈教三十六歌仙絵》は、《理趣経曼荼羅》と同じく本館2階のあそこに展示されています(詳細は下図)。

《釈教三十六歌仙絵》は「13-2」室の壁際
《理趣経曼荼羅》は「13-1」室

《釈教三十六歌仙絵》は、神護寺の別当と東寺の長者を務めた、おそらく勧修寺に隠居みたいな感じだった栄海さん(1278〜1347)という方が、最晩年の貞和三年(1347)に選んだ歌です。

はじめに何か色んなことが書かれていて、その後に歌仙(歌の達人)が並ぶのですが……トップバッターは達磨(だるま)さん。中国の禅宗の開祖と言われているインド人です。9月14日から八王子市夢美術館では『かがくいひろしの世界展』が始まりますが、うちにも何冊かあるシリーズ『だるまさん』の元となった方ですね。幼児だった息子に何度も「だるまさんって本当に居た人だよ」って、ドヤ顔で教えるたびに「それ…なんども聞いたよ」と言われたのを思い出します。

達磨さんって、歌なんて読んだのかぁって思いましたが、横に記されている歌っぽい文字は、どうやら仮名交りの日本語なので、達磨さんがどんな歌を詠んだことになっているのか気になるところです。

ということで調べてみたら……

いかるかや とみの小川の 絶(たへ)はこそ わかおほきみの御名 をわすれめ

う〜ん……「いかるか」は「斑鳩」でしょうから、全体の意味は分かりませんが、日本のことを記しているっぽい気がします。

そして、達磨さんの次に撰ばれているのが、子ども……。なんか見たことあるなぁ……と思ったら聖徳太子でした。※ちなみに達磨さんと聖徳太子の間に記されているのが、上に挙げた翻刻です。

あ……ここで気が付きました……タイトルに「白描画」って言っていたのに、これは朱の入ったカラーじゃないですか。実は初めに見たのが、達磨さんや聖徳太子ではなかったんです。カラーはこの2人だけで、ほかはほとんど墨だけで表現されているんです……という言いわけです。

ちなみに撮りませんでしたが、聖徳太子の左に記されているのが……

しなてるや 片岡山の いひにうへて ふせる旅人 あはれおやなし

「片岡山に飢えて横たわる旅人よ、なんと哀れな、親のない人だろうか」

本当に聖徳太子の歌ですか? と思って、ググってみたら……日本書紀や万葉集、拾遺和歌集に、これと全く同じではありませんが、とても似た詩がのこっているそうです。

聖徳太子が馬に乗って片岡山へ行った時のこと……道端に飢えて倒れている人がいました。太子は馬からおりて歩み寄ると、着ていた紫の着物を脱いで、体に掛けてあげたといいます。そして詠んだのが、上の一首。太子からの問に答えたのが……先ほど達磨さんの歌として紹介されていた「いかるかや とみの小川の 絶(たへ)はこそ わかおほきみの御名 をわすれめ」の一首……贈答歌です。

「斑鳩の富の小川が絶えない限り、私が我が大君おおきみ(太子)のお名前を忘れることはありません」

色んな解釈があるかと思いますが……聖徳太子が無意識にかけた衣の色は紫……、つまりは最上位を表す色です。体にかけて上げた飢え人を、編纂した栄海さんは達磨大師の生まれ変わりというか、そういう存在だったとしたかったのでしょう。その達磨大師が聖徳太子……つまりは大和朝廷に対して「この御恩は忘れません」と言っていると……。朝廷には、禅の祖師である達磨大師が護っているぞ……ということを表現したかった……のかもしれませんね。

ということで、次は「僧正菩提」です。「菩提(ぼだい)」という言葉を、人の名前として聞いたことがないなぁと思って調べたところ「菩提僊那(ぼだいせんな)」という、奈良時代に中国・唐から日本に渡ってきた、南インド出身の渡来僧のことでした。なんとなく思い出しましたね……。拾遺集では婆羅門僧正というペンネームで記されているこの方は、日本の僧・行基さんに迎えられて、平城京へ入ります。そして天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には東大寺盧舎那仏像の、開眼供養の導師を務めたそうです。

その「僧正菩提(婆羅門僧正)」さんの左に書かれているのが……。

かひらえに ともにちきりし かひ有て 文殊の御かほ いまみつる
かな

そして、この「かひらえに〜」の歌は、隣に記されている行基さんの一首に対する返事のような歌なんだそうです。

霊山の 釈迦の御前に 契(ちぎり)てし 真如くちせす あひみつるかな

つまり、行基さんが「霊山(りょうぜん)で釈迦の御前で誓いを立てた真理は朽ちることなく、今こうしてお会いできたことよ。なんと感慨深いことか」と、菩提僊那さんに歌を贈ったと……それに対して「かひらえに〜」と、「過去世で(行基さんと)共に仏法の誓いを立てた甲斐があって、今ここで文殊菩薩のお顔を拝見することができました。なんと感慨深いことでしょう」と返した歌……ということになるようです。

ちなみに『拾遺集』には、これらの歌の前に「南天竺より東大寺供養にあひに、菩提がなぎさにきつきたりける時、よめる」と記されています。だから、菩提僊那さんが船で日本にやってきて、難波津に着いて対面した時……または歓迎会のような場で、やり取りした歌ということ。元は漢詩だったのかもしれませんね。

※「かひらえに」という言葉が、どういう日本語なのか分かりませんでした。AIに聞いたところ「『かひら』: この部分は「霊鷲山(りょうじゅせん)」を指すと解釈されていますが、直接的にはその意味を持ちません。」ということでした。真偽については分かりません。

以上は(以下も)、本多潤子さんという先生の「林和泉橡版 『釈教歌仙』について」という文章を参考にしながら書きました。そして先生によれば、「この冒頭四首の後は伝教大師と弘法大師、慈覚大師と智証大師と入唐八家のうちの四人が、それぞれ対になる。」と記されています。

ただし、残念ながらトーハク所蔵の《釈教三十六歌仙絵》で残っている分は、この冒頭の達磨さん、聖徳太子、菩提さん、行基さんの4人までです。あとは、散り散りになった断簡が残っているそうですが、その1つが、同館所蔵の「玄賓僧都」です。



釈教三十六歌仙絵1巻南北朝時代・貞和三年(1347)A-10486

おすすめ重文釈教三十六歌仙絵 玄賓僧都1幅南北朝時代・貞和三年(1347)A-10485

釈教三十六歌仙絵(模本)1巻江戸時代・19世紀A-6882


2,016年 歌仙絵



歌仙絵(かせんえ)とは、優れた歌人の和歌と肖像を表した絵のことです。釈教とは釈迦の教えなどという意味がありますが、ここでは僧侶のことを指していると考えられます。今回ご紹介する作品は、三十六の和歌とその和歌を詠んだ僧侶の肖像を描いた絵巻の一部です。三十六人の歌人を紹介するという形式は、平安時代の貴族で歌人の藤原公任(きんとう)によって作られた、「三十六人撰」という歌集を踏まえています。和歌は、京都にあるお寺、勧修寺(かじゅうじ)の僧侶だった栄海(えいかい)によって選出されました。  巻頭には栄海による選出の趣旨が述べられています。最初に出てくる肖像は、禅宗を開いた達磨(だるま)、その向かい側の子どもは聖徳太子です。聖徳太子は僧侶ではありませんが、日本に仏教を広めた人物ということで、取り上げられたのでしょう。次に出てくる二人の人物は、奈良の東大寺の大仏建立に深く関わる、僧正菩提(そうじょうぼだい)と行基(ぎょうき)です。いずれも、日本仏教史に深い関わりのある人物たちで、年代順に登場します。  肖像の描き方に注目してみましょう。一部彩色が施されていますが、基本的には墨のみで人物を表現しています。このように墨線で描く方法を白描(はくびょう)といい、仏教絵画では絵の様式や図柄を描いて伝える際に用いられる手法です。肖像の描き方にも仏教の要素が盛り込まれています。宮廷文化である和歌と仏教を関連させた、興味深い作品です。

Colbaseより


白描ではないカラー版


■《釈教三十六歌仙絵 玄賓僧都》

達磨さんや聖徳太子が描かれた、先に挙げた《釈教三十六歌仙絵》は、37人36和歌が描かれ記されていた、本当はもっと長い巻物(巻子)でした。でもコレクションしていた人の家庭の事情があったのか、歌仙1人分だけを切って売られてしまいます。こうして断簡にされてしまうことは、巻物(巻子)ではよくあることですが……そんな1人=1枚が、この《玄賓僧都(げんぴんそうず)》を描いたものです。

先ほどのも重要文化財に指定されていますが、こちらの《玄賓僧都(げんぴんそうず)》もしっかり重文指定されています。

《釈教三十六歌仙絵 玄賓僧都》A-10485
南北朝時代・貞和三年(1347)

三輪河の 清きなかれに すゝきてし 衣のそてを またやけかさん

■江戸時代に完全に模写された《釈教三十六歌仙絵(模本)》

え……巻物展示ではよくあることですが、一部分しか見られないのかぁ……と残念に思いますが、まだ先に展示されている巻物があるんですよ。

達磨和尚と聖徳太子

あれ? さっきと同じ達磨(だるま)さん・聖徳太子(しょうとくたいし)、菩提僊那(ぼだいせんな)・行基(ぎょうき)さんと、同じ絵が続きます。解説パネルに戻って読んでみると、タイトルに(模本)とあります。

誰の指示で誰が模写したのか分かりませんが、江戸時代の19世紀に本物を写しとられたものなのでしょうか。トーハクには、こうした「模本」がたくさん収蔵されていますが、多くが狩野派などの御用絵師によるものです。画技を研鑽するためもあったでしょうが、文化財保護的な意味合いもあったのかもしれません。とにかく散り散りになってしまった《釈教三十六歌仙絵》が、模写とはいえ、今でも完全な形で見られるのはうれしいものです。

伝教大師(最澄)

本物の《釈教三十六歌仙絵》で残っている、行基さんまでは全く同じです。その次に登場するのが伝教大師……最澄さん。日本の天台宗の祖として、あまりにも有名ですね。その最澄さんが、788年(延暦7)、比叡山に根本中堂を建立された時に読んだとされる、『新古今集』釈教部にある歌が記されています。

阿褥多羅三貌三菩提の仏たち我たつ杣(とま)に冥加(みょうが)あらせ給へ

臨済宗の円覚寺のWebサイトには、「この上無いの覚りを成じたみ仏たちよ、わたしの入り立つこの杣山(そまやま)に、どうか冥加(みょうが)をお与えくださいという意味」だと記してありました。まぁ訳されてもどんな意味か分からないのですが……そのうち分かる日がくるかもしれません。

ちなみに和歌の冒頭にくる「阿褥多羅三貌三菩提」は、「あのくたら‐さんみゃく‐さんぼだい」と読むと記されています。般若心経“に”なのか、般若心経”にも”なのか分かりませんが、記されています。「あぁ〜のく たぁ〜らぁ さんみゃく さんぼぉ〜だい」みたいな感じですかね。

わたしはちゃんと読んでいませんが、平野多恵さんという方が『釈教歌の方法と文体』(PDF)という論文(?)で、詳細を記されています。

弘法大師(空海)

そんな天台宗の最澄さんの次に来るのは……この人しかいません!……弘法大師の空海さんですね。

法性の無漏戸ときけは我すめは有為の浪風たぬ日そなき

『新勅撰集』には、この歌の前に「土左国室戸といふところにて 弘法大師」と記されているそうです。室戸と言えば、空海さんが御厨人窟(みくろど)……一人で岩窟に籠もって修行された場所。ここで明けの明星(金星)が口からスポッと体の中に入ってきた……と、自身が著した『三教指帰』に記しています。悟りを開いた瞬間……と言われていますね。そして、大海を目の前にした、この場所で、「空海」という名前を思いついたとされています。

わたしも20代後半で歩いて四国八十八箇所を巡った時に、この場所に朦朧としながら立ち寄りました(真夏だったので、熱中症でぶっ倒れる寸前でした……室戸までの道は、店も自販機もない道が長かった記憶があります)。どんな場所だったか全く記憶が残っていませんが、「たしかにここで空海という名前を思いついたんだろう」と思った気持ちだけは覚えています。ちなみに空海さんのことは尊敬していますが、わたしは真言衆徒でも仏教徒でもありません。

弘法大師(空海)

空海さんのあとは、なぜか慈覚大師の円仁さんを飛ばして、智証大師の円珍さん↓を撮ってきました。彼は空海さんの甥っ子ですが、天台宗……延暦寺の第5代座主(ざす)に就いた方です。詳細は、過去note『地味だけど実は国宝や重文! 4月のトーハク常設展で見てきた国宝の書の数々』に記したので、ここでは割愛します。

慈覚大師(円仁)
大かたの過る月日をなかめしは我身に年のつもるなりけり

智證大師(円珍)
法の舟さしてゆく身はもるノーの神も佛も我をみそなへ

智證大師(円珍)

またなぜか沙弥満誓(さみのまんぜい)さんをちゃんと撮らず(↓ 右端で見切れている方)、次↓が玄賓僧都(げんぴんそうず)です。断簡としてトーハクに収蔵されている方ですね。

沙弥満誓(さみのまんぜい)
世中を何にたとへん朝ほらけこきゆくふねの跡のしら浪

玄賓僧都(げんぴんそうず)
三輪河の清きなかれにす、きてし衣のそてをまたやけかさん

玄賓僧都(げんぴんそうず)

僧正(そうじょう)の遍照(へんじょう)さん。わたし、この人をず〜っと、遍照金剛……つまり空海さんだと思っていました。まったく異なる人だったんですね……ハズ……。

僧正遍照
いそのかみ ふるの山辺のさくら花 うへけん時を しる人そなき

遍照さんは本家の三十六歌仙の一人でもあり、百人一首にも歌が入っています。その歌は……
「天津風(あまつかぜ)雲の通ひ路(かよひじ)吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」

喜撰法師、僧正聖宝、素性法師を飛ばして、次は↓空也上人です。

喜撰法師
我庵はみやこのたつみしかそすむ世をうし山と人はいふ也

僧正聖宝
はなのなか めにあくやとて 分行は こゝろそいとゝ ちりぬへらなる
→(古今和歌集では)花の中 目にあくやとて わけゆけば 心ぞともに 散りぬべらなる

素性法師
我のみや あはれとおもはん きりぎりす なく夕かけの 大和なて
しこ

空也上人
うろの身は 草葉にかゝる 露なるを やかて蓮にや とらさりけん

日蔵上人を飛ばして……次は↓蝉丸さんを撮っています。

日蔵上人
寂寞(じゃくまく)の こけの岩戸のしつけきに なみたの雨の ふらぬ日そなき

蝉丸
秋かせに なひく浅ちの 末ことに をくしら露の あはれ世の中

↓ 性空上人
千年ふる 松たに朽る 世中に けふともしらて たてる我哉

↓ 小僧都源信
われたにも まつ極楽に 生れなは しるもしらぬも みなむかへてん

ということで《釈教三十六歌仙絵》の模本は、まだまだ続きますが、今回見られるのはここまでです。見られるのは2024年9月29日(日)までですが、展示替えはなさそうなので……全てが展示されることはないでしょうね(だって……達磨さんや聖徳太子が見られなかったら残念でしょうからね)。

なお、トーハクの画像アーカイブでは、すべてが見られます。

<参考資料や今度読んでみようかなという資料>

《釈教三十六歌仙絵》は、例に漏れず様々なバージョンが各地に残されているそうです。その中心は上で紹介したトーハクの原本(本物)のものです。研究も、その本物を中心に行なわれてきたそうですが、少し先述した本多潤子さんという方が、色んな角度から見て論文を発表されています。

・本多潤子『下河辺長流の「三十六人歌合」と「釈教歌仙」』
・本多潤子『林和泉橡版「釈教歌仙」について』
・平野多恵『釈教歌の方法と文体』
・古川攝一『大和文華館 美のたより 研究ノート 弘法大師像(釈教三十六歌仙絵断簡)をめぐって』

また、トーハクには上で挙げた模本のほか、狩野晴川院(養信)によって模写された《釈教三十六歌仙絵(模本)》が所蔵されているようです。蝉丸(蝉麿)さんから始まるうえ、雰囲気が異なるものなので、ほかのバージョンを模写したものでしょう。

以上です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集