呉昌碩の「書画」……とは言うものの「ごしょうせき」って誰よ?……@東京国立博物館
ほとんど誰も興味を抱かないという前提で、このnoteを書き始めています。というのも、かくいうわたしが、まったく興味がないからです。おそらく東京国立博物館(トーハク)で、その人の企画展が開催されなかったら、一生、この人の書画を見ることがなかったでしょう。
その人とは「呉昌碩(ごしょうせき)」さんです。
呉昌碩さんは、180年前、中国清朝後期の1844年9月12日に生まれました。この頃は、欧米諸国が東アジアにちょっかいを出し始めてきた時期です。1840年にはアヘン戦争が始まり、戦後の1842年から1844年に、清朝はイギリス、アメリカ、フランスと次々に不平等条約を締結せざるを得ませんでした。1851年からは太平天国の乱を皮切りに、各地で内乱が勃発し、呉昌碩さんの一家も、兄弟を飢餓で亡くすなど、凄惨な避難生活を余儀なくされたようです。
……なんていう風に書いていくと、また何日かかってもnoteを書き終えられなそうなので、ここから大きく省略します。とにかく呉昌碩さんは、清朝末期から中華民国初期にかけて活躍し、書画篆刻の芸術に偉大な業績を遺した人です。万が一に呉昌碩さんの経歴をもっと詳しく知りたい! という方は、トーハクと台東区立の書道博物館の第15回目の連携企画『呉昌碩とその時代 -苦鉄没後90年-』の時に配布されたパンフレットなのか資料なのかを読むことをおすすめします。
なお、現在開催中の企画展『呉昌碩の世界—金石の交わり—』は、書道博物館との第21回目の連携企画です。
トーハクの展示については、第1部「呉昌碩前夜」…第2部「呉昌碩の書・画・印」…第3部「呉昌碩の交遊」で構成されています……が……そもそも呉昌碩さんのことを全く知らないわたしは、「とりあえず、呉昌碩さんの作品を見せてよ」という感じで会場を巡っていきました。
■とりあえず見たい呉昌碩さんの書画
この企画展……個人蔵の作品が多いため、撮影禁止の作品が多かったです。特に「画」については、撮影可能な作品があまりありませんでしたが、製作年が若い順に書画を並べていきたいと思います。
・52歳《牡丹図軸》
まずは会場を入って真正面に位置する場所に、書斎を再現したかのような展示ケースにあるのが、呉昌碩さんが52歳の時の作品《牡丹図軸》です。※左右の“書”は《篆書八言聯》です。
解説には「みずみずしい色彩で、牡丹の花と怪石を描いています」とあります。ふむふむ、なるほどね……。ただ、続けて記されている「この年、再び親交が頻繁になった蘇州の楊幌(ようけん)宅で画いた作で、呉昌碩52歳、楊幌77歳。翌年、楊峴は78歳の生涯を閉じました」と記されています。楊峴さんは、呉昌碩さんにとって、メンターであり、師匠であり、親友のような存在でもあったようです。39歳の時には、家族を引き連れて楊峴さんの蘇州の自宅の隣に引っ越すほどに交友しています。その後、呉昌碩さんは上海などに本拠を移したりしているので、会わない時代があったのでしょうね。そして呉昌碩さんが52歳の時に、改めて蘇州の楊峴さんの自宅で描いたのが、この《牡丹図軸》なのでしょう。
・57歳《臨石鼓文扇面》……甲骨文字のような石鼓文
ということで次は《臨石鼓文扇面》へ移ります。《臨石鼓文扇面》……作品名は「臨・石鼓文・扇面」と分けて読むと良いです。「臨」とは「近づく」という意味で使うほか、「模写や模倣」という意味でも使われます。つまりは、「真似て書いた石鼓文が記された扇の面」ということです。
では石鼓文とはなにかといえば、中国の唐の時代に出土した、10基の鼓のような形の石に刻まれた、古代の文章です。書かれたのは秦の時代だったのではと推測されています。
今展の主人公の呉昌碩さんは、こうした古代の“石刻”や“金属器”などの金石(きんせき)の銘文(めいぶん)を、研究して真似て書くことで有名だった人です。
扇面の最初の行を見ると「田車」という文字が読めます。これによって、記されているのが石鼓文の第3鼓「田車鼓」の一節だと分かります。何が記されているかといえば、「田車孔安」ではじまる、7字10行・18句の「狩の情景を描写した詩」なのだといいます。元の石鼓文「田車鼓」は、こんな感じです。
どのくらい正確なのか不明ですが、中国の下記サイトの意訳をGoogle Bardで訳したものを添付しておきます。細かい訳に誤りがあるかもしれませんが、雰囲気はまぁまぁトレースしているような気がします。
呉昌碩さんは、この石鼓文フォントを50代に入ってから練習し始めました。こちらの扇面は57歳の作品ですが……あまり書き慣れているという感じではなさそうですが……解説パネルは「原本(石鼓文)の造形にとらわれない動きのある字姿で、自らの作風を確立しつつあることがわかります」と、それなりに評価しています。
・60歳《石榴図扇面》
光緒 29年(1903)なので、呉昌碩さんが60歳前後の時の作品です。石榴は、文人画家にとってメジャーな画題だったようで、展示室には呉昌碩以外の人の石榴作品がいくつか見られました。
ちなみに寄贈者の青山慶示さんは、昭和から平成まで活躍した書家・青山杉雨(あおやまさんう 1912-1993)さんの長男。1993年から2022年にかけて、数回にわけて青山杉雨さんの膨大なコレクションをトーハクに寄贈しています。東洋館ではおなじみの寄贈者という感じです。
以下は、何歳の時に描かれたか分かりませんが、梅の花を描いた扇面《梅花図扇面》です。
以下も製作年が分かりませんが、「ライチ」を描いた《茘枝図扇面》です。
・67歳《臨石鼓文軸》
またまた《臨石鼓文》です。解説パネルには「粗削りながら、若い頃に比べて点画は太く、字形は引き締まり、縦長となる」と、その特徴を記していますし「50代の半ばから70歳の頃にかけて、独特の篆書の様式が確立していきます」としているので、今作は、かなり呉昌碩さんっぽさが表現されているのでしょう。
・69歳《篆書四字軸 觴詠墨縁》
超絶難しい漢字ですが、「觴詠墨縁(しょうえいぼくえん)」とは、酒を酌み交わしながら詩歌を詠むという意味です。
「觴」は酒杯
「詠」は詩歌を詠む
「墨縁」は翰墨の縁=書道を通じての縁
中国の晋の時代、王羲之が蘭亭の水辺で酒を酌み交わしながら、蘭亭序を書いた故事に由来しているそうです。
そのほか「篆刻家の丁敬(号龍)が作った墨を磨り、虎斑箋をいます」と解説パネルにあります。「虎斑箋」の説明はありませんが、虎斑(とらふ)……簡単に言えばジャガー柄の紙といったところでしょう。
・74歳《篆書般若心経十二屏》
篆書で般若心経を12幅に書写したもの。中国清朝の中後期に書家・篆刻家として活躍した鄧石如(とう せきじょ、1743年 - 1805年)が記した《篆書般若心経八屏》を心に留めながら、さらに石鼓文の筆意を交えて書いています。これまでのものとの違いが、わたしにはよく分かりませんが、呉昌碩さんの、かなり完成形に近い字形になっているようです。
・75歳《桃実図軸》
《桃実図軸》は、中国の神話に出てくる女神(仙神)・西王母が住むと言われる伝説の地・瑤池(ようち)にある桃を描いたものです。この桃は3000年に一度だけ実をつけ、食べると不老長寿が約束されると言われています。そのため、呉昌碩さんが描いたものだけでも、《桃実図軸》を2つも所蔵しています。
解説パネルでは「呉昌碩は、金石味のあふれた激しい筆法と、あざやかな彩色でこの仙桃の木を力強く描きます」と評していますが……金石とは、今展の中では「篆刻」と同義だと思うのですが……その篆刻のような激しい筆法が、この桃の絵に感じるということなのか……どういう意味なのかは読み取れませんでした。
以下は制作年代が不明の《山水図扇面》です。
これはすごい複雑なのですが、中国の明末・清初の龔賢(きょうけん)さんが、元の時代の倪瓚(げいさん)の作品を見て描いたものを、さらに呉昌碩さんが「こんな感じだったかな」と描いたものなのだそう。
自分で絵を書いて、自分で文字も記した自画賛(自画自賛)。その「賛」の文面には、「筆力が古人には及ばない」と謙遜しているそうです。
この文字の部分は、個人的にはとても好きです。いつ書いたのか分かりませんが、力強い筆致です。
・83歳《行書「槐安」軸》
呉昌碩さんが亡くなる前年に書いた「槐安」の二文字。83歳という年を感じさせない力強い筆致ですよね。こういうのがわたしの好みですし、おそらく多くの人が最も魅力を感じる字なのかもしれません。というのも、今展の構成のうえでは、最も最初に登場する作品となっています。
寄贈されたのは、王子製紙社長などを歴任された高嶋菊次郎さんの息子の高嶋泰二さん。高嶋菊次郎さんは、50歳過ぎ頃から漢学を学び、中国書画を収集。神奈川県藤沢市鵠沼松が岡の自宅を「槐安居」と称しました。つまり今作の「槐安」とは、この高嶋菊次郎さんの号(ペンネーム)です。
呉昌碩さんと上海で交友のあった、硯の蒐集で著名だった坂東貫山さんが、高嶋菊次郎さんのために依頼したものだといいます。1926年というと、高嶋菊次郎さんは51歳。つまり漢学を学び始めた直後に、この《行書「槐安」軸》を得たということのようです。
■意外と可愛らしい40歳代のプライベートな文字
元が篆刻家ということもあり、呉昌碩さんの製品としての文字は、かなり硬い印象を受けます。ただし、今回展示されていた誰かに宛てた手紙の文字を見ると……意外と可愛らしい、角のない丸っこい文字を書かれる方だったのだなぁと思いました。
《缶廬尺牘冊》は、呉昌碩が凌霞と沈石友に与えた尺牘(手紙や書状)を、合装したものです。
冒頭に「子与(しよ)先生」とあるので、こちらは凌霞に宛てた手紙です。凌霞は、字が子与で、号を塵遺としていました
上の手紙の冒頭には「公周先生」とあるので、沈石友さん宛てだと分かります。沈石友さんは、名を「汝瑾(じょきん)」、字を「公周」でした。
■フォント好きは見ておきたい呉昌碩の「篆刻」
むしろこちらの方が、呉昌碩さんの本職です……というのが「篆刻(てんこく)」です。篆刻とは石や木などの印材に字を刻むこと……つまりはハンコを作ることですね。ただし篆刻と言えば、まぁ「篆書体」というフォントを使うのが一般的。
呉昌碩さんの場合は、お父さんから手ほどきを受けていて、後に「石鼓文」など、中国古来の「金石」を研究して、独自の様式を築き上げていきます。
《斉雲館印譜》は、呉昌碩さんが33歳の時(1876)に編んだ『斉雲館印譜』という、ざっくりと言えばハンコ図鑑といった感じです。彼はいくつかの印譜を作りますが、その中でも早期の作例なのだそう。なんて書いてあるかと言えば……
どういう意味なのかは分かりませんが、解説パネルによれば「呉昌碩さんは太平天国の乱の最中の、壬戌の歳(1862年)、19歳時に母と許嫁を病で亡くしました」とあります。これと掛け合わせて考えると、「呉昌碩は、壬戌の歳に、母親と許嫁を同時に失った出来事に関する文書」という感じでしょうか……。
なお寄贈者は「小林斗盦」さんには、『呉昌碩 篆刻全集』や『篆隷名品選〈7〉呉昌碩』などの著書があるので、そうとう呉昌碩さん沼にハマった方なのでしょうね。名前の最後の「盦」という文字は、パソコンによっては表示されないか文字化けするかもしれません。
次の《削觚廬印存》は、光緒9年(1883)呉昌碩が39歳の頃の作品です。
呉昌碩は30代半ばから50代にかけて何度か《削觚廬印存》を編集。それを同好の士に贈っていたそうです。本作は呉の30代後半から40歳までの印65顆を収録。
《観自得斎徐氏所蔵印存》は、徐士愷さんが、所蔵していた呉昌碩さんが作ったハンコを集めて編集した印譜です。「呉昌碩が徐のために刻した印をはじめ、呉昌碩作品の収蔵は代第一と評されている」そうです。印譜の中から以下2点を含む3点ほどが紹介されています。
下は《缶廬印存》で、呉昌碩が70~72歳の頃に、30~70代に刻した印を編集した印譜なのだそうです。解説パネルでは「70代以前の篆刻を自選した、精品集と言える内容」だとしています。
ということで、現在トーハクで開催されている呉昌碩さんの企画展をnoteしました。うぅん……まだちょっと面白さを見いだせていませんが……まぁ毎年のように紹介されているようなので、じょじょに良さを認識できるようになればと思います。
<1089ブログの呉昌碩の関連ページ>
・呉昌碩の一生を総覧するのに便利なPDF
『呉昌碩とその時代-苦鉄没後90年-』のチラシ
・呉昌碩の書・画・印 その1 「30代の呉昌碩」
・呉昌碩の書・画・印 その2 「呉昌碩が刻した不折の印 ~その1~ 」
・呉昌碩の書・画・印 その3 「40代の呉昌碩 ―模索と葛藤―」
・呉昌碩の書・画・印 その4 「50代の呉昌碩」
・呉昌碩の書・画・印 その5「呉昌碩が刻した不折の印 ~その2~」
・呉昌碩の書・画・印 その6「60代の呉昌碩」
・呉昌碩の書・画・印 その7「70代の呉昌碩」
・呉昌碩のミ・リョ・ク
・呉昌碩のミ・リョ・ク《続編》
・清時代の書―碑学派― 日本と中国の交流@朝倉彫塑館
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?