(短編ふう)転生してゼノン討伐に参戦する。
倒れた老木に下半身を挟まれて動けない。
もう腰から先の感覚が残り少ないのがわかる。
視界の空は遮るものがなく高々として快晴だった。
鬱蒼と新緑が生い茂った森林生態系保護地域の初夏だ。
おそらく樹齢150年くらいの老木だった。
立っていた場所が青空の穴になっている。
繊細な森は、ぽっかりと空いた穴の影響でこれからしばらくの間、少しバランスを崩すだろう。でも、穴を中心に新たな新陳代謝が起こるはずだ。そのままそっとしておけば、やがてまた、少ない言葉では言い表せない多彩な緑が集う空間に戻るだろう。
自分の遺体捜索などで荒らされなければいい。
ごめんね。
下半身を押しつぶしている老木に謝りたい。晩節を汚してしまった。
憧れだった森林保護官の仕事について3年。まだ駆け出しだが、不注意も甚だしかった。
意識が遠のく。…
意識が、歓声と同時に戻ってきた。
手を床についている。
長い髪が顔の左右で御簾のように垂れている。
上半身をようやく起こすかたちで倒れているのだ、とわかった。
つぶれたはずの下半身から、冷たさと鏡面のように磨かれているらしい床の表面が伝わってくる。
誰かが慌ただしく走っていく床の音が、あたりに反響して後方へ小さくなった。
歓声が次第に静まり、感嘆の息遣いに置き換わると、やがて、畏怖するような静寂になった。
十人以上の人間がいるだろう、と感じた。
誰もが自分に注目しているのがわかる。
自分の次の動作を、すだれ掛かった髪から顔が覗くのを、かたずをのんで待っている。
〈聖女〉としてこの世界に召喚された。
中世ヨーロッパ風の街並みと風俗をした世界。
科学は未発達で、一部の血筋と特別に修練した者だけが魔法を使える。
もちろん、戸惑いはしたが、〈転生もの〉の主人公が大抵そうなように、現実と受け止める以外に選択肢はなかった。
なぜ、自分が召喚されたのかは、わからない。
しかし、彼らが〈聖女〉を召喚した目的は明確だった。
ゼノン討伐。
この世界の安寧を脅かす災厄、ゼノンの討伐である。
優しい風貌をした老神官が召喚の理由を説明してくれた。
「ゼノンを倒せるのは、異世界から召喚した〈聖女〉だけなのです。」
ゼノンには、剣も矢もききません。
ゼノンの前では、全ての矢はとまり、剣技を鍛えた騎士たちもかすり傷ひとつ負わせることができません。
騎士の剣は、絶対にゼノンに届くことがありません。騎士が間合いを詰めに動いた瞬間、ゼノンは同時に後ろへ身をひいてしまいます。剣がゼノンのいた場所に届いたときには、ゼノンは剣が動くその一瞬の間にその場所からわずかに移動してしまっています。一瞬の間に、一瞬分だけ移動し、剣をかわしてしまうのです。一瞬に一瞬分だけもとの場所から動いてしまうのです。決して剣は届かず、どんなに鍛錬した騎士でさえも、やがて、力尽きてしまうのです。
ゼノンに触れる矢は、止まっています。止まってしまうのではなく、その一瞬、とまっているのです。一瞬、一瞬に切りとられた矢は止まっています。止まっている矢は刺さることなどありません。ただでさえ鎧のような筋肉をまとっているゼノンの身体に、止まった矢がかなうわけがありません。その一瞬、矢は止まっているのですからゼノンは払うことすらありません。
複数の同時攻撃には、ゼノンは、手っ取り早く自分と敵との間に無限の中間点を作り出します。敵と10メートルの距離があるとすれば5メートルのところに。敵が5メートルのところにくれば2.5メートルのところに。2.5メートルのところにくれば…。それがどれ程近くなろうと、ミリ単位、マイクロメートル単位、ナノ単位、ピコ単位…。無限に距離を刻んで中間点をつくるのです。ゼノンとの間には無限に中間点が存在し、私たちには奴にたどり着くことができないのです。どんなに近づこうとも中間は無限に存在するのですから。
奴が足元から展開する〈無限魔法陣〉の中では、どれほど卓越した剣技も、弓の技も、意味をなさないのです。
ゼノンを崇める魔物たちは、共和国内の村や街をいたずらに破壊しながら、無法の限りを尽くして神殿のある古都にゆっくりと迫った。
――決戦は、夏至の日であった。
(いけるぞ! いける!)
騎士の誰もがそう思った。
闘志が足もとからマグマのように湧きあがってくるのを感じた。
体中の血管を、勇気が、希望が、激流になって駆け巡る。
(届く! 届く! 届くぞ! オレの剣が届く!)
これまで、どれほど鍛錬しようが虚しく空を切るばかりだった剣が、魔物たちに届く。
(当たる! 当たるわ! ワタシの矢が! 魔物に!)
少しでも強い弓を絞れるように鍛錬した。しかし、これまで、どんなに強く射ようが、矢はいやらしく嘲笑する魔物の前で止まってしまっていた。それが、今は、貫く。
これまでどれほど犠牲を払って鍛錬しただろうか?
それなのに、一寸の傷さえ奴らに負わせることはできなかった。
その耐えがたい屈辱を耐える歯ぎしりで奥歯が割れる思いをしてきた。
それが今は、どうだ!
騎士たちは疾風となって魔物軍をなぎ倒し、矢の雨は容赦なく奴らに降り注いでいた。
〈聖女〉の放った結界が、すさまじい風圧となってゼノンの軍を吹き飛ばしていく。膨張する結界の波動の後ろから、騎士たちが残った魔物たちを切り捨てていく。
焼けた荒野を埋め尽くしていた夥しい数の魔物たちは、総崩れに後退していった。
ついにゼノンを視界に捉えた。
自身の両脇を、雪崩れるように退いていく魔物たちにかまうことのなく仁王立ちしていた。
矢の滝が、咆哮する竜のように襲い掛かった。
しかし、止まる。―
「小癪。」
ゼノンが両目を見開き、後方の〈聖女〉をにらみつけた。
ズンと太い右足を踏み込むと、〈無限魔方陣〉が地鳴りを立てて地面を割いた。
〈無限魔法陣〉と〈聖女の結界〉が衝突した。
「クッ、小癪。」
「今日で終わりです。ゼノン。」
〈聖女の結界〉がゼノンの魔法陣を圧倒した。
「無限なんて、最初から間違っているのです。矢は飛んでいるし、アキレスは一跨ぎで亀を追い抜きます。そこから始めないとダメなのです。ファクトを無視した無限遊びは、今日で終わりにしましょう。ゼノン。」
ゼノンの左肩に、一本の矢が突き刺さり、巨体が揺れた。
「時間にも空間にも、それ以上、分解できない最小単位があるのです。時間はプランク時間より短く分解することはできません。そのプランク時間の間に矢は移動します。だから、矢は飛ぶのです。というより、矢は事実、飛ぶのだから、そこから考えればプランク時間が存在するのです。空間を占める大きさの最小単位は素粒子です。素粒子は、陽子と中性子を構成し、陽子と中性子が原子核を形作ります。素粒子の直径より短い長さはありません。その長さの間をアキレスは進むのです。亀よりずっと早く。」
騎士団長の剣が、ゼノンの厚い胸筋に一筋の紅い線を引いた。鮮血が吹く。
巨体が右膝をついた。
「ムーアの法則も、この限界には勝てません。半導体回路を小さくするには限界があるし、計算速度にも限界はあるのです。時間を無限に刻むことはできません。」
その時、消えかかっていたゼノンの魔法陣が、わずかに妖気を取り戻すのがわかった。
ゼノンがむっくりと身体を起こしながら不敵に笑みをこぼした。
「ハハ。ムハハ。聖女よ。ならば問おう。生命とはなんだ? お前の言うように、物質をとことん分解した果てが素粒子というものだとするなら、我も、お前も、この小うるさい騎士どもも、」
ゼノンは、襲い掛かかる騎士たちの剣と矢を、大剣ではじき返しながら言った。
「皆、臓器に分解され、細胞に分解されてしまう。そして、その細胞は所詮、素粒子の集まりだと言うなら、生命とはどこから来る? 」
額を貫こうとする寸前の矢を、ゼノンは、ガシリ、と攫んだ。
「例えばこの矢だ。この矢も、究極に分解すれば、素粒子だな? では、我々と何が違う?」
ゼノンはつかんだ矢を聖女に向かって投げつけた。
「分解しきってしまえば、同じになってしまうではないか⁉ だとすれば、生命となんだ!」
矢は、一瞬、一瞬、不連続に軌道を変え、〈聖女〉への空間を切り裂いた。
しかし、〈聖女の結界〉がドクンと波動して、矢は弾かれた。
ゼノンが唖然とし、一拍の間、ひるんだように見えた。
「フン。素粒子そのものに既に生命があるとでもいうのかね? 全ての物質には生命が宿るとでも言いくるめるつもりか?」
「追い詰められたゼノンは、我々のような、この世界の者には決して逃れられない無限の矛盾を展開するでしょう。異世界から招いた貴方しか反駁しえない〈無限矛盾〉を。」
〈召喚〉の理由を説明した神官は言っていた。
それは、この世界では、あくまで彼女は余所者、ということでもある。
役割だけがあって、居場所ではないのだ。
それでも、ゼノン討伐に向けた準備の数カ月、血の滲む訓練に明け暮れる決死の騎士たちとの間に、目的をひとつにする者同士の気持ちが育った。
彼、彼女らの方もそうであったと思いたい。
訓練の汗を拭った夕べに、〈聖女〉という神聖の垣根を越えて思わず笑みを交わしたこともあった。
「ゼノンを打ち果たした後、わたしはどうなるのでしょうか?」
神官が、少し申し訳なさそうに答えたのが思い出される。
「もといらした世界の、もといらした時、もといらした場所へ。」
ということは、あの倒木の下に戻るのだ。
彼女は瞑目して、ゼノンに言った。
「いいえ。ひとつひとつの素粒子に生命が宿るなんてことは言いません。生命とはネットワークの濃度です。素粒子は引かれあって原子に、原子同士がくっついて物質になっていきます。気体、液体、個体。細胞、植物、動物。イメージできるでしょう? この皮膚と空気も、突き詰めれば素粒子です。触れることのできる皮膚、感じられる大気、それぞれは素粒子のネットワークの濃度に違いがあります。皮膚の側は濃いネットワーク、気体の側は、ゆるやかなネットワークです。さあ、あなたもイメージできてしまったはずです。生命とは宇宙全体のネットワークそのものなのです。濃度が次第に魂を生むのですよ。ゼノン。」
〈聖女〉は森に還る自身のイメージを一度、強烈に集約して、解放した。
〈聖女の結界〉が急速に膨張してゼノンを、その軍隊もろとも吞み込んでから、一気に収縮した。
後頭部に湿った地面を感じる。空には満点の星だ。
できればこのまま棺などには納められず、朽ちて森の菌根ネットワークに吞まれてしまいたい。
自分というネットワークの濃度が薄まり、森の濃度と混ざっていくのをイメージして目を閉じた。
―了―