江戸時代の絵師が学んだ“西洋画”……@トーハク
今季の東京国立博物館(トーハク)・本館2階の、「屏風と襖絵(7室)」から「書画の展開―安土桃山~江戸(8-2室)」の部屋の主役は……亜欧堂田善さんです。← ちなみにこれはトーハクが明言しているわけではなく、わたしがそう感じたというだけです。
この7室から8室にかけては、ざっくりといえば安土桃山時代から江戸時代にかけての日本美術を展示している部屋です。今季は、これらの部屋で日本美術が西洋からどのような影響を受けていたのかが垣間見られる展示になっています。
正直、美術品としては……それほど……という印象を受けました。特段、美術的にすばらしい! という感じではないと……思いました。ただしですね……博物館の収蔵品としては、おもしろいなぁって感じがします。
■江戸時代の初期……西洋(人)を描いた南蛮図がトレンドに
今回の展示が面白いなと思ったのは、特に江戸時代の画家や絵師たちが、西洋画の画法を学びつつも、その後の日本美術の中では埋もれていったことです(そうわたしは感じました)。立体的にリアルに描くという西洋画に、後の明治人が抱いたような「西洋への憧れ」を、江戸時代の絵師たちは感じていないようだな……というのが分かる展示のような気がします。
まぁとにかく作品を見ていくと、まず7室では2セットの南蛮図が見られます。どちらも撮影禁止だったのですが、その後の8室にも同じような……と言ったら怒られそうですが……南蛮図が展示されていたので、そちらを先にnoteします。
「友信」印とありますが、加賀前田家に仕えた狩野友信さんだと考えられているそうです。
解説パネルによれば、南蛮図は、まだキリスト教が禁止される前の17世紀の前半に人気を博したそうです。そして当作が描かれたのが、1612年(慶長17)にキリスト教信仰禁止……禁教令が発せられた後のものなのだそうです。
上の右隻は「ヨーロッパの商人やキリスト教の宜教師を載せた外洋船が日本の港に到着し、舶載品を陸揚げする様子」を描いたもの。それに対して、下の左隻には、「想像上の外国の光景」が描かれているそうです。
いずれにしても江戸初期には、日本人の絵師によって西洋人を描くことが流行っていた……というよりも、そうした南蛮図を部屋に飾りたいと思った有力者が多かったということです。とはいえ、描き方に西洋画の手法は使われていない……使われていても、特に強調はされておらず、日本画のなかに完全に取り込まれていると言っても良さそうです。
以下、細部を見ていきますが、長くなるので特に解説は付けません。
↑ 寝転がっている人が気になって撮ったのですが、波の描き方は完全に日本画の描き方だなぁとも。
この頃の西洋人って、こんなボタボタなズボンを履いていたんでしょうか。ちょっとインドっぽい風俗のような気もします。また、馬の描き方が……あまり上手ではないような……先日noteした北斎の描いた馬みたいなクオリティだと感じました。あまり身近な画題ではなかったのでしょうか。
■日本画に取り込んでいった西洋画法
屏風の部屋には南蛮画2セットのほか、亜欧堂田善さんの《浅間山図屏風 A-79》が展示されています。
7室では毎回、屏風や襖絵が、3セットだけ展示されている、ちょっと贅沢な部屋です。そのため、いつも「おぉ〜」とか「ほっほぉ〜!」とか、いつも感心させられるような……選りすぐりの作品が展示されているものです。
ただし今回、《浅間山図屏風》を見た時には「なんで?」って思いました。どこに感心または関心を抱くべきなのか、パッと見では分からないからです。端的に言うと「そんなにすごくないよね…これ?」って感じです。
ではなぜ展示されているかと言えば、続く8室の部屋にある、西洋画の影響を受けた江戸時代の作品につなげるためです。亜欧堂田善さんは、そうした画家の代表例の一人であり、おそらくこの《浅間山図屏風》が、最も大きな作品なのでしょう……ということで重要文化財に指定されています。
亜欧堂田善は、江戸時代後期の寛延元年(1748年)に、陸奥国(現・福島県)の須賀川という場所で生まれた画家です。寛政の改革で知られる松平定信さんの部下・文晁(ぶんちょう)さんと同様に、松平定信さんに仕えていました。
この文晁さんと言えば、殿様の命により、全国をスケッチしていった『公余探勝図』が、同じくトーハクに所蔵されていまて、先日まで展示されていました。↓ 下は数年前に撮ってnoteした『公余探勝図』。この図の特徴は、西洋画っぽい陰影を意識して取り入れられている点にあります。
その文晁さんの弟子だったかは分かりませんが、同じく松平定信の元で働いていたのが、亜欧堂田善さんです。「あおうどう でんぜん」と読みます。後には、西洋の銅版画の技術習得を、殿様に命じられています。
そんな文晁さんの影響を、とても感じるのが、展示されている重要文化財の《浅間山図屏風》です。
何で描いたものかと言えば、油彩です。油絵だと言ってよいんでしょうかね。ゴッホのようにモリモリに絵の具を盛っていないので筆致が分かりづらいのですが、よく見ると……言われてみれば油彩なのかな……という雰囲気を持っています。少なくとも「日本画だな」とは感じません。
山の稜線の描き方などは、日本的なものを感じますね。
解説には「近年発見の下絵では、斧で木を割る人と炭焼き窯の番人が描かれていましたが、本絵では徹底して風俗要素を排し、風景そのものを描こうとしています」ということなので、トーハクなのかわかりませんが、この絵の下絵が存在するようです。
■西洋画を真似した安土桃山時代の絵師
時代はまた安土桃山時代に遡ります。この頃には既に西洋画が日本に入ってきていた……ということが分かる絵が何点か展示されています。
なんだか……真似たっていうのがよく分かりますね。すごく頑張ってはいるけど……美術的な価値はほとんどなさそうです。
今ある不忍池の弁天堂とは、かなり印象の異なる建築物が描かれています。当時はもっと、仏教寺院のような設計だったんですね……。
現在は六角堂みたいなのが隣接していて、そちらの方が目立っています。最近、近くまで行かないので忘れましたが、もっと神社の拝殿と本殿のような作りだった気がします。
この絵では、今とは異なり、不忍池の西側に屋台などが立ち並んでいますね。明治になると、軒並みお店が潰されたのか……今は広めの歩道になっています。奥の丘の上には、鐘楼のようなものが見えますが……上野の時の鐘は、反対側の東側にあるので……なんでしょう。
下の東側を見ると、ちゃんと弁天堂につながる道に鳥居があるのが分かります。絵の左側の丘を上っていくと、今と変わらず清水観音堂があったはずです。
■円山応挙が友人の両親を描いた肖像画
あまり西洋画……という雰囲気でもないものもあるのですが、その技法を上手に取り入れていった肖像画の事例がいくつか展示されています。
なかでも足を止める人が多いのが、やはり伊藤若冲の2作品です。1つ目は《拡元先生像》。誰? という感じですが、おそらく肖像画を書いてくれるように頼まれたのでしょう。
上の《拡元先生像》は、筆者の円山応挙の友達で、儒者で画家で皆川淇園のお父さんを描いたものです。
昭和14年に、皆川家の子孫が、この絵を収める箱に絵についての由来を記していました。その箱書きには「安永八年(一七七九)八月四日の朝食の折に淇園の父が急逝し、早速応挙を呼びにやり首像を描かせた、と淇園の日記にある」と書かれているそうです。
なお円山応挙は、皆川淇園のお父さんだけでなく、お母さんのことも写し描いていました。それが、同じくトーハクに所蔵され、今季は隣同士で架けられている《端淑孺人像(たんしゅくじゅじんぞう)》です。
いずれも皆川家に伝来し、両図とも無款なのですが、円山応挙筆の肖像画として広く知られているそうです。
■蝦夷のドンの肖像画
やっと本物を見られた……というのが《蝦夷紋別首長東武画像》です。これは、トーハク本館1階の「アイヌ・琉球の部屋」の壁に大きくプリントされていて、そちらはたびたび見ているのですが、実物を目の前にするのは今季が初めてです。
これが西洋絵画の流れということで展示されているようでしたが……どこらへんが西洋っぽいのかは分かりませんでした。解説パネルによれば「写実的な表現」というのが、それのようです。
この風貌に引っ張られてしまったからかもしれませんが、なんとなく水墨画の「達磨大師像」の影響の方が強いような気がしますけどね……どうでしょう。
■惜しくも国宝に指定されなかった肖像画
渡辺崋山といえば、国宝《鷹見泉石像》が有名ですよね。彼は西洋画の遠近法や陰影法を採り入れた独自の画風を確立したそうです。そして肖像画に多くの名作を残していますが、この作品はなかでも最高の傑作なのだそう。
《鷹見泉石像》と同様に、トーハクには他にもいくつかの渡辺崋山による肖像画が残っています。《鷹見泉石像》は、特別展でしか見たことがありませんが、他の作品は1-2年に1回くらいは展示されているようです。
渡辺崋山は田原藩の江戸詰めの家老という身分の人でした。それでも家計は苦しかったようで、副業という感じで画業にも精進したそうです。江戸時代の武士の副業と言えば、傘や楊枝を作る内職のようなイメージがありますが、絵師というのも、本当に多いですね。
■日本人ばなれした描写の亜欧堂田善さん
冒頭のほうで、亜欧堂田善さんは幕府の老中を務めた、松平定信さんに仕えていたと記しました。さらに、その松平定信さんから銅版画の技術を習得するように命じられたのですが……その銅版画作品もまたトーハクに収蔵されています。
いくつあるのかを調べてみると……けっこうありますね。20〜30点くらいでしょうか……。
亜欧堂の田善さんが描き、銅板に自ら刻んだ作品は、大きく2つに分けられます。1つは、江戸または日本各地の名所を西洋画風に描き、刻んだものです。もう1つは、西洋画なのか西洋の銅版画なのかを模した作品です。
田善さんの銅版画を見ていると、とても緻密な彫り……というのか分かりませんが、描写が細かい雰囲気はあるんですよね。また、江戸時代の日本人が描いたとは思えないようなタッチも特徴です。むしろ、本当に田善さんが下絵を描いたんですか? と思うほど、西洋人が描いたもののように思えます。
それというのも、絵の雰囲気が日本人っぽくないというのに加えて……どうも、浅草寺の伽藍建築の違和感だったり、描かれている人のスタイルが良すぎちゃいませんか? 的なところも見受けられます。まぁでもすごい作品ではあります。
↑ これが「ドイツの画家リーディンガーの『プロシア馬図』を参考にした馬と人物」ですね……日本人っぽくもないし、日本の馬っぽくもありません。どちらもスタイルが良すぎる。
パッと見て浅草寺だと分かる伽藍配置です……なのですが、一つ一つの建物を見ると……当時もこんな設計ではなかったんじゃないの? という違和感を感じます。
例えば下の五重塔は、今とは反対側(東側)にあるので、位置は間違いありません。ただ、日本の五重塔と比べると、ずんぐりしていて、なんか違うなぁと。あと、構図の問題で省いたのかもしれませんが、手前に描かれているのは二尊像だと思います。ただ、二尊の像というくらいなので、観音菩薩と勢至菩薩があるのですが……これも一体しか描かれていません。
↓ こちらが現在の浅草寺五重塔。
気になると止まらず……描かれている人々も、日本人にしてはスラッとしています。まぁでも風俗的には忠実なような気もしますし、ワイワイしているような浮世絵のようなリアリティは感じられます。
亜欧堂田善さんの銅版画で、最も惹かれたのは《龍図》でした。一見すると、グチャッとした感じですが、よく見ると雲間に現れた2匹の龍がいきいきと描かれています。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本人画家は西欧の美術も学んでいたんですね。ただし、それらを色濃く取り入れた作品が、主流となることはありませんでした。そんな中で江戸時代が終焉し、明治政府が成立すると……美術の世界でも、西欧を礼賛する人たち……なんでも西欧の方が優れているんだ! という人たちが現れます。
なんかトゲのある言い方ですが、よく言えば美術界の維新が起こったわけで……そこで中心的な役割を果たしたのが、これまたトーハクが数多くの作品を収蔵している黒田清輝さんなんですね。
そんな黒田清輝さんにまつわる特集『没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち』が、現在、同じく本館2階の特別1室と2室で開催されています(平常展=総合文化展の入場料で見られます)。
黒田清輝関連については、普段はトーハクの隣りにある黒田記念館に展示されています。上の《智・感・情》の他にも、スケッチしたものなどもトーハク本館に出張展示されています。
そのほか……ちゃんと特集の意図を把握していませんが……黒田清輝の弟子、和田英作の模写作品なども展開されています。個人的に、こちらも美術的にはそれほど興味のある作品はないのですが、美術史としてはざざっと見ていくと、新たな発見があるかもしれません。
ということで、今回のnoteはここまでとします。
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