「政治的正しさ」は“排除”のためにある
対話型AI「Chat GPT」が話題だ。Chat GPTの何がすごいのかについてはテック系メディアでも見てもらうとして、今回のブレイクスルーの到来は我々を興奮させ、世界に大きな変化をもたらす技術革新であることは間違いない。
こうした新たな技術をどう活用していくかについてもさまざまな検討がなされていて、特にアメリカでは「法案作成」に応用する動きなどもあるようだ。
しかし、実際にChat GPTが政策分野で活用される際に問題視されているのが、AIの政治的な偏向である。すでにChat GPTがリベラルな価値観に偏っているとの報告が見られる。
もちろんハッキリしたことは言えないが、回答を見るかぎり一定の問題については回答を避けるように何かしらの“操作”が加えられているようにも見える。実際に数年前のAI研究の現場では、人工知能が人種・性差別的な判断を示したという報告がしばしばあった。だから、特定層を“噴き上がらせてしまう”回答については、あらかじめ避けるような調整が存在したとしても不思議がない。
その判断を完全に否定することはできないが、しかし、ある意味でChat GPTの技術の一部から、特定の政治思想をもつ人々が排除されていることについてはもっと自覚的であるべきだろう。AI技術が進歩して活用の場が広がっていけばいくほど、技術に“公共性”や“権力性”が生まれることになる。ならば、その技術を設計し調整する存在の恣意性は大きな問題となる。
しかし、現状では民間企業の恣意性を縛る法は存在しない。寡占状態に陥りやすい最新技術の持ち主の権力を牽制する自由主義的な仕組みは、今後大きな議題になりそうだ。
すべてが政治的になっていく
Chat GPTの偏向にも見られるように、今日ではすべてのものに「政治的」な意味づけが与えられる。
AIのような本来は価値中立性を疑う余地もない技術すらも、その意味づけからは逃れられない。「AIによって機械的に出力された結果」ですら政治的な文脈で解釈され、望ましくない結果であれば技術そのもの、あるいはその管理者の能力や資質への追求につながってしまう。時として、それは管理者を社会的に抹殺するキャンセルカルチャーにも発展する。
わたしは少し前まで、この状況を今ひとつ理解しがたいものとして見ていたのだが、今はなんとなく「何が起きているか」を知る足がかりが出来ていた。そして、今ではこの状況こそが「民主主義」の本質を考えさせるものでもあるように感じている。
政治的なもの=友と敵の区別
ナチス・ドイツの理論を支えた法学者カール・シュミットは「政治的なもの」という概念について、その本質を「友と敵の区別にある」とした。すなわち同質的な「友」と異質な「敵」とを分けて、「敵」を容赦なく排除していくことにこそ「政治的なもの」の本質があるとした。現状の「政治的正しさ」をめぐる運動とは、まさにこの「友」と「敵」の区別を日常的に決定していくものと見ることはできないだろうか。
仮にそうだとした場合、強調しておくべきことは、このとき、シュミットは「敵」を「敵」たらしめる理由について、「道徳/不道徳」「経済的な損/得」といったほかの概念とは無関係であるとしていることだ。つまり、異質である「敵」というのは、無条件に「敵」であって、そこに「政治的なもの」以外の領域(道徳的など)の判断基準が入り込む余地はないということだ。
ポリコレの本質は「異質な存在」の排除
やや抽象的な話になったので、これまでの話を実際の「政治的正しさ」問題に当てはめてみよう。
たとえば、ポリコレ問題というのは、一般にそれが「道徳問題」であるかのように語られるが、傍目から見ると必ずしも「道徳/不道徳」といった基準で割り切れないものも多く、しばしば論争を呼ぶ。
下の記事で取り上げられているGapの広告や、しばしばネットで物議をかもす「萌え絵排除」なども、それがすぐさま「道徳」と結びつく人はそう多くないだろう。というか、実際のところ、そうした炎上事件は「確信をもった批判をしているわりに、根拠に乏しい」ものも少なくないように思う。
しかし、そもそもこうした「政治的なもの」をめぐる排除が、そもそもシュミットが指摘したように「道徳/不道徳」の基準でおこなわれているものではないのだとすれば、こうした懐疑論はまったく的はずれといえる。
つまり、ポリコレ戦士のいう「政治的正しさ」というのは、そもそも「道徳/不道徳」でジャッジできるものでもなければ、意見や見解の違いといった次元で解消される対立でもない。もっと根本的な存在そのものをめぐる対立であって、言い換えれば、お互いの存在をかけた対立。つまり相手の存在が自分の存在を否定し、自分の存在が相手の存在を否定するような決定的な対立なのだ。
だとすれば、ポリコレをめぐる運動とは、その“排除”の原動力は急進左派コミュニティの構成員たちからの「こいつらの存在そのものが許せない!」「こいつらと同じ社会にはいられない!」という異質な存在への拒否反応そのものとして理解すべきなのではないか。「ポリコレの本質は、これまで排除されてきた人たちを包摂する寛容な社会実現への運動」などという言い分は、それこそ皮相的な理解に映る。
キャンセルする「敵」に“平等”はない
であれば、キャンセルカルチャーは、自由主義を自明のものとして受け容れている今日のわたしたちには根本的に利害しがたいものであってもおかしくはない。わたしたちは「他人を排除するならば、よほどの理由がいる」と当たり前のように考えてしまう。それは(公的な)敵にしろ、(私的な)仇にしろ、相手にも自分と同じく「法」によって守られる平等な自由や権利があることを前提としているからだ。
少なくともそれを建前としては受け容れているからこそ、犯罪者の処罰にも一定の法的な手続きをおこなうことに同意できる。たとえば、京都アニメーションを放火した凶悪犯の命を適切な医療で救うことを心情的には「おかしい」と感じながらも渋々ながら認められるのは、それを問答無用で“排除”することはめぐりめぐって自分たちの自由や権利を手放すことにつながり、決して正義ではないことを理解しているからこそだ。
しかし、これはあくまで自由主義者の言い分にすぎない。
シュミットは「友」と「敵」の区別を政治的なものの本質としたうえで、民主主義における“平等”とはこの「友」と「敵」の区別にもとづいて「友」にだけ認められるものだと考えた。つまり、自由主義があらゆる者に認めた権利も自由も、民主主義においては決して誰にでも認められるものではない。それは排除を免れた同質な「友」にのみ保証されるものだということだ。
私刑のようなキャンセルカルチャーを前にして、しばしばわたしたちは「やり過ぎではないか」と感じる。フランス革命後の大衆が、革命裁判によって次々に政敵をギロチンにかけていった悲惨な歴史を見ているように感じることすらある。
しかし、ポリコレ戦士たちの視点からすれば、これはまったく言いがかりにすぎない。彼らにとって平等に与えられる人権というのは「友」を守るためのもので、「敵」に利するためのものではないからだ。
どのような法規範を適用するかは主権者がその都度“決定”していくべきもので、ただ「法があるから」と今現在通用している法を機械的に適用することは、それ自体が「現状を追認する怠惰な決定」にほかならない。
そして、その“決定”を行えるのは、自分たちにほかならない。そう考えているのではないか。いや、実際にそういったことを訴える左派の理論家や思想家は実際に存在する。
「全体主義」を論じたハンナ・アーレントは、全体主義の本質を何よりもその「運動」に見た。広い大衆を巻き込んだ運動は、自分たちに従順でない者を徹底して追放する。ポリコレがまさに「政治的なもの」としての「敵と友の区別」を本質とするのならば、この運動が行き着く先が本当に「寛容で誰もが包摂された社会」だと断言できるのだろうか。