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赤ちゃんがかわいいと思えなかった私
私にとってのお産は、あの数日間だったように思う。
手術室で産声を聞いたとき、世界が割れた。ずっと聞きたかった歌、はじまりのうたが聞こえる、そう思った。
しかし本当のはじまりはその後だった。
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帝王切開の翌日、新生児とふたりっきりで部屋に残され、心底途方にくれた。この人間とこれからずっと一緒に生きていくのか…そう思おうとしても思えず、とりあえず顔をながめる。お願い泣かないで…。
助産師さんは「かわいいー」と言うけれど、私にはエイリアンにしか見えない…。
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それまでの私はひとりの時間がすごく大事で、自分のペースで生きてきた。主語は常に「わたし」だった。
それが今、自分という聖域の中には、この無力で強烈な存在が大きな顔をして居座っている。産院のスタッフからは当然のように「ママ」と呼ばれ、いつのまにか名前まで消えかけている。
今思えば、あれは「わたし」の存在の危機だった。
何かを変えないといけないという思いに駆られ、傷口が開いたままの体をひきずるようにして散歩に出かけた。思ったよりかなり痛い…。2日前に大手術をしたのだから当たり前か。歩く瞑想をしているように、一歩一歩地面を感じる。冷や汗がにじむ。それでも、下界に出られたことが嬉しかった。
この2日間は夢だったのか。本当のところいったい何が起きたのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、新たな現実が自分に染み渡ってくるのを感じた。
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部屋に戻ってもう一度新生児の顔を見る。まだエイリアンではあるけれど、自分のもとに迎え入れたエイリアンの顔になっていた。
道のりは長い。けれど、ひとまず一緒にやっていけそうな気はする。
出産が帝王切開でオキシトシンの助けがなかったからこそ見えたことがある。それは、関係性というのは、時間を積み重ねることで紡がれていくものだ、ということ。
親と子という関係でもそうなのだ。そんな当たりすぎることに、私はやっと気づいた。
この気づきによって、私はようやく自分の子どもを産んだ。まだ心からかわいいとは思えないし、「ママ」呼ばわりもくすぐったい。
けれど、この人間は私のもとに来た。わたしは、自分を無理やり広げてこの人間を迎え入れた。
ここから、何かが始まる。