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二宮翁夜話 巻之一、第八節 人の、人による、人のための道

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話についての不定期投稿。ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

・最初に

儒教、仏教などの教えはみんな同じだと語った節。
宗教に寛容な日本ならではの考え方と言えるかもしれません。

・抄訳

世の中に誠の道はただ一つである。
神道、儒教、仏教など数々の教えがあるが、すべて入口の違いに過ぎない。

紫色の染め物も、紺色の染め物も、染め水の元はすべて同じ清水であるようなもので、優劣をつけようとするのは迷いである。

どんな教えもやがては1つの道に至る。富士山にどこから登っても、同じ頂上に辿り着くようなものである。

とはいえ、誠の道に辿り着かない無益な道もあり、それを邪教という。
邪教には、引き入れられることも、自ら迷って入ることもあるので、注意しなければならない。

感想

これは、かなり乱暴な説ですね。
神様に敬意を払う神道、悟りや成仏を願う仏教、礼による秩序で国を治める儒教の三つだけでも、明らかに教えの内容は違います。

それを同じ1つのものと見るのは「人の作った道」という共通点を見ているのではないかと考えます。

尊徳が唯一の道とするのは天の道。つまり天理自然の働きです。
第二節で書いていたように、天の道には是非も善悪もないので、人には厳しいルールです。
そこで人の暮らしのために別のルールを作ります。これが人道。

神道や仏教、儒教なども人道の一種で、本来の目的は人の暮らしを安定させ、豊かにすることでしょう。
目的が同じなので同じ1つの道である、という結論。

たとえば、
「思いやりを持て、人を助けよ」
などは、どの教えにもある項目ですね。
「人のため」という根幹が同じなら、あとの教えは枝葉の問題だという意味だと解釈します。

(単に、宗教論争で争う人に向かって「正しさを争うな、仲良くせよ」という意味で言った可能性もある…かな)

最後の2行は、ここしばらくのニュースを見ていると気にかかりますね。

原文

翁曰 、 世の中に誠の大道は只一筋なり、 神(シン)といひ 儒と云(いい)仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或は天台といひ真言といひ法華といひ禅と云(いう)も、同じく入口の小路の名なり、 夫(それ)何の教(オシヘ)何の宗旨といふが如きは、譬(タトヘ)ば爰(コヽ)に清水あり、此水にて藍(アイ)を解きて染(ソム)るを、紺やと云ひ、 此水にて紫をときて染(ソム)るを、 紫やといふが如し、其元は一つの清水也、 紫屋にては我(わが)紫の妙なる事、天下の反物染(そむ)る物として、紫ならざるはなしとほこり、 紺屋にては我(わが)藍の徳たる、洪大無辺也、故に一度此瓶(カメ)に入れば、物として紺とならざるはなしと云が如し、夫(それ)が為に染(ソメ)られたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に有難(アリガタキ)物はなしと思ひ、紫宗の者は、我宗の紫ほど尊き物はなしと云に同じ、 是皆所謂(イハユル)三界城内を、躊躇して出る事あたはざる者也、夫(それ)紫も藍も、大地に打こぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰る也、そのごとく神儒仏を初(ハジメ)、心学性学等枚挙に暇(イトマ)あらざるも、皆大道の入口の名なり、此(この)入口幾箇(イクツ)あるも至る処は必(かならず)一の誠の道也、是を別々に道ありと思ふは迷ひ也、別々也と教(オシフ)るは邪説也、譬(タトヘ)ば不士山に登るが如し、先達に依て吉田より登るあり、須走(スバシリ)より登るあり、須山より登るあり といへども、其(その)登る処の絶頂に至れば一つ也、 斯(かく)の如くならざれば真(シン)の大道と云べからず、されども誠の道に導くと云て、誠の道に至らず、 無益(ムエキ)の枝道に引入るを、是を、邪教と云、誠の道に入らんとして、邪説に欺(アザムカ)れて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路に陥るも、世の中少からず、慎まずばあるべからず

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