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⑧ババウ(イタリア文学)


「ババウ」

「いい子にしてないと、オバケが来るぞ」

駄々を捏ねるガキンチョに放つ言葉は文化が異なっても共通のようです。
イタリアでこのオバケに当たる言葉がババウ(babau)となります。

今回はそんないるのかいないのかわからない存在をテーマにしたブッツァーティ作『ババウ』(「ババウ」ほか25作の短編集)について書いていきます。

表紙の絵はブッツァーティ本人が描いたもので、空飛ぶクジラのような生き物としてババウが描写されていますね。
作中ではババウは現れる街や夢によって姿を変えるものとされ、この物語の舞台となる街では「カバとバクの合いの子のよう」な姿を持って出現しました。

「いい子にしてないと、ババウが来るぞ」

こうした躾の言葉を「未熟な精神に深刻なトラウマを生じさせかねない馬鹿げた迷信」だとしてベビーシッターに苦言を呈していたパウディ氏の夢の中にもババウが登場し、冷や汗でびっしょりの状態で目覚めました。
そして冷笑されることを承知の上で市議会にてババウについて持ちかけてみると、思いのほか真剣な議論がなされます。そのままにしておくべし、という主張とともにその反対、排除すべしという主張も湧き上がってきました。

いわゆる進歩のためには最後に残された神秘の砦を破壊することもやむなし、とする主張が相次いだ。ババウが幼いこころに不健全な影響を残すことや、正統な教育学の原則に反する悪夢を呼び起こす場合があることが非難された。衛生上の問題も議論の俎上に載せられた。たしかに、夜の巨獣は町を汚すこともなければ、いかなる種類の排せつ物を撒き散らすこともなかった。だが、細菌やウイルスをまったく持っていないと誰が保証できるだろう?

『ババウ』、10頁。

このように排除の議論が進んでいくことは現実の市井でもよくある話です。「進歩のため」「念のため」そういった言葉で行きすぎた排除が行われてしまうケースは誰しも身に覚えがあるかと思います。

もちろん慎重な対処が功を奏することもたくさんあるので何ともいえませんが、今回のババウの排除についてはどちらかというと非難の姿勢で語られています。

排除しようにもババウのようなの不思議生物に人間が関与できるかわからないという考えも人々をとりあえず試してみようという気にさせた原因でしょうか。ともかく、警察の警備のもと、軽機関銃で迎撃することになりました。

Xデーの夜、ふわふわと姿を現したババウに一斉射撃が降り注ぎました。その結果ババウはひっくり返って血を流し、みるみる萎んで消えてしまいました。

表紙の絵の4コマ目、ひっくり返ったババウと銃を持ってうなだれる人々が描かれていますが、ここにはイタリア語で以下のように書かれています。(短編の本文とは異なる記述です)

Cretini gli hanno dato la caccia, poi
愚かものどもが彼を狩ろうとした。そして、
Dio Dio mio, che cosa abbiamo fatto!
おお神よ、我々は何ということをしてしまったのか!

そしてこの「ババウ」という短編は以下の一文で締め括られています。

駆けろ、逃げろ、駆けるのだ、生き残りし幻想よ。お前を絶滅させたがっている文明社会はお前を追い立てて、もう二度と安らぎを与えないだろうから。

『ババウ』、13頁。

とても示唆的な寓話ですね。いったん『ババウ』からもう一つ短編をピックアップして紹介します。

「現代の怪物たち」

同じく『ババウ』に収められている短編の一つに「現代の怪物たち」があります。

かつて、スフィンクスや、ヒッポグリフ、エキドナ、カリュードンの猪、トリトン、ババウ、ガット・マンモーネ、バジリスクなどが存在した。だが、今はもう存在しない。とはいえ今日でも、ときとして非常に奇妙で不可思議な現象に出くわすことがある。たとえば…

『ババウ』、120頁。

このような前置きのあと、両手に拳銃を持った「巨大なノウサギ」、何につけても重要とみなされる工場の「ボス」などUMAのようなものから合理的に説明できそうな不思議現象まで羅列されていきます。

その中でも作者ブッツァーティの鋭敏な観察眼が発揮されていると僕が感じるのは「社会を愛するもの」です。

「社会を愛するもの」たる彼は才能や地位に恵まれ、精神的にも成熟した好青年です。その博愛精神の強さは社会的に強い立場=搾取側という自覚のためにこの世の不正に苦しむ人々=どこかのだれかを思って心を傷めるほどです。

彼が愛するのは、顔のない、集合的な群衆であり、彼が憎むのは、ちゃんと名前のある特定の人間たち、彼に言わせれば、自覚があろうがなかろうが、前述の不正の共犯者だ。

『ババウ』、123頁。

彼は社会的に高い地位にいるために、その周囲の人々も同じような地位の人々です。つまり、「不正の共犯者」たちです。

この徳が高く博愛精神に満ちた男をブッツァーティが提供するレンズを通してみるとどうなるのでしょうか。

漠然とした対象への愛と周囲の人々への憎悪という構図はこの作中で「邪悪」と称されます。神を愛して身近にいる魔女を狩っていた中世の人々と似たようなものでしょうか。
憎悪を心に留めるか否かというところに大きな溝はありますが。

マクロな目線では博愛主義者でもミクロな視点では周囲に対する憎しみを撒き散らす存在であるという矛盾を「現代の怪物」の中に数える感性は考えさせられるものがあります。

驚異の時代と子供時代

「現代の怪物」の序文ではスフィンクスなどの怪物について「かつて存在したが今は存在しない」と語られています。ここで注目したいは「かつて信じられていたが今は信じられていない」ではなく、かつて「存在した」ということです。
「ババウ」はその怪物が消えていく過程を描いたものであると言えるでしょう。

見出しの「驚異の時代」というのは中世までのヨーロッパに対して使われることの多い言葉で、「驚異」、つまり得体の知れない怪物や異常現象が当然のものとして恐れられていた時代を指します。
「驚異」はババウのお話でいうところの「幻想」と同一視しても差し支えないと思います。

現代は驚異の時代ではないので当然その過渡期があるのですが、驚異や幻想を克服していくことが文明化であるとババウの末尾一文で語られていました。

例えば12世紀ごろの「聖ゲオルギウスの龍退治」(黄金伝説などとして語られているやつ)は森の開墾のイメージと考えられています。
鬱蒼としていて野盗や猪、荊など暗闇から何が出てくるかわからない森の危険が森に住まう「竜」です。つまり「竜が出るから森に入ってはいけないよ」ということですね。それを退治することで森を切り開くことを表しています。

ゲオルギウスと竜の潜む森の絵
伊藤進、『森と悪魔 中世・ルネサンスの闇の系譜学』、2022年、岩波書店、2頁。

ではババウもこのような人類にとっての危険の象徴であり、それを打ち倒したということでしょうか。ブッツァーティの描く「文明によるババウ殺し」はこうした文明の進歩による脅威の克服とは少し異なるように感じます。

リリアン・スミスという人物は『児童文学論』にて以下のように論じています。

かれら(子どもたち)の心のなかには想像ゆたかなものや劇的なものにひかれる本能があって、それを自覚しないまでも、ほしいものには手をのばすのである。(中略)この天性は、昔、人類がその幼少期にもっていたように、いまも子どもたちに具わっている。自意識がほんの少しでも鋭くなりはじめる前の子ども時代は、驚異の時代である。

リリアン・H・スミス、『児童文学論』、岩波書店、23頁。

例えば大人はファンタジー小説をファンタジーと割り切った上で読みますが、子供が児童文学を読むときは、それが現実に起こりうるものとして想像しながら読むのです。

以前紹介した『古森のひみつ』でも子どもには妖精や鳥、風の姿を見て声を聞くことができても大人になる全て忘れてしまうという内容が描かれていました。

「いい子にしてないと、ババウが来るぞ」

この言葉が意味を持つということは、子どもたちにとってババウは存在するということです。そして各々の豊かな想像力で多様なババウの姿を思い描くのです。

僕が考えるに、このババウ殺しとは「文明による人類の脅威(驚異)の排除が暴走し、大人たちがその猜疑心のあまりに子どもたちの豊かな想像力を殺してしまった」ということになるのかと思います。
日本の卑近な例に落とし込むなら、「トトロがいた」と言われて「そんな大きな怪物は危険だから駆除せねば」と大人が動いてしまうようなものでしょうか。寂しいことですね。

おわり

今回は特に「ババウ」については物語の顛末をほとんどネタバレしてしまいましたが、『ババウ』には他にも二十以上の面白い短編が収録されているので是非読んでみてほしいです。

今回取り上げたもの以外で個人的に好みだったのは「同じこと」と「交通事故」です。どちらも「ババウ」とは毛色の異なる短編です。

みなさんは子どもの時にだけ訪れる不思議な出会いはありましたでしょうか。

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