映画日記 『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』 映画は自由だ!
映画というのは、つくづく自由だ。そういうことを感じさせる映画だった。この『歩いて見た世界』というタイトルの映画が、自由をテーマにしているという意味ではない。自由に作ってあるという意味だ。映画は、好き勝手に作っていいのだ。それが出来る人は、それをやる、という、それだけのことだ。そして、この映画は、そういう映画だった。
『歩いて見た世界』は、ブルース・チャトウィンという人物をテーマにしたドキュメンタリー映画だ。チャトウィンというのは、美術品の収集家で旅行家で、イギリスの作家だ。生まれた年はジョン・レノンと一緒の1940年だ。亡くなったのは、ジョン・レノンより9年長い1989年だ。死因はエイズだ。
チャトウィンは、世の中的には、紀行文学の人、と認知されていると思う。70年代、80年代に、バックパッカーのブームがあって、チャトウィンはその渦中にいて、自分が踏破した旅を、かなり加工して、ノンフィクションではなく、小説に仕上げた人だ。
ある時期まで、彼の旅行記は、ノンフィクションとして捉えられていたけれど、現在では、さすがにフィクションだとされている。しかし、熱烈なファンには、いまだにノンフィクションだと思っている人も多い。
私は、そういう人物の、ドキュメンタリー映画を観に来たはずだった。しかし、観てみたら、通常のドキュメンタリー映画とはだいぶ趣が違っていた。果たして、これはドキュメンタリーなのか、と疑問に思うような映画だった。
確実に言えるのは、ブルース・チャトウィンの評伝の類ではないということだ。日本語のタイトルは、『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』となっているけれど、チャトウィンの業績を辿る、といった要素はかけらもない。また、チャトウィンの実像に迫る、というのでもない。しいて言えば、ぼくの知ってるチャトウィン、私の知ってるチャトウィンを語り合おう、というような映画だった。
登場するのは、ヴェルナー・ヘルツォーク監督自身。そして、チャトウィンの評伝を書いたニコラス・シェイクスピア。この二人が、誰よりも登場時間がながい。この二人で、人物が映っている時間の半分以上を占めているのではないか。そして、チャトウィンの未亡人。そして、研究者や他、生前のチャトウィンが旅先で出会ったゆかりのある何人か。
監督は、生前のチャトウィンと交流があり、彼の小説を原作に映画も作っている。それにはチャトウィンも脚本に参加している。そんな付き合いのある監督だから、チャトウィンの動く映像も撮影しているだろうと思い、秘蔵映像がふんだんに見られると期待して、私はこの映画を観に行ったのだが、そんなものはほぼなかった。
唯一観ることが出来たのは、最晩年の病魔に侵されたチャトウィンの無言の映像だ。10秒もあっただろうか。そのほかは、写真が数枚〜10枚。チャトウィンが主役の映画だと思ったのだが、チャトウィンの姿が見られるのは、映画の中では本当に少ない時間だった。
しつこく書くけれど、生前の動くチャトウィンの映像は、ほぼ皆無だった。チャトウィン自身は、写真で、ほんの少ししか出てこない。それも見たことのある写真ばかりだ。もっとチャトウィンの秘蔵写真が出てくるのかと思った。もっとチャトウィンの映像が、たくさん出てくるのかと思った。映像としてチャトウィンがほとんど出てこない映画だった。それには本当にびっくりした。
チャトウィンの旅した土地の、美しい風景も、あまり出てこない。出てくる映像と、チャトウィンとの関連付けも、よくわからない。巨石遺跡のある原っぱをダウジングして歩いてくる男性の映像などがあるが、チャトウィンとの関係は不明だ。
イングランドの古いホテルなどが出てくるけれど、チャトウィンゆかりのホテルなのか、よくわからなかった。私が見逃しただけで、もう一度見たら、わかるのかもしれない。
映画のラストシーンは、両側を緑の樹木が覆ってトンネルのようになった森の小道の先に、陽光で明るい出口が見える映像なのだが、これもチャトウィンと関係がある場所なのかは、不明だ。
チャトウィンの代わりに出てくるのは、監督のヴェルナー・ヘルツォークと、伝記作家のシェイクスピアの二人だった。この二人が、チャトウィンについて語り会っている場面を撮影した映像がメインの映画だ。
そして、取材対象がとても狭い。一人一人のインタビューも、おそらくかなり短い。ビデオドキュメンタリーの手法をとっていない。証拠映像的なものも皆無だ。
図書館から特別に借りてきたというチャトウィンの直筆原稿が出てくる。また監督が、死の間際のチャトウィンから譲り受けたというチャトウィンが長年愛用した革製のリュックサックが出てくる。しかし、出てくるだけで、そのリュックの特性やら属性やら、使い勝手などについての言及はほぼないし、モノとしての細部も映さない。「ぼく、これ貰っちゃって、ずうっと使っているんだよ」という感じだ。
ビデオドキュメンタリー的には、なくてもいい映像ばかりだ。でも監督には必要な映像なのだと思う。
チャトウィンは、現地に行って、自分で歩いて、現場を見てきた人だ。彼が撮影した写真も特に残っていないからカメラなど持って行かなかったのだろう。そうして、世界の僻地の情報を、自分の文章にして発信した人だ。「歩いて見た」人だ。インターネットが発達した今の社会からすると、対極に位置する人だ。
ところが監督が「チャトウィンはインターネットだった」と、何度も繰り返す。それを聞いてシェイクスピアもうなずいている。チャトウィンは、時間をかけたが、一人でインターネットのようなことをやっていたという意味なのだろうが、私にはどうでもいい評価のように聞こえた。
主に、この二人が、自分の知っているチャトウィンについて語り合っている、その対談の場面が、この映画のメインなのだ。それはその二人が思っているチャトウィン像だから、現在流通しているチャトウィンのイメージとも違っているし、私が抱いているイメージとも異なっている。だから、この映画を観ても、ブルース・チャトウィンという人がどんな人物だったのかは、わからないと思う。
チャトウィン・ファンに対するサービス精神はかけらもない。第三者への説明もない。監督の個人的なイメージだけが流される映画だ。私はなんだこれ、と思って観ていたが、客席の観客は、誰も怒らないで観ていた。これを観て、金返せと思う人は多いと思うが、そもそもそういう人は、わざわざ岩波ホールまで観にこないなとも思った。
岩波ホールは、なんでこの映画を、最後の上映作品に選んだのだろうか?
他に何かなかったのかなあと思う。この映画に対しては、私は否定的だけど、この映画の自由さは、ちょっと他に例がないと思う。こういう変な映画があって、映画館で上映されているということは、すごくいいことで、そのことは、絶対に否定できないと思う。(まだまだ書き足りないので2があるかもしれない。)