排気口のこれから色んな告知が沢山の巻。あと、やっぱり寒いの巻。

 あったけえーと思って、冬ももう終わりじゃんと思って、スキップしようと思ったら、やっぱり寒い。まだまだ冬は終わらない・・・。

 最近は作業が沢山あって、その弊害なのかとかく眼精疲労。目が酷く痛い。その痛みが編頭痛も引き連れてくる。片目をつぶりながらPCでキーパンしたり、台本作業の資料を読んでは、さらに目も頭も痛くなる悪循環。割と本気で悩んでいる。

 排気口公演の稽古も始まった。素晴らしい役者の方々とこれから短い間だが一緒に作品を作る。稽古終わりにみんなで飲む。前々作『光だと~』の稽古で行きつけだった居酒屋で乾杯。名物の餃子に舌鼓を打ち満足。疲れもあり泥酔。1人きりの帰り道で記憶の殆どを失う。どうやって家まで帰り着いたのか、全く不思議。

 排気口は稽古終わりに大抵、飲みに行くのだが、アキラ氏ほぼ不参加、排気口からはピーヤさん、中村ちゃん、そして私。の3人。それから、客演の方々という具合。私たち3人に立派な演劇論があるはずも無く、話題の大体はご飯の話。というか、ご飯の話をしながら美味しいお酒と美味しいご飯で乾杯する事のなんたる楽しさ。なんたる歓び。

 強制じゃないので時には人数が3人だけという場合もある。それはそれでまた楽しいのだ。少人数だから少し冒険していいお店にしよう。という提案でワクワクする店までの道のりの豊かさ。稽古終わりの飲みは楽しい。

 勿論、稽古後の飲み会に全くの不参加でも問題ない。前は質問されたらくどくど作品についても喋っていたが、その喋りは、そこに来ていない人は聞けない訳で、別に自分ってものを特権的にしてる訳じゃないけど、だからなるべく言うとしても、同じことを次の稽古でも言おうと思って、それになるべく自分からはくどくど作品の事を喋らない様にしている。上手く出来てるか分からないけど。稽古で全部喋ろうって心がけている。みたいな事を素面では思ってる。上手く出来てるかは分からないけど。

 にしても毎度、不思議である。これから私たちは約一ヶ月半ぐらい最低でも週に2回は必ず顔を合わせて、恋人でもあるだろうか?週に2回必ず会おうなんて約束、さらに集中稽古の時なんて毎日顔を合わせて、本番の時も毎日顔を顔を合わせて、本番が終わったらもうみんなで顔を合わせる事がないのだから。

 そうして集まって私たちは現実の時間以上の時間を作り出さなくていけない。初めましてで出会った二人が長年連れ添った夫婦の時間を作りだしたり。その時間の終わりと始まり、現実の始まりと終わりとは別に作り出す。なんとも不思議な営為だ。演劇って。

 再生性が著しく低い演劇は一度終わってしまったら基本的には消えてしまう。まるで最初から何も無かったかのように。だから演劇は始まりを高らかに叫ぶ時も、始まりの歓びに身を浸す時も、その始まりの「終わり」に加担する。

 想像して欲しい。貴方は浜辺を歩いている。暖かい日差しと柔らかな午後の風に吹かれながら歩いている。波が寄せては返す。その時、貴方は目の前に砂の城が立っている事に気が付く。誰が作ったのか、立派で、誇らしげで、豊かで、それでいて無邪気な砂の城。それを貴方は美しいと思う。心からそう思う。そしてもう少しだけ近くで見ようと思った時、波が一瞬にして砂の城を攫ってしまう。後には何もない浜辺があるだけ。まるで最初から何も無かったかのように変わらない浜辺がただそこにあるだけ。

 隣に人が立つ気配がする。ふと顔を向けると優しい顔をした誰かが貴方にこう尋ねる。「ずっと浜辺を見つめてますけど、そこには何かあったのですか?」貴方は少しだけ考えるような顔して、それからこう言う。「ここにはさっきまで、ほんのさっきまで、美しい全てがあったんです」

 演劇は「美しい全て」を作るのではない。それは小説や映画や音楽の領域だ。演劇は「さっきまで、ほんのさっきまで在った美しい全て」を作る。

 それを、さっきまで、ほんのさっきまで若かった私たちが、その若さを波に攫われながら作るのだから。不思議なものだ。

 不思議なものには答えを求めがちだけど、不思議は不思議なままの方がワクワクする。排気口公演は3月だ。3月5日から9日だ。少なくとも私は不思議なままでいようと思う。3月9日までは。3月9日ってレミオロメンだ。

 そろそろ情報公開されます。排気口公演宜しくお願いします。それと一人芝居も宜しくお願いします。新作です。とても素晴らしい作品になっています。排気口公演の前に是非とも。

 皆さんの穏やかさを祈って。

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