梅と反骨と陸奥人(わたし)/連載エッセイ vol.107
※初出:知事認可・岩手県カイロプラクティック協同組合発行、「姿勢ッコくらぶ通信 vol.109(2018年・第6号)」掲載(原文ママ)。
『来年の事を言えば鬼が笑う』という諺がある……と、確か前号もこんな書き出しであったかとは思うが、つい先日、来年4月末に静岡で、一般市民を対象とした『姿勢科学』がメインテーマに開催される、大規模講演会への『お呼ばれ(講師出張)』が正式決定した。
来年開催予定の同種の講演会としては、1月末の岩手&名古屋の2連戦に続き、3件目。
いささか気の早い話のように思われるかもしれないが、県外での講演会ともなると、岩手からの移動を鑑みて、前後1日ずつの予定を確保しなければならないので、開催の半年程前に調整&本決まりとなる事が多いのである。
そんな『日程確保』の意味では、あまりコスパの良い講師とはいえない私を、わざわざ招聘してくださる県外地域が、ありがたい事に、近年増えてきた。
今年は7月に姫路、10月に金沢、昨年は大阪等々……。
私としては、手間隙掛かるのを承知で呼んでくださった全国の同志の想いに答えようと、当日は必死に喋り捲る訳であるが、その際、参加した一般の方からよく頂戴するのが『センセイはホントにイワテの方ですか??』……という反応。
果たして、この言葉の真意はどこにあるのだろうか。
そもそも一般の方からすれば、参加を検討する時点で既に『何故に岩手からわざわざ講師を??』という戸惑いはあろう。
所属する全国規模の業界団体においては、講師を務めるようになって早10年以上経過しており、数多くの国際会議&学会の参加経験もあり、博士号も取得済み。
だから『業界的』には違和感はないのかもしれないが、しかし、一般の方からすれば、やはり不思議に感じる点なのであろう。
そんな中、今年、印象的だった『受講後アンケート』での感想に、『岩手の先生と聞いて、ズーズー弁の訛りがきつくて聞き取れなかったらどうしようと不安でしたが、そんな事前イメージを良い意味で裏切るお話で、とても面白かったです』……というものがあった。
もちろん、この方に悪意はなく、一般的な東北人のイメージと敢えて対比させて、講演に対する良いイメージを伝えようとしたのであろう。
この事自体は、私自身、慣れっこであるし、逆にその『ギャップ』を講師としての自分の『武器』として用いている位なので、全く問題はない。
(ちなみに、これから書き連ねる事は、私が地元みちのくの中学校や高校で生徒対象に講義講演する際、必ず最後に入れ込んでいる内容であり、それまでそっぽを向いていたようなこども達も必ず耳を傾けてくれる件である。)
一般的に、他地域の方が抱く『東北人のイメージ』はどういったものであろうか。
まぁ、そこはイロイロあろうが、良くも悪くも『田舎の人』というのは拭えないであろう。
それ自体は問題ない。
何故ならば、他人がどのようなイメージを持つかは、当人にコントロールできない事だからだ。
しかし他人が作ったイメージに、自分を当てはめて、自身の可能性を狭めてしまうとすれば、それは大いに問題であると、私は思う。
所謂、『どうせ……だから』というヤツである。
ここで、私の『陸奥人』としての矜持を支える、歴史的な逸話をご披露したいと思う。
時は西暦1051年から1062年、世に言う『前九年の合戦』まで遡る。
これは、当時関東に基盤を築き、東北地方まで影響力を拡大しようとした源氏と、今で言う岩手県に位置する陸奥国の奥六郡を支配する豪族・安倍氏の戦である。
ここで押さえておきたいポイントは、『源氏側に戦を起こす理由が存在した』と言う事。
何故か。
それは、当時の陸奥が非常に『豊か』であったからだ。
現在の社会的状況を鑑みると、いささか不思議に思われるかもしれないが、つまり当時の陸奥国は、より北方に位置する蝦夷地との交易拠点であり、後の平泉文化に代表される金の産出もある。
そして何より、当時勃興してきた武士にとっては喉から手が出るくらい欲しい良馬の産出地でもあった。
だからこそ安倍氏側は、戦を起こさせまいと帝や朝廷への貢物を絶やさず、その過程で中央の先進的な文化を取り入れていたし(そしてそれを垣間見せてしまった事が、中央から派遣されてくる歴代の役人を刺激してしまった側面もあるのだが……)、だからこそ源氏側は、都の世論を『安倍氏脅威論』へ懸命に操作し、策略によって強引に小競り合いを起こして、戦の火種を作ったのである。
合戦自体は、源氏側の圧倒的戦局不利な中、今で言う秋田県に位置する出羽国の豪族・清原氏が介入する事で劇的に流れは反転し、安倍氏は敗れる事となった。
安倍氏頭領・安倍貞任は厨川柵(現盛岡市)で討死、平泉の始祖・藤原清衡の父である経清は打首、そして安倍氏の2番手である宗任は都へと連行された。
そして都での春の日の出来事。
囚われた宗任に対して、ある貴族が梅の花を手に尋ねた。
『これは何か?』。
つまり、北の外れの野蛮な無骨者には、雅な文化の象徴である梅など理解する教養など持ち合わせていないのであろうと嘲笑したのである。
しかし宗任は、それに対し即興で歌を詠んで返した。
『わが国の梅の花とは見たれども大宮人は何というらん(私の故郷における梅の花とお見受けしますが、都の貴族であるあなたは、それを何とお呼びになるのでしょう)』……(平家物語・剣巻)。
私がこの逸話と出会ったのは、中学生の時であった。
出身校の校章に梅の花が用いられている由来として生徒手帳に記された、この陸奥人の矜持をこれ以上なく語り伝える一場面と、雷に打たれたように出会ったあの瞬間に、もしかすると現在のファンキーすぎる人生の一歩が踏み出されたのかもしれないと、今になって思ったりもする。
(ちなみに後年、伊達政宗も、桜を手にした貴族に同じような扱いをされた際、『大宮人梅に懲りずに桜かな』と返したとされる。
これぞ『陸奥人の反骨DNA』!!)
だからこそ私は陸奥人の矜持を胸に、みちのくの地で、それ以外の地で、『姿勢科学』という非常に面白い武器(または、おもちゃ!?)を手にしながら、これからも聴衆に語りかけ続けていくのだろう。
『わが物言 矜じ支える 梅の花 興じる君よ 如何活きらん』。
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