古典を学ぶ意義と文法学習の課題
古典の授業を予習しているなかで、だんだんと(ようやく)その意義が見えてきた。大事なのは「教材から何を導くか」だ。それが学習目標に繋がるが、一方で文法学習の課題も見えてきた。
そもそもなぜこうして書いてみようと思ったかというと、別の高校に通うある生徒の話を聞いたから。少し古典の面白さを伝えると…
「そんなの知らなかった。学校では書き下し文と全訳、品詞分解と活用ばかりでつまらない」と。
確かに高校時代は私もそうだった。古典は好きになれなかった。でもそれだと、「主体的に読むこと」も「思考」も進まない。
これではいけない。そう思って、本を読んだり授業の予習をしたりする中で、その面白さにどっぷり浸かるようになった。
そもそも漢文は古代中国の世界。現代は当然とされている制度や習慣、思想が試行錯誤されながら徐々に確立していく。そのため、現代のルーツを見つめ直すにはとても面白い教材となる。
例えば「四面楚歌」。四字熟語で誰もが知る、漢文の代表的教材。何を学習目標に置くか。
「歌のもつ力について自分の考えをまとめる」とした。
(内容の説明はカットします)
歌は、士気を高めたり、チームワークを結束させたり、何かの象徴にもなったりする。
今や紅白歌合戦や応援歌、校歌など当たり前に存在しているが、四面楚歌の故事のなかで「歌」に着目してみると、その歌の力が引き出される元のストーリーを見ている様な気がしてくるのだ。
「劉邦は歌の力について考え直している」という文献も残っている。
そこで、授業では「歌のもつ力について自分の考えをまとめる」を第一の目標においた。
それを達成するために、文法学習がある。文法は手段だ。
よって、全文を書き下し文にすることはしなかった。必要な文法事項と語句をおさえて読解するスタイル。
古文も同様だ。
全て分かち書きをして、全ての動詞、助動詞の活用をとらえることはしない。
もちろん文法学習の内容を目標におき、文法に集中するときはあるが、読解をするときは基本的に全ての文法の把握は要求していない。
しかし、これが課題でもある。
本当にそれでいいのか自信を持てないのだ。様々な授業のノートを見ても、古文では全文の分かち書きは必須。
特に進学校では顕著である。確かに細かい出題もあるからね。
でも…目指すのは「生徒が主体的に取り組めて、教材から今の自分に繋がる何かを導ける授業」だ。
文法学習のリソウノカタチヲ模索中である。