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東京国立博物館の『大覚寺展』を見てきたので、感じたことをだらだらと…

東京国立博物館(トーハク)で始まった『開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺 ―百花繚乱 御所ゆかりの絵画―」』を見てきました。同展展示のハイライトについては、インプレス Watchというメディアに寄稿したのでそちらも読んでいただきたいのですが、それとは少し視点を変えて、ここnoteでも書き始めました。

大覚寺展ですが、正直に言うと「誰もが絶対に行ったほうがいい!」「行ったら誰もが感動するはず!」とは言えません。なぜなら、大覚寺は来年で開創1150年を迎えるという、京都でも指折りの歴史を持つ寺…なのですが、平安時代や鎌倉時代などからの古い建物が残っているわけでも、遺品が多いわけでもありません。「教科書に載っている、あの作品が東京に来る!」わけでもなく、「国宝◯◯点が一挙公開!」されるわけでもないんです。トーハクの特別展としては珍しく、そういう分かりやすい展示品が少ないんですよね。

ということで、わたしが同展の何に期待して行ったのか、行ってみたらどこが良かったと感じたのかを記していきたいと思います。


■リサイクル建築物の多い大覚寺

大覚寺は平安時代初期の876年に開創されたのち、鎌倉末期の1307年に、後宇多法皇が第23代門跡(もんぜき)に就任して、荒廃していた伽藍を再興しました。この後宇多さんは、南朝の始まりともいえる亀山天皇の息子です。後宇多さんは天皇位を、後に北朝となる持明院統の伏見さんに譲位し、自身は上皇(法皇)となって皇居から大覚寺に移り住みました。このことから大覚寺は、のちに(いわゆる南北朝時代の)南朝となる、大覚寺統の本拠となります。

後宇多さんが1324年に薨御された後、1336年に、大火により堂宇のほとんどを消失したそうです。1336年といえば、(後宇多さんの系統ではない)北朝を支持した足利尊氏が、京へ正月に進軍し、(後宇多さんの系統の)南朝の後醍醐天皇が比叡山へ退いた年です(この時に大覚寺統が南朝、持明院統が北朝となり、南北朝時代がスタート)。その後、南朝(大覚寺統)方の北畠顕家や楠木正成と新田義貞が、京から足利尊氏を追いやります。そこで足利尊氏は九州まで退いたあとに反攻し、6月には京を再び制圧しました。

ということで、こうした動乱により大覚寺が焼失した可能性は高いです。その後、本格的に南北朝時代へ突入したのですが、半世紀が経った1392年に南北朝が講和(南北朝の合一)します。この時に大覚寺において、南朝(大覚寺統)最後の天皇である後亀山天皇から、北朝の後小松天皇へ(後醍醐天皇が吉野へ? 持っていってしまっていた)「三種の神器」が引き渡されました。

大覚寺展では「後宇多法皇が院政を執った部屋」と伝わる、正寝殿の一室が原寸で再現されています。大覚寺の公式サイトには「執務の際は御冠を傍らに置いたことから、『御冠の間』と呼ばれている。南北朝講和会議が、ここで行われたと伝わる」としています。また特別展の解説によれば「奥の襖を開けた先にある『剣璽の間』は、三種の神器のうち剣と玉璽(印章)を保管した場所と伝えます」ということです。
……と、そのまま記しましたが……大きな声では言えませんが、そんなわけないんです。後宇多法皇が生きたのは1267年 - 1324年(13-14世紀)。南北朝の合一は1392年(14世紀)。この書院造りの正寝殿が建立されたのは桃山時代(16世紀)。でも伝承って、そういうものですからね。
再現された「お冠の間」には、狩野山楽さん(だったと思うのですが…)が描いた山水画があります(こちらは複製)
再現された「お冠の間」の近くには、同室に狩野山楽さんが描いた、本物の山水画が展示されています

「あぁ〜やっと平和な時代になったでおじゃる」と思ったのもつかの間、76年後の1468年には、応仁の乱が勃発し、再び大覚寺の堂宇が焼失します。さらに68年後の1536年には、放火されて堂舎が炎上し荒廃してしまいます。その後、およそ半世紀後の豊臣秀吉・桃山時代の1589年から、堂宇の復興に取り掛かります。そして朝廷が後水尾天皇で江戸幕府が徳川家光(三代)の時代に、やっと現在の寺観に近い形で復興が叶いました。

こちらはいつの時代に描かれたものか不明ですが、大沢池の北側に広大な伽藍が並んでいます
これは仁和寺所蔵と記されていますが、ほぼ同じ雰囲気と伽藍配置の絵図が、大覚寺展にも出品されています。

上の大覚寺の伽藍図は、いつ描かれたものか分かっていないようです。トーハクの大覚寺展では、同じような絵図の大覚寺所蔵版が展示されています(撮影禁止)。これを見て、現在の大覚寺の伽藍配置に感じていた違和感が、なんだったのか分かりました。

それは、現在の伽藍配置では、伽藍の東側に庭池があることです。実際に大覚寺へ行くと、堂宇は南向きなのに大沢池は東側にあるため、庭を眺めるためのベストポジションに建物がなさそうだと思ったんです。でも昔は、ちゃんと池の正面(っぽいところ)を眺めるのに適した北側に堂宇が建っていたんだと納得しました。

絵図を見ると、中央右側に渡り廊下のような細長い建物が南北方向に建っていますよね。ここが御所エリアです。で、渡り廊下の南端へ行くと和歌にも歌われていた名古曽滝(なこそのたき)があります。塀が邪魔な気もしますが、このあたりから大沢池を眺めていたのかなと。そしてこの渡り廊下…現在は「村雨の廊下」と呼ばれる回廊に雰囲気が似ているような気がしますが、解説には触れられていませんでした。

で…また勝手な想像を書くのですが…昔々に伽藍や御所が、上の絵図のように大沢池の北側にあった時代(おそらく滝にまだ水が流れていただろう平安初期)は、この名古曽滝に向かう回廊を、現在も大覚寺にその名を冠する回廊が残る…「村雨の廊下」と呼んでいたんじゃないの? って思うんです。「村雨」とは、さぁって降っては止む雨のこと。突然激しさを増したり弱まったりもするそうです。そんな「村雨の廊下」を進むと、その先に名古曽滝が眺められる…としたら、村雨の雨が降ると流れて滝になる……。とっても自然なネーミングなような気がしますけどね。

で…さらにテキトーな想像を書くと、上の絵図で、かつて大覚寺の門跡が住んでいた場所(御所)の真下の地下に、裏山から名古曽滝へと続くリアルな水脈があったんじゃないかなと……もしかすると平安初期には小川が流れていたんじゃないかと(その先には大沢池)。そう考えると、この南北に細長い御所や、隣にある大覚寺伽藍の配置に納得できるような気がします。

(間違ってたらごめんなさいですが)5年前に歩いた「村雨の廊下」

おそらく上の伽藍絵図は、平安時代初期の伽藍配置だとわたしは勝手に思っています。平安時代初期…嵯峨天皇が離宮を建てた時なのか、離宮が大覚寺に改められた時なのかまでは、名古曽滝にとうとうと水が流れていたはずです。でも平安時代中期には、藤原公任(きんとう)さんが詠んだように「滝の音は 絶えて久しくな」ってしまいました。

その後の大覚寺は荒廃していた時代も長いですから、名古曽滝を含む、かつて大覚寺の伽藍があった大沢池の北側は、農地化が進んでしまったんじゃないですかね……たぶん水脈があるし、農地に最適なんじゃないかなと。もっと言えば、その農地化を進める過程で、大沢池の北側は、水脈が地下に下がってしまっていたため(根拠のない想像です)、土地を1mくらい掘り下げたかもしれないなぁと(これも想像です)。じゃないと、現在の名古曽滝のような…「どこから水が来て、どう流れていたの?」というような姿にはなっていないんじゃないかなと。

そして、その後に再興された時には、農地を潰すわけにもいかず、伽藍を大沢池の西側に配置したんじゃないかと…。これは「諸説あり」…ではなく、わたしの想像です。

下図が江戸時代に描かれたもの。現在と同じく池の西側に伽藍が整備されていますし、堂宇の構成も現在と近いです。嘉永年間(1848年 - 1854年)に再建されたという勅使門は、まだありませんね。

《都名所圖會 4卷 [4]》:著者秋里籬島 著,竹原信繁画出版者 河内太助[ほか]出版年月日天明7[1787]

下図は現在の大覚寺の伽藍配置です。こうしてみると、濠がめぐらされていて、単なる寺とは思えないほど防御性が高そうです。ということで、少なくとも南北朝時代には、現在の伽藍がある場所に、堂宇が整備されたんじゃないかと思います(資料に基づかない、わたしの勝手な想像です)。

大覚寺HPより

ということで現在は、戦国時代が終わった桃山時代以降の建築物しか現存しません。それだって、関東大震災や第二次大戦によって焼け野原になった東京エリアと比べれば、歴史のある建造物がかなり多いなと思います。

この、現在の大覚寺境内図に従って主要堂宇を挙げると「式台玄関」、重要文化財の「正寝殿(非公開)」、重要文化財の「宸殿(しんでん)」、「霊明殿」「心経前殿(御影堂)」「勅封心経殿」「勅使門」「安井堂」「五大堂」「心経宝塔」「霊明殿」などがあります。

今回の「大覚寺展」では、この中の重要文化財に指定されている「正寝殿(非公開)」と「宸殿(しんでん)」、それに「式台玄関」に使われている襖絵などが見られます。

おそらく五大堂あたりから見た宸殿(しんでん)※5年前に行った時に撮った写真なので、どこを撮ったか覚えていないんです…(以下同)
おそらく宸殿(しんでん)
おそらく宸殿(しんでん)

このうち「宸殿」は、もともと皇居にあったものを後水尾天皇から下賜され(移築)、「心経前殿(御影堂)」は大正天皇から下賜され(移築)、重要文化財《髭切》が所蔵されていた旧安井門跡の「安井堂」は蓮華光院から明治4年に移築、「霊明殿」は昭和33年に東京・中野の沼袋から移築されたものです。

そして今回の大覚寺展では、主に「正寝殿(非公開)」と「宸殿(しんでん)」の障壁画が展示されています。

心経前殿から見た勅使門
おそらく安井堂か五大堂の木組み
心経宝塔

■渡辺始興さんの兎の絵がかわいすぎる(笑)

おっと……展覧会についてに話を戻します。

わたしが楽しみにしていたのは、まずは江戸中期の京都で活躍した渡辺始興(しこう)さんの作品です。彼の作品を、これだけまとまって見られる機会は、そうそうないと思います。

渡辺始興さんなんて、最近までたいして知らなかったのですが、トーハクで作品を見かけて何度かnoteしているうちに親近感が湧いてきました。

サクッと解説すると、渡辺始興さんは1683年……江戸中期に京で生まれました。当時の絵師の誰もがそうだったように、狩野派で学び始めたようです。その後、やまと絵や琳派などをつまみ食いしていきますが、どうやら長崎で南蘋派(なんぴんは)の絵を習ったよう(わたしの半ば推測)で、写生を重視した写実的な絵を志向していき、それまでの日本絵画と融合させていきます。その渡辺始興さんに私淑し、影響を強く受けたと言われているのが、やまと絵と写実の融合を果たした、江戸中期の京の超人気絵師・円山応挙さん……と言えば、渡辺始興さんの凄さを感じられるのではないでしょうか…そんなことないか…。

今回展示されているのは、普段は非公開の正寝殿の建具に描かれたもの。ちなみに今回展示されているものは、全部? ほとんど? 重要文化財に指定されています。まぁ作品ごとに精査して指定されたわけではなさそうで、ざっくりと(建物と一緒に?)一括で重要文化財に指定されています(要確認)。

右《芭蕉図》
左《鶴図》
渡辺始興筆 板地着色 江戸時代 18世紀 京都・大覚寺

う〜ん…《芭蕉図》の解説には「葉の一枚一枚に細かい線とグラデーションがほどこされ、写実的に立体感を表現している」とありますが、そんなに写実的かなぁ…絵のサイズが大きいだけに、ちょっと大雑把な絵だな…という印象を受けました。渡辺始興さんなら、もっと上手く描けるはず! みたいな…。

《鶴図》渡辺始興筆 板地着色 江戸時代 18世紀 京都・大覚寺

白い絵の具(胡粉)の濃淡などを細かく組み合わせて、羽毛のふさふさした感触や量感を描き出している。

解説パネルより
《鶴図》
《鶴図》
《鶴図》
《鶴図》

《鶴図》は、なかなか良い感じです。ただ…作品は良いんですけど、この《鶴図》と《芭蕉図》の展示ケースは、ものすごぉ〜く映り込みが激しくて、とぉ〜っても作品が見づらいのが残念過ぎました。この2点もけっこう楽しみにしていたのになぁ…。

以上の2点よりも先に見ることになるだろう作品が《野兎図》です。正寝殿の「東狭屋の間(ひがしさやのま)」という、部屋というか通路? 家来たちの控えの間? みたいな部屋に使われた腰障子です。

解説には「幼くして大覚寺に入った門跡を慰めるために描かれたという」と記されています。

大覚寺は門跡寺院と呼ばれるカテゴリーの寺です。門跡って何かと言えば、皇族(または公家)の出身者が住職を務めた寺院です。特に大覚寺は嵯峨上皇や後宇多上皇が住んでいましたし、後宇多さん以降は皇族出身者が門主(もんす)…住職に就きました。つまりは…とても言いにくいのですが、ざっくりと言ってしまえば天下り先…といった感じです。

例えば、大覚寺の宸殿を下賜した、江戸時代前期の「後水尾天皇」のことをWikipediaで調べたら、30人を超える子どもがいたんです。天皇の子どもですから、全員ある程度の地位にしてあげたいところですけど、正直、あまりにも多いので、全員を役職につけることもできません。それで、何人かは寺へ出すんですね。その方が寺のトップになると門跡(もんぜき)や門主(もんす)と呼ばれ、その寺が門跡寺院と言われるようになります(江戸時代までの各時代で、門跡の詳細な定義は異なるかと思います)。ちなみに京都には多くの門跡寺院がありますが、東京は1つだけ。それが、現在トーハクがある東叡山の寛永寺であり、そこに住まわれたのが輪王寺宮です。明治以降は、こうした習わしは激減し、今はもう無い…と言っていいでしょう。

で、後水尾天皇の20人超の子女は、大覚寺門跡(東寺長者)や初代輪王寺宮門跡(179代天台座主)、知恩院宮門跡、仁和寺御室など各門跡を輩出しています。さらに天台座主は前述の179代のほか、181〜187代までが後水尾さんの子どもです(重複就任あり)。

という状況なので、本当に幼い門跡もいらっしゃったんでしょうね。そんな門跡を楽しませるために、兎さんを描いてあげたのかも。たしかに、こんなに兎づくしの絵って初めて見ました。そして腰障子の裏面には、四季折々の花や鳥の絵が描かれているそうです。次はそちらも見てみたいです。

そして同じ展示室にあった渡辺始興さんの《竹林七賢図》…と思ったら、解説パネルには「渡辺始興筆とされてきたが、柔らかい筆の表現が多くみられることから、作者は大覚寺のお抱え絵師・大岡春卜(1680~1763)の可能性もある」と言います。いや、解説パネルにも出品リストにも「渡辺始興筆」と書いてあるんですけどね。

《竹林七賢図》
渡辺始興(?)筆 紙本墨画 江戸時代 18世紀 京都・大覚寺
《竹林七賢図》渡辺始興(?)筆
紙本墨画 江戸時代 18世紀 京都・大覚寺

■狩野永徳に認められた狩野山楽さん

狩野山楽さんの絵が見たい! という方は、今回の「大覚寺展」は言うまでもなく観覧必須です。あともうちょっとで「大覚寺展」ではなく「狩野山楽展」になるところだった…くらいに狩野山楽さんの作品が多く展示されています。

昨年、千葉市美術館で「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」という展覧会がありましたが、今回も「サムライ、絵師になる!狩野山楽展」としたいところです。なぜなら彼は、浅井長政の家臣の家に生まれました。ご存知のとおり浅井長政は織田信長に反旗を翻して滅ぼされました。そのためお父さんも一緒にだったのか分かりませんが、おそらく当時は羽柴を名乗っていただろう秀吉のもとに仕えます。

ある時、秀吉が山楽さんの絵を見て「おみゃぁ、絵師になれ」と言ったかどうかは分かりませんが、狩野永徳に弟子入りさせたんです。山楽さんはいやいや入門したものの、絵の才能を開花させて、師匠に「あんた、狩野を名乗ってええでぇ」と言われるわけです。

その後、山楽さんは永徳さんといっしょに秀吉のもとで大忙しでした。師匠は過労で亡くなったと言われるくらいに忙しい人でしたからね。そりゃそうです、秀吉と言えば豪奢な城をいくつ作ったか分からないほど、作りまくっていましたから…それらの障壁画を描く絵師たちも大変だったでしょうね。記憶だけでも二条城、聚楽第や伏見城、淀城や大阪城などがあり、いずれも秀吉時代のものは現存しませんが、豪華なしつらえだったことでしょう。

さらに山楽さんは、淀君(お茶々)からも発注を請けていました。淀君は、山楽さんからすれば、父親の旧主の姫君ですからね。お互いに大変だった幼少期を振り返っていたかもしれず…「山楽さん、頑張ってね」とも思ったでしょうしね。

ちなみにトーハクには、そんな淀君からの発注で山楽さんが描いた《車争(くるまあらそい)図屏風》という作品が収蔵されています。今回は展示されていませんけどね。

あ……また大覚寺展から話が逸れてしまったので戻します。とにかく狩野山楽さんの作品が、これだけ脚光を浴びる展覧会は少ないのではないでしょうか。全18面…総延長22mにわたる狩野山楽さんが描いた《牡丹図》が展示されている部屋は、なんとも豪華な空間演出で感動しました。やっぱり演出って重要ですよね。

長さ22mに渡って鮮やかに修復された金地の襖に、牡丹を中心にした花鳥山水が描かれているのですから圧巻です。なんて言いながら牡丹ってあまり見たことがないんですけど、ちょうど今、上野の東照宮で牡丹園が開園していた気がします。

これって、どれくらいの時間をかけて描いたんでしょうね。何株の牡丹が描かれているのか数えませんでしたけど、これだけの牡丹の草花を描いていて、一切の妥協がないっていう……もうね、あまり使わない言葉ですが、尊さすら感じて胸がじーんとしました。

きっと、このスケールの大きさがグッとくるんでしょうね。

ちなみに《牡丹図》が描かれたのは、宸殿(しんでん)……今は「大覚寺と言えばこの建物」っていうくらいにメインを張ってるお堂です。上述した後水尾天皇から下賜された建物なのですが、彼の妻となった徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子さんが、女御御殿として使用していた建物なのだそうです(諸説あり)。

今回はこの宸殿の堂内の「牡丹の間」と「紅梅の間」を飾る襖絵、いずれも狩野山楽さんが描いた《牡丹図》と《紅白梅図》が展示されています。

同じく宸殿の「紅梅の間」に描かれている襖絵が《紅白梅図》です。こちらもきらびやかな金地の中央に大きな紅梅が描かれ、その右側に白梅が見えます。解説によれば「さらに横に続く襖絵だったとかんがえられる」のだそうです。いやはや…先ほどの《牡丹図》を見たあとだと「小さいな…」と思ってしまいますが、こちらも長い作品だったんでしょう。

解説には続けて「牡丹図と並び、写実と装飾を見事に調和させた狩野山楽の代表作」とあります。うんうん、これは代表作って言っても誰も疑わないと思います。

ところで山楽さんは、豊臣秀吉の治世下で絶頂期を迎えたようなことが言われています。なにせ豊臣秀吉と妻の淀君、息子の秀頼のお抱えとまではいっていたか分かりませんが、そうとうの仕事をされた方でしたからね。

でも、豊臣秀吉が亡くなり、秀頼の代になると…徳川家康が一気に台頭してきます。そして、大坂城の豊臣秀頼と主に伏見城(でしたっけ?)にいた徳川家康が対峙するわけです。こうなると武士とか絵師とか関係なく「お前はどっちにつくんだ? あっ?」って、言われますよね。特に狩野山楽さんは、豊臣方にべったりでしたから、その反動で徳川家康に睨まれるわけですよ…いやですねぇそういうの。

そして大坂の陣で秀頼と淀君が亡くなり、豊臣家は滅亡…。それに先立つ関ヶ原の合戦の前には伏見城も焼失しましたから、狩野山楽さんの作品は、この時期、どんどん焼けていったことでしょう(わかりませんけど、かなり高い確率で焼けたと思います)。

豊臣家が滅亡した後は…山楽さんの師匠・狩野永徳の直系は揃って江戸へ引き上げていきます。1人残された狩野山楽は、史実として、徳川家に命を狙われますというか捕縛されそうになります。助けてくれたのが、近衛信尹(このえのぶただ)や本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と並び「寛政の三筆」と呼ばれた松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)さん……あとは、淀君の妹で、徳川2代将軍の秀忠に嫁入りしていたお江(ごう)…江姫(ごうひめ)だったそうです。

上述しましたが、大覚寺の宸殿は、お江さんの娘の和子さんが、後水尾天皇に入内(結婚)した時に使っていた建物だと言われています(おそらく諸説あり)。そこに《牡丹図》や《紅白梅図》を描いたというね…。そうした歴史を含みながら眺めると、よりいっそう感慨深いです。(でも、こういう季節感のある画題の襖って、それぞれの季節限定で使っていたんじゃないんですかね?)

そして狩野山楽さんのもう一品…《松鷹図》です。こちらは「正寝殿」の鷹の間に描かれています。

写真で見ると「どよん…」とした感じにしか撮れませんでしたが、こちらは牡丹や梅の絵とは異なり、重厚な雰囲気…まぁ水墨画ですからね。

解説には「山楽による水墨花鳥画の代表作」とあります。また続けて「山楽の師である狩野永徳の《檜図屏風》と酷似するが、柔らかな筆使いに、山楽の様式的個性の萌芽を見出すことができる」と、難しいことが書かれています。

《檜図屏風》といえばトーハク所蔵ですし、ついこの間、展示されたばかりじゃないですか……なぜに「大覚寺展」と時期をズラして展示しちゃったんだろ…とも思いますが、なかなかタイミングをあわせるのが難しいんでしょう。

こうして師匠・永徳の《檜図屏風》と比べると…ちょっと山楽さんの《松鷹図》は、墨がうすい気がするんですよね。そのため落ち着いた感じになって、それがいいんだよ…という人もいるかと思いますが、豪壮さや力強さでいうと、やはり永徳の《檜図屏風》に軍配が上がるかな…という気もしないでもないです。まぁ並べて見なきゃ分からないし、そうしてもらいたかったですけどね。

この鷹などは、「山楽さん、あなた間違いなく狩野派ですね!」と言いたくなるような描き方です。狩野塾の基本をしっかりと踏襲しているなぁ…なんて知ったかぶりしたくなります。

以下は、どの作品を撮ったものか、迷子になっている写真です。あとで調べて追記します。

■永徳さんの絵じゃなかったのか問題

京都の大覚寺へ行くと、まず初めに見られる絵が、「式台玄関(大玄関)」の壁に貼り付けてある、《松二山鳥図》です。

式台玄関は、大覚寺といえばここ! というくらいに、その外観の写真がパンフレットやガイドブックに使われているので、行くと既視感を抱くかもしれません。式台玄関か宸殿ですね。

「式台玄関」と呼ばれています

ここから入れるの? と思いきや、参拝客の下々の者たちは、もちろんわたしを含めて、この隣にある別の玄関(下足所)から上がります。「式台玄関」は、現在「特別な賓客」…おそらく皇族とかなどということでしょうか…そういう方々が来た時だけ使われているようです。ただし、上がれないだけで、すぐ左側にある別の玄関から入った参拝客は、この式台玄関の上がったところを、左側から右側へ通ることになります。(書き方がややこし過ぎますが、式台玄関で靴を脱いで上がれはしないけれど、隣の玄関から上がって、式台玄関の中を通過します…5年前の話ですけど、今もそうだと思います)

「式台玄関」。一般参拝客は左側から写真の黒い輿の前を通って右側に抜けていきます。
黒い輿は、後宇多法皇のもの

式台玄関は、寺伝によれば江戸時代に京都御所から移築されたものとされているそうです。←「寺伝によれば…」という言い回しをするってことは、ちょっと怪しいのかもしれません。

式台玄関の壁の正面には、寺によれば…狩野永徳筆と言われている重要文化財《松二山鳥図(まつにやまどりず)》が貼り付けられています。「え? まじでこれ狩野永徳さんが描いた絵なの? こんな触れるようなところに使われているの?」ってびっくりしましたが、こんな誰でも触れるところ…それよりも“日の当たる場所”に本物をそのままにしているわけもなく、複製と記されていました。

大覚寺の式台玄関で複製を見た伝狩野永徳の《松二山鳥図》を、トーハクの大覚寺展で、その本物を見てきました。大覚寺では、後宇多法皇の輿が邪魔で全体像がよく分かりませんでしたが、大覚寺展ではしっかりと見渡せます。ドスンッ! と音が聞こえてきそうなほど、存在感のある松が中央に配置され、そこからググッと右に傾き画面から、はみ出していきます。

その松もかなりの老松ですが、やっぱり久しく玄関正面の壁に貼り付けてあっただけに、絵の劣化も激しいですね。おそらく、この作品も修復されたばかりなのでしょうが、それでも金地はもちろん松の葉の緑の鮮やかさも失われています。それでも、解説パネルに「豪壮で強い松の表現は、安土桃山時代の名残を思わせる」とあるとおり、最後の力を振り絞っているかのような力強さを感じました。

なんの鳥だか分かりませんが、本物はすっかりかすれてしまっています。

松というくらいなので画面は春の景色を描いていると思ったのですが、紅葉が描かれていますね。まさか年中葉が赤いノムラモミジっていうわけでもないでしょうけど…どうなんでしょ。

 

全体に豪壮な雰囲気で、松の木や岩などがドンッドンッドンッドンッと配置されているのですが、松の木の根本に、たんぽぽが咲いているのを見つけました。なんだか筋肉隆々のおじいさんの足を後ろからガシッと掴みながら、隠れている幼い女の子が、顔だけこちらに覗かせているような雰囲気で…これは本当にかわいらしくて、キュンッてなりました。

写真を撮っている時には気が付かなかったのですが、そのたんぽぽの隣に、鳥が描かれていたんですね。一度、複製もしっかりと見てみたいなぁ。

そしてニュースです……この《松に山鳥図》ですが、上述したとおり寺では「狩野永徳筆とされている」と解説されていますが、今回の展覧会では解説パネルはもちろん公式カタログにも、狩野永徳の「か」の字も出てきません。まったく否定されてしまったのかもしれませんね。でもまぁ永徳っぽいですよね。

■伝説に出てくる2振の太刀「膝丸」と「髭切」が揃い踏み

もうこのあたりで筆を置こうと思いつつ、展示されている太刀「膝丸」と「髭切」についてはnoteしておきたいと思ったため、もう少し続けます。

刀剣って、わたしはトーハク(総合文化展)で眺めるくらいなもので、鉄を鍛錬して研磨してできた刀剣というモノには詳しくなく、何十振も展示されている刀剣を順に見ていっても「ほほぉ」とか「美しいのぉ」など、かすかに感じるだけなのです。

ただし、解説パネルを読むと、おっ…となることがあって、その解説を読んでから改めて刀剣というモノを見ると、「なるほど、これはすごい」みたいな感情が湧いてくることもあります。なにが言いたいかと言えば、わたしにとっての刀剣とは、そのモノ自体の魅力よりも、その刀剣が辿ってきた歴史の方に興味を抱きやすいということです。たしかトーハクの刀剣の担当者が、刀剣には神が宿っている…みたいな話を言ったか言っていないか忘れましたが、神とまでは言わずとも、そうした霊的ななにかを感じやすいのが刀剣なのかと思います。

そして今回は、大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》と、同じく京都の北野天満宮が蔵する《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》が、同じケースで並べて展示されている点が、今展の目玉の1つです。いずれも重要文化財に指定されているのですが、刀剣類の重文指定って、いくつあるんだ? っていうほど多いです。指定される上で大事なのは、誰が作った、刀=モノとしてどれだけ良いものなのか? は当然として、誰の手を渡って現代に受け継がれてきたかという由来や歴史も重要になってきます。

今回の2振については、誰が作ったかはとりあえず置いておき、どんな由来を持った太刀なのかがとても重要なものです。その由来について良いページが読売新聞にあったので、正確かつ詳細に知りたい方は、このページを読むことをおすすめします。

このnoteでは、何を書こうか決めていませんが、まずこの2振の人気が高いのは、源義経や源頼朝などのスターたちが持っていたとされること。あとは、鬼と戦う時に使われたり…かなりファンタジーな伝説が附されている太刀だということが挙げられるかと思います。持っているストーリーが素敵すぎるのに、国宝ではなく重要文化財ということは、モノとしては特出点があまりないのかな……なんて言ったら界隈の方々から怒られそうですね。

さてさて大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》と北野天満宮蔵の《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》は、兄弟刀と言われています。なぜかと言えば、話は平安中期…藤原道長のおじいちゃんの時代にさかのぼります。

その頃、清和源氏の2代(2世代目?)の源満仲さんが、当時の天皇から源の姓を賜ります…ってことは清和天皇ですかね…そして「天下の守護をよろしくね」と言われました……

……(前略)御子經基六孫王、其嫡子多田満仲上野介、始めて賜源氏姓、可守護天下之由、勅賞をぞ蒙りてげる。満仲宜ひけるは、「天下を守るべき者は、良き太刀を持たでは如何せん」とて、鉄を集め鍛冶を召し、太刀を作らせて見給ふに、心にかなふ太刀なかりけり。如何すべきと思はれける處に、或者申す様、「筑前國三笠郡土山といふところにこそ、異朝より黒鉄の細工渡りて数年候ふなれ。彼を召さるべく候ふやらん」と申しければ、則ち彼を召し上せ、太刀を多く作らせて見給へども、一も心にかなはず、空しく下るべきにてぞありける。彼の鍛治思ひけるは、「我筑紫より遥々と召さるゝかひもなく憚り下らば、細工の名を失はんこそ心憂けれ。昔より今に至るまで、佛神に申す事の叶へばこそ、祈祷といふ事もあるらめ」とて、八幡宮に詣でつゝ「帰命頂礼八幡大菩薩、願くは心にかなふ劔作り出させて興へ給へ。さやうならば、大菩薩の御器と罷り成るべし」と、願書を進らせて、至誠心にぞ祈りける。七日に満する夜の御示現にいはく「汝が申す所不憫なり、とく罷り出でゝ、六十日の際黒鉄を鍛うて作れ。最上の劔二つ興ふべし」と、分明に夢想ありけるが、細工悦びて、社頭を出でにけり。其の後よき黒鉄をわかし鍛ひ選びて、六〇日に作りたり。実に最上の劔二つ作り出す。長二尺七寸、彼の漢の高祖の三尺の剣ともいひつべし。満仲大に悦びて、二の劔にて、有罪の者を切らせて見絵ふに、一つの劔は髭を加へて切りてげれば、髭切と名づけたり。一をば膝を加へて切りければ、膝丸とぞ号しける。満仲、髭切膝丸二つの劔を持ちて、天下を守護し給ひけるに、靡かぬ木草もなかりけり。

『平家物語 劔の巻』

髭切と膝丸について、以上のような話が『平家物語 劔の巻』に記されておるのでござります。ということで、多田満仲あらため源満仲さんが作らせた両刀が、言ってみれば今回、トーハクの大覚寺展で展示されているというのが、お話の流れです。

そして源満仲さんの嫡男の源頼光に引き継がれると「不思議様々多かりけり」だったんですね。源頼光さんと言えば、金時山で金太郎をスカウトして、《童子切》という名刀を携えて鬼の酒呑童子を成敗しにいったり、病で臥せっていた時に寝床に現れた妖怪・土蜘蛛を《膝丸》で撃退したり、金太郎と同じく頼光四天王の1人、渡辺綱に《髭切》を授けて酒呑童子の家来の茨木童子を退治させたりと、もう大忙しの活躍だったんです。

その後も両刀は源氏に伝わりましたが、(詳細は上述した読売新聞の記事を読んでいただきたいのですが)いつしかばらばらになり、《膝丸》は一旦は熊野に奉納された後に、熊野別当により源義経へ渡されます。この時に源義経は「膝丸」を「薄緑」と呼ぶようになり、平氏追討で大いに振るい、ついには壇ノ浦でも勝利を収めました。そして仲違いしていた兄のもとに帰参し、源頼朝に「薄緑(膝丸)」を渡しました。この時、源義朝により熱田神宮に収められていた「髭切」も、源頼朝の手に渡っていたため、しばらくぶりに両刀が1つの場所に収まることになった…というのが『平家物語 劔の巻』に記されている話です。

とはいえ、「膝丸」と「髭切」の由来については、ほかにも(Wikipediaによれば)「膝丸(薄緑)」については『吾妻鏡』や『曽我物語』、『義経記』など、「髭切」については『酒呑童子説話』や『田村三代記』などに記されていて、経緯が異なります。また「膝丸」だと伝承されているモノ自体も箱根神社の「薄緑丸(膝丸?)」や個人蔵の「銘 長円 薄緑(膝丸?)」などがあるんです。一方の「髭切」も同様に、様々な文献・伝承に「これが髭切だろう」という話があり、いくつかのモノが各所にあります。

ちなみに両刀の源頼朝以降に誰の手に渡っていったかについては、それら様々な伝承により大きく異なるため、1つの系図を作るのは難しそうです。なにはともあれ、それぞれ現在の寺社に奉納されたのは、明治時代になってからと、けっこう最近のことになります(膝丸は、江戸時代は安井門跡が所蔵していたようで、明治期に、その安井門跡が大覚寺へ移築されたのと一緒に、大覚寺に所蔵されたようです)。

とはいえ、重要文化財に指定されているのは、大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》と、北野天満宮蔵の《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》の2振で、これらが本物だろう…と信じやすい気がします。再び、とはいえ…解説パネルを見てみると、大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》の製作年代は鎌倉時代・13世紀とあり、北野天満宮蔵の《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》は平安~鎌倉時代・12~14世紀となっていて…「なんや、10世紀じゃないんかい!?」 と思わないでもありません。でも伝承ってそんなものですし、学術的には、それぞれ「いつ頃、どこで作られたか?」という研究はなされていて、大覚寺展の公式カタログにも記されているので、ご興味あればお手にとってください。

ということで、大覚寺展についてのわたしのnoteは終了です。

このnoteのはじめの方で記しましたが、大覚寺は何度も何度も伽藍を消失し、荒廃していた時期があります。何度も何度もです……。展覧会を巡りながら、なぜかそのことに思い至ったんです。何度も焼失したということは、何度も何度も復興されたということです。大徳寺に限ったことではありませんが、こうして誰かによって「復興させなきゃいけない!」って思わせる何かがあるっていうのがすごいなって思います。大覚寺の場合は、何がそこまで人の気持ちを駆り立てたんでしょうね。

大覚寺展は3月16日まで開催されるうえ、前後期で分かれているとはいえ、それほど大規模な展示替えはないような気がします。だったら、ハローキティ展が終わってから(館内が一気にすくと思うので…)見に行かれるのも良いかなと思います。せっかくですから、常設展というか総合文化展もゆっくりと回った方が大充実しますしね。

■展覧会概要

会期:2025年1月21日(火)~3月16日(日)※会期中、一部作品の展示替えを行います。
前期展示:1月21日(火)~2月16日(日)/ 後期展示:2月18日(火)~3月16日(日)
会場:東京国立博物館 平成館
休館日:月曜日(ただし2月10日、24日は開館)、2月25日(火)
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで

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かわかわ
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