
連載小説『私の 母の 物語』二十三(95)
家に甘い物があるときはたいてい暇をみては茶を点てる。甘い物は糖尿病の母にはよくないのは解ってはいるが、母を喜ばせられることが他にないので、父もわたしもデパートやスーパーに行くとついつい甘い物を買ってきてしまう。それらは冷蔵庫の隅や水屋の棚の奥に隠しておいて、茶を点てるたびごとに小出しにする。目につくところに置いておくと母があるだけ食べてしまう。この点は少々厄介だった。しかし、今の母の日常の楽しみが他にないことを考えると、制限してばかりではかわいそうだ。だから、抹茶のときの甘い物は少し大目に見ることにしていた。
三人で茶を飲むときには種類の違う菓子があればまず母が好きなものを選ぶのがわが家の流儀だ。母はたいてい見た目の大きな菓子をとる。
「大きい葛籠を選んだおばあさんは中からお化けやら蛇やら出てきたんやで」
母が羊羹でも何でもいつも大きなものをとるたび、父とわたしは舌切り雀の強欲ばあさんの話をしてからかう。四つとか七つとか三人で平等に分けて数が余るようなとき、母で目ですばやく勘定して(こういうときの計算は驚くほど速い)
「おかちゃん、いくつ食べられるんよ?」
と尋ねる。
「おとちゃんとぼくは二つずつ、おかちゃんは三つ」
と云うと、母はすっと右手をあげて父に勝ち誇ったようにVサインを出した。指が充分に伸びないので指先が少しお辞儀している。
ときには二階のベランダで日向ぼっこをしながら、あるいはバスケットにお湯を入れた水筒や抹茶茶碗などを仕込んで公園などに出かけていって茣蓙の上で茶を飲む。
あるとき茶の師匠からの電話に父が出たとき、母の容態を聞かれた父は、わたしがときどき母はに茶を点てていることを話したらしい。
「おかあさん、幸せやな・・・・・・」
師匠はこう云ってくれたが、母が幸せかどうかわたしにはなんとも云えない。四捨五入すれば五十という歳になって口を糊することも出来ない息子はどう見ても親孝行とは云えまい。離れていても、茶など点てなくても、社会人として自立して、家庭をもち、子どもを育てている息子をもつ母親のほうがやはり幸せということになるのではないか。
(では、野口英世の母親は幸せだったのだろうか? 『はやくきてくたされ、はやくきてくたされ』という手紙・・・。英世の母は息子が世界的な学者になるより、平凡でもずっと傍で暮らしてくれることを願っていたのではないか・・・・・・)
今のところわたしには術がないから、野口英世の母親のことなど引き合いに出して言い訳にするよりほかない。
今のわたしの有り様では、母が生きている間に世間の母親並みの幸せを感じさせてやることは出来ないかもしれない。一方、茶道に関しても、三十年近く続けて得た許状も、茶会のために買い込んだ茶道具も、茶道で身につけた挙措や師匠から伝えられた知恵も、終に活かすことの出来ないまま終わってしまうかもしれない。
それでもわたしは茶をやっていたことは幸いだったと思う。これが唯一いま母を喜ばせることの出来るものなのだから。(続く)