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【日本史】江戸時代の吉原遊廓には、僧侶も通っていた!?

やっほー瑠奈です。

現在24歳。
大学院を修了しているため、社会人一年目の年ですが新卒3ヵ月で退職しました~~。


大学院では「江戸時代における吉原遊女の心中」を研究しておりました~~。

一応自己紹介も入れておこうと思います。笑

そして今回は日本史シリーズ。
タイトルの通りですが。。。

僧侶って遊廓に遊びに行ってもいいの!?って疑問に思ったことはありますか?

今回は僧侶の登楼事情について簡単にご紹介します!


僧侶は妻帯禁止

江戸時代、僧侶は妻帯を禁じられていた。
妻や妾を持ってはならず、遊興するなどもってのほかであった。
(また、食肉も禁じられていましたが、食肉妻帯が当たり前であった浄土真宗は規制対象外だったとか。)

女性と性的関係を持った出家者は、
女犯(にょぼん)として罰せられた。
寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された。


とはいえ、当時の寺院の多くは風紀が乱れており、僧侶が遊里で遊ぶことは、珍しいものではなかったのである。

では、僧侶はどのようにして遊里へ足を運んだのか。


遊里へ行く僧侶

僧侶が身に着ける黒色をの衣を「墨染めの衣」とも言うが、墨染めの衣では吉原に出入りはできない。

そこで、僧侶は剃髪した者が多い医者を装って、吉原へ登楼したのだ。

頭には頭巾をかぶり、羽織を着て、腰には脇差を差した。

山東京伝『客衆肝照子』(米山堂、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション

上記の絵は、医者の装いをしてやってきた僧侶です。

ただ外見を医者に化けさせるという、結構古典的な方法を使って遊興していたようです。笑

このようにして、僧侶は登楼したわけですが、もちろん処罰されました。


晒された僧侶

1796年(寛政8)町奉行坂部能登守の命により、町奉行所の役人が吉原や各地の岡場所などに張り込み、朝帰りをする僧侶を一斉検挙した。


検挙されたのは17歳から60歳までの67名。宗派は日蓮宗、浄土宗、真言宗、天台宗などほぼすべての宗派に渡っており、8月16日から3日間、日本橋で晒された。

また、1824年(文政7)にも、内藤新宿にて女郎買いをしたことが発覚した僧侶6名が、8月27日から3日間、日本橋で晒されている[1]。

藤田新太郎『徳川幕府刑事図譜』(神戸直吉、明26年) 国立国会図書館デジタルコレクション

上記の絵は、女犯僧が日本橋の晒し場で、晒されている様子である。

1796年(寛政8)の一斉検挙では、約70名がこの状態で晒されたわけです。
この状態の僧侶が、約70名も日本橋に居たら、何事かと思いますよね。
しかも3日間。。。厳しい。。。


僧侶における色道は奥が深く、
まだまだ語りたいですが、今回はこの辺にしておきましょう。

禁止されるとかえってやりたくなるのは、人間の性なのでしょうか。
だからこそロマンと切なさがあるのかしらね。

吉原遊廓というところは、思念の坩堝であります。。。



[1]国書刊行会『近世風俗見聞集 第3』(国書刊行会、大正1-2年)

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母がバツ2の女子大学院生。瑠奈
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