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秋は出会いの季節? “出会い”をテーマにした屏風を見てきました@トーハク

すっかり秋の気配が色濃くなりましたね。キンモクセイが咲いていたと思ったら、雨が多かったからか、もう見かけなくなりましたし、彼岸花も一時期見かけたと思ったら、もうこのあたりだと終わってしまったようです。

キンモクセイや彼岸花が咲いていた頃……9月下旬に東京国立博物館トーハクへ行った時のことです。本館(日本館)2階の左翼の1番奥にある「屏風と襖絵」の部屋へ行くと、2つの筆者不詳の屏風が飾ってありました。(11月6日まで、展示されています)

「屏風と襖絵」の部屋

■2つの“出会い”を描いた『源氏物語図屏風(明石・蓬生よもぎう)』

筆者不詳『源氏物語図屏風(明石・蓬生よもぎう)』
安土桃山時代 16世紀

『源氏物語』を初めて読んだのは、大学受験の頃でした。当時のわたしは、読書の虫というくらいに読書が好き。テレビやゲームをするのも楽しいけれど、同じくらいに読書というエンターテイメントに没頭していた時期なんです。そんな読書と受験勉強を両立するために考えたのが、古文の勉強と称して、田辺聖子さんの古典を題材にした小説を読むことでした。その時に読んだのが、『おちくぼ物語』や『むかし・あけぼの 小説枕草子』、そして『新源氏物語』などでした。もう何十年も前のことなので、内容はほとんど忘れましたが、教科書に載っている無味乾燥でつまらない古典が、一気に色鮮やかなものと感じられるようになったのを覚えています。

筆者不詳『源氏物語図屏風(明石・蓬生よもぎう)』

さてトーハクに展示されていた一つが、筆者不詳『源氏物語図屏風(明石・蓬生よもぎう)』というものです。

(明石・蓬生よもぎう)とあるのは、左右2つ(二せき)の屏風に、それぞれ異なるシーンが描かれているということです。上の写真にあるのが、源氏物語の中の『明石あかし』という一章の、ワンシーンを描いたものです。

兄であるみかどの女性に手を出したことで、失脚した主人公の光源氏は、京を出てはじめは須磨すまへ、さらに明石あかしへと退きます。その明石あかしで出会う新たな女性が明石の君あかしのきみです。

明石の君あかしのきみが住む屋敷へと向かっている、もう少しで噂に聞く女性と逢える……と、光源氏がワクワクしているワンシーンが、『源氏物語図屏風(明石)』です。

『源氏物語図屏風(明石)』(部分)。少し前のめり気味に馬に乗っているのが光源氏でしょう。前を歩き手引しているのは、腹心の一人である藤原惟光これみつでしょうか

一年ほど明石あかしで謹慎していた光源氏ですが、明石の君あかしのきみと出会ったことで、特段の暗さはなかったかもしれません。むしろ都会の京から、明光風靡な地方での暮らしは新鮮で刺激的なものだったかもしれません。

26歳で京を離れた光源氏は、28歳の時には政界へ復帰すべく帰京します。そして、帰京する光源氏を待ち続けていた末摘花すえつむはなを、光源氏が訪ねていくシーンが、左側に飾ってある左隻させきの屏風『蓬生よもぎう』です。

『源氏物語図屏風(蓬生よもぎう)』
右の方にあるのが末摘花すえつむはなの屋敷で、そこに向かっているのが光源氏が乗る八葉車はちようくるまが描かれています

すでに光源氏が帰京し、訪ねてくるのを今か今かと待っていた末摘花すえつむはな。そして何人もいる女性の中で、末摘花すえつむはなだけは、変わらずに自分を待っていてくれていると知って、早く逢いたいと車を急がせてきた光源氏が、ついに再開するシーンを描いています。

『源氏物語図屏風(蓬生よもぎう)』(部分)
すだれから顔を覗かせているのは、末摘花すえつむはななのか、それとも彼女の従者からもしれません。また、朱色の衣を来た人は、光源氏の腹心の一人である藤原惟光これみつでしょうか。「光の君がお訪ねになりましたよ」と伝えているのでしょう

蓬生よもぎう」という言葉は「よもぎなどの生い茂っている所。草深い荒れ果てた土地。自分の家をへりくだってもいう。」と、辞書に記されています。ここでは、いままで後ろ盾になってくれていた恋人の光源氏の失脚により、貧しい暮らしを強いられていた末摘花すえつむはなの屋敷、または末摘花すえつむはな自身のことを意味しているのでしょう。

上の写真のすだれから顔を覗かせる女性の左側に、よもぎのような雑草が生えているのが見られます。こうした下草を刈る家来も維持できないほどに落ちぶれてしまっている、ということです。

『源氏物語図屏風(蓬生よもぎう)』(部分)

光源氏は、『明石あかし』の屏風とは異なり、馬ではなく八葉車はちようくるまに乗っています。彼が帰京して、復権したことが分かります。ちなみに八葉車はちようくるまとは、牛車ぎっしゃの一つで、屋形(牛車の上にある構造物)に「八葉(八曜)」が描かれえている車で、特に高貴な人の乗り物です。

『源氏物語図屏風(蓬生よもぎう)』(部分)

多くの家来を引き連れていることで、より光源氏が復権したことが分かりますね。それにしても……古参の従者からすれば、「うちの大将は、あちこちに女を作っていて、大丈夫なのかい?」とか「はぁ……今夜は休めると思ったのに、女に逢いに行くのに駆り出されるとはなぁ」などと愚痴っていたかもしれませんね。

筆者不詳『源氏物語図屏風(明石・蓬生よもぎう)』

■左遷の途上で知り合いとバッタリと出会う在原業平ありわらのなりひら

深江芦舟ろしゅうつたの細道図屏風びょうぶ

『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われるのが、在原業平ありわらのなりひらです。平安時代で最も著名なプレイボーイですね。

その在原業平ありわらのなりひらを描いたのが『伊勢物語』。こちらも田辺聖子の『竹取物語・伊勢物語』で読んでいるはずなのですが、まったく読んだ記憶が残っていないのは、残念なことです。

深江芦舟ろしゅうつたの細道図屏風びょうぶ』江戸時代

この『伊勢物語』の第九段に、『東下りあずまくだり』という、すごく有名なエピソードがあります。前述の『源氏物語』で、光源氏が須磨や明石へ下っていったように、、在原業平ありわらのなりひら左遷させんされて、あずまへ……今の東京を中心とした関東へ……くだっていくというお話ですね。

その下っていく途中にある東海道の難所の一つ、駿河国するがのくに宇津山うつやまを、在原業平ありわらのなりひらが鬱々としながら歩いていると、顔見知りの修行者に出会います。なつかしく思いながら話を交わしつつ、在原業平ありわらのなりひらは、京に残してきた恋人への手紙をしたため、その手紙を恋人に届けてくれるよう、修行者に託すというシーンです。

解説パネルには「登場人物はみな後ろ姿で、暗い細道を前に恋人を思い出す男の寂寥感を強く表現しています」と記されていまが……。素人のわたしが屏風を見る限りでは、知り合いにバッタリと出くわす直前のワンシーンなのか、それとも手紙を渡した後に一人になった時のワンシーンなのか、よくわかりませんね。

後者であれば、「あぁ…いろいろと吹っ切れたなぁ。秋の色が濃くなってきたつたがきれいだし、もう京の都のことを思い出すのはやめよう。万葉の頃から詠われてきた、武蔵野を楽しみにしながら、あずまへ行こうじゃないか」といった感じに解釈したいなとも思います。

深江芦舟ろしゅうつたの細道図屏風びょうぶ(部分)』江戸時代
赤く色づくつたを見つめる在原業平ありわらのなりひらでしょうか
深江芦舟ろしゅうつたの細道図屏風びょうぶ(部分)』江戸時代色づく
こちらは在原業平ありわらのなりひらの従者の一人です

かつては東武線には業平橋なりひらばしという名前の鉄道駅がありましたが、いまはマーケティング色の濃いスカイツリー駅となってしまったのは残念です。ただし今でも、その東京の墨田区のあたりには業平なりひらという地名が残っていますし、浅草とスカイツリーの間にある隅田川にかる橋の名前は、業平なりひらが詠んだとされる歌にちなんで、言問橋ことといばしと言います(名前の由来は諸説あるようです)。

名にしおはばいざ言問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと

つたの細道図屏風びょうぶ』も、前述した『源氏物語図屏風(明石・蓬生よぼぎう)』も、ともに出会いをテーマとしています。安土桃山時代や江戸時代に製作された屏風なので、いずれも大名や公卿からの依頼で作られた屏風なのでしょう。

左遷される友が居た時に、自宅に招いて、歓送会を開くときに使われたのかもしれませんね。「きっと左遷先でも良いことがあるだろうし、腐らずにがんばれ」という意味かもしれないし「向こうでも、良い出会いがあるだろうし、少し気を休めて過ごしていれば、すぐに戻って来られるさ」といった意味があったかもしれません。

ちなみに描いた深江芦舟ろしゅうは、尾形光琳こうりんの門人。琳派りんぱにおける代表的な画家。

■四季の花を描いた『花車図屏風』

筆者不詳『花車図屏風』江戸時代

四季の花を乗せた、金で装飾された五りょうの花車を描いた屏風です。ざっと右側から春夏秋冬の、牡丹ボタン杜若カキツバタ紫陽花アジサイキクなどが描かれています。

『花車図屏風』右隻うせき
『花車図屏風』左隻させき

特に秋の花である菊が描かれていることで、今回、トーハクに展示されています。

『花車図屏風』(部分)
『花車図屏風』(部分)
『花車図屏風』(部分)
『花車図屏風』(部分)
『花車図屏風』(部分)
『花車図屏風』


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