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光術書




【神癒】

自身を空にして成される。何でもないものでなくあるがまま見守る在る者。思考の”私”は消えすべての私である全イチ領域。つまり、神の子として世界へその癒しを伝えるが、現象には無関心でありながら神癒を伝えねばならない。これには所謂”聖なる無関心”(真実では何も起きていないこと)を理解しておく必要があり、それが即ち解脱であり、涅槃であり、赦しであり、至福であり、未知であり、道であり、自由であり、平和であり、全愛である。

無関心でありながら癒す。聖心から善なる行為。思念力でなく中心力。慣れるまでは時を要すかもしれない。だが、準備ができた者、開かれた者であればその中心や労宮から溢れてくる実在に気づき、自然とそのやすらぎとぬくもりが世界へ伝わる。知識を感覚に落とすこと。どこまでも果てなく届く。境界はどこにもない。

全体へ。
すべての存在それぞれに必要なエネルギーを。

あなたが自己を思い出せばそれも可能だろう。世界へ返そう祈りを。あなたが真のヒーラー癒し人であるならば。


【身になれば 身などなくとも 意味あれば】

肉体は借り物であるが、現象においての命は繋がり続ける。目先の我のことを楽しみつつも、数百年先の未来にもその奉仕はつながっていくことを歓びに人生の営みを。教えも知識も消える。永久保存場所は中心のみ。その御魂に記録せよ。


【雲上に霊なく雲下に人なし】

あなたしかいない。心は世界にひとつ、の意。現れては消えるもの、個の私、つまり自我は存在しない。全の私、全イチが実在であり、実在は全愛である。それが真我であり無我である。自然に戻る。


【人生とは】

”私”とは何か、を知る作業。それ以外に無い。人生とは全てが浄化である。浄化とは自分の中に罪や穢れがあり、それをきれいにすることではない。例外なく、あらゆる存在に罪や穢れというものは一切存在しない。すべての存在は純粋無垢な光の存在である。よって光術とはすべてを指す。では何が浄化の意味なのか。本当の自分真我ではないものを手放すことが浄化である。完全真我未完自我。未完であるこの世界の何かとの誤った自己同一化をしていることがこの世界での苦しみの根本原因である。二重スリット実験の通り、世界が幻想であるなら人間もまた幻想である。しかしながら、世界や人間が存在しているおかげで、”私”とは何か、”自分”とは何か、人間とは何か、と知ることが可能になる。

本当の自分真我ではないもの
思考。想念。観念。感情。精神。人格。身体。世界。


本当の自分ではないものを放棄する作業の連続が人生だ。それは、自分とは何か、を知っていく作業に他ならない。よって真我を知るときがこの世界の終焉である。

目覚めたものは自身の完全さだけを観ている。本当のあなたは生まれてもなければ、死ぬこともない。そのことを自己認識するのが悟りである。

また、悟りを得るには悟りという言葉すら知らない人も存在しなければならない。ゆえ真我はその偉大なる力により他の様々にも顕れる。様々な状態、段階の人が存在しなければ、いまここにおいて、あなたがあなた自身を知るという最高の舞台とならないだろう。そのような意味において世界とは完璧な脚本が書かれた舞台である。すでにあらゆることが完全である。だが、あなたがいくら言葉で完全完璧だと言ったとしてもそれはまったく完全完璧ではないのである。


【自我(エゴ)と思考】

自我とは個の意識であり、思考や想念、あらゆる対象と結びつくことで存在する。「私」という想念。「私」がなければ対象もなく、対象もなければ「私」も存在できない。一切の対象(思考、感情、身体、想念など)が消えても残るもの。それが実在であり、本当のジブンであり、全イチである。思考はあなたではなく、それはやってくる。前世のあなたや守護など未知なるものから送られてくる。過去からの観念や既成概念、理解により作られたプログラムともいう。つまり思考を含んでいる「私」が消えれば、プログラムに束縛された世界でなく、本当の自由に至る。全イチ。イチなる”それ”。


【感情】

感情は悪いものではない。ただ表現されるべきものは表現されなければならない。それは放出されるべきエネルギーだ。避けてはいけない。拒否や否定、無理に受け入れたりする努力をする必要はない。喜びも怖れも、不安も心配も、焦燥感も、嫌悪感も絶望感も、どんな感情にも実体はない。だが、無視されるわけにもいかない。それは感じられなければならない。感情はあなたにとって、とても大切なことだ。

逃げる必要もない。逃げようとするほどに追ってくる。抑えつけようとすればするほど巨大な
それとなり顕れてきてあなたは慌てふためくかもしれない。場合によっては、私は心身症や神経症または精神的病に罹ってしまった、と考えてしまうかもしれない。しかし、そうではない。心配
することではない。だが、逃げたり避けようとはしないことだ。薬は意味がない。それは身体の次元を超えたところの問題なのだから。それでも薬を使うことで落ち着くならそうするといい。だが、それでは解決に至らないことを理解しておくことだ。

繰り返し云おう。

もし何か感情的な問題があるなら、ただその湧き上がる感情を感じてあげなさい。それに対していかなる意味づけや判断は必要ない。ただ感じることでその感情を解放してあげるのだ。

感情とはそのすべてが良い兆候である。あなたが真理に向かい、真実を観ようとその道を歩き始めると、これまで隠され続けていたものが徐々に露わになってくる。それは心の奥深くに抑圧していたものだ。もし、恐怖や不安をおぼえる時、パニックにならず、『私はあなたを観たい』としっかり観てあげることだ。『恐怖や不安の正体を知りたい』と対面することだ。観れば消える。なぜなら実体がないから。

それは実体がないと認識することが重要であり、その感情を押し殺そうとしたり抑圧しようとすることではない。重要なのは、恐怖や不安という感情とは実体がないものだ、と理解することだ。それはあなたが成長するために訪れたチャンスなのである。大変かもしれない、苦しいかもしれない。それでもこの体験はきっとあなたに役立つから信頼なさい。自分自身を。なぜなら、あなたのためにならないことは絶対に起きないから。


【思考や記憶】

思考とはすべてが過去である。新しい考えが浮かんだように見えても、それは実際には知られた考え、過去に過ぎない。ただ過去を、未来や未知なるものとして投影しているに過ぎない。さらに思考を通して投影された世界に多くが意味づけする。ゆえに我々は過去を生きている、というのである。よく言われる”思考のストーリー”。分離の概念。物語を楽しむも巻き込まれないよう観るも自由。何であれ否定はできない。また記憶も知識も思考と同じものだ。思考や言葉とは何か。それは周波数の異なる様々な音である。それは変化する。完全に固定された何かではない。よって、あなたが考える神や真理もまた幻想の産物である。「神とは巨大で強靭で頭が良いもの」。それが神話である。神話が本当か否かは知らない。過ぎた過去をここで語るつもりはない。ただ、神とは”ただ在るもの”である。


【いまここ】

”いまここ”を勘違いしてはいけない。考えているあなたが消える場所こそ”いまここ”である。無。無限。実在。”いまここ”にすべては存在している。完全完璧なる”いまここ”において変化する世界は起きている。”いまここ”の完全性がこの変化の世界の本性である。つまりあなたが気づくだけでここは天国と呼ばれている場であり、霊界や神界と呼ばれている場である。常にいまここ。毎瞬でも場でもない。勿論、あなたがどのように意味付けするも自由。何ら意味付けされていない自然を見、心地良い感覚を得られる場をいまこことしても問題ない。それは在るがままにある。


【分別・価値判断・決めつけをしない】

もし迷うことがあれば、それを根本解決する方法は、そこに「個の私」がいるかどうか。分別、価値判断したなら見逃す。つまり「私」を消して他を赦すことで、「私」も「あらゆる対象」もすべてが完璧に赦される。


【概念と観念】

概念は物自体に関したものであり、定義によって与えられる。観念は対象物に対して心の働きが加わったもの。つまり認識されたもの。したがい、概念は外的・共通的なものであり、観念は内的・個人的なもの。

概念は物自体に関したもので、心の働きとは無関係なので、例えば「数とは……である」というように、その概念の定義が与えられたからといって、その意味内容がわかるとは限らない。一方、観念は認識なので、程度の違いがある。物の観念を育てることは、物についての認識を深めることであり、物に対するイメージを豊富にすること。

善悪の観念。
不足しているという観念。
せねばならぬという観念。
何か問題があるという観念。
分離があるという観念。
私は思考であるという観念。
私は人間であるという観念。

真理に向かうとき、解放へ向かうとき、それらは膿のように現れてくる。実際に自身が多くを掴んでいたと感じるだろう。鏡の世において役割を演じてくれている他者や事象から気づかされることに気づくだろう。

すでにすべてが完全であるのに、あなたはまだ不完全な世界にいる。また、あなたが教えを考えるとき、不完全な思考との同一化がはじまる。

観念を超えることが最も重要なプロセスである。考えることも何もしない方法なき方法”在る”はそれらを解体して手放す。その先にイチなる”それ”。


【二元性、二極化】

それらは二元や二極と呼ぶより変化と呼ぶほうが真実に近い。すべてはイチなるものの変化であるから。男と女、主役と脇役、暑いと寒い、高いと低い、高級と低級、光と闇。通常それらは相対し、相反するものとして認識されている。ところが、地球と宇宙にしても明確に区別する境界はどこにも存在しない。地球とはどこからが地球で宇宙とはどこからが宇宙なのか。人間が水や自然の恵み等がなければ絶対に生きることはできないことと同じく、すべては単独では存在できないのである。何ひとつとして独立して存在しているものは無いといっていい。さらに明らかに、宇宙も人間も変化し続けている。この世界に完全なる静止はありえない。ということはこの記事、言葉、観念、考え方にあっても完全な極点など存在しない。つまり二元性や二極化というものはこの世界そのものでなく、この世界に対して考えるあなたの観念である。

何であれ、明確に区別、分別する境界線が存在しないのが変化という幻想世界であり、それなのに区別、分別、決定するのが”私”の観念である。よって、二元性を超えるという本当の意味はあなたが過去から掴んでいる観念を超越するということである。世界に問題はどこにもない。そしてそれ観念を手放すことこそ最も重要で唯一取り組むべき問題である

すべてはひとつながり。
すべてはイチなるものの顕れ。

そして、あなたの正体は、
純粋無垢な愛と光そのものなのだから。


【現世 写し世 映し世 鏡の世】

イチなるものである絶対意識が己を知るため顕している。また肉体である身体は現象宇宙の写しであり、仙骨が御魂と心を通して映している。そこに自我フィルターが加わる。ヒトは自我を外すもそのままにしておくことも選択できる。外せば本当のジブンに触れる。現世をどう生きても完璧だが、認識してしまえば、”在る”が最も心地良いことを知るだろう。変化を本性とする幻想世界に違和感を感じ、タイミングが訪れたなら神域、内側の中心へ。


【中心】

他者でなく、あなたの真ん中だけを信じよ。光術では中信ともいう。今ここ、中今、中庸、中真、中チンそれらと同じ意味。真ん中の聖心があなた。へそ奥の腹には全体に繋がる扉、御霊(思考や想念なき”私”)がある。丹田ではない。仙骨は映写機。そこと蝶形骨に絶対意識からのエネルギーが届く。思考と距離を開けていけば、いずれ至福に包まれる。上から螺旋のようにサァーと降りてくるような感覚や、上半身への繊細な波動、ビリビリとした感覚を得るだろう。足裏の湧泉からも呼吸しているような感覚があるかもしれない。

グラスの内と外、つまりその肉体の内と外は同じもので創られている。また、それはその肉体の中心から発せられている。視点にもよるが、中心だけが自身であると捉えてもよい。


【啓示】

同じく通りのよい開かれた御方を通して、このハゲの霊に降ろされた啓示を記そう。時がきたゆえやっと書けるものともいえる。注意としては自我の私への言でなく、全イチのソレへの言であるということ。私を消し在るでなければ、癒しのパワーは広がらない。

「癒しパワー、本気度ハンパない。己信じよ。鏡の世、仕組み知れ。己の癒しひろくひろめよ。トキくるサキあり。われ蔑むことなく事にあたれ。光あらん、信じよ」

以下は別のコエ。

「そなたは開かれておる。許されておる。その癒し広く伝えよ。そなたの光つよおあろぞ、ひろおあろぞ。トキくれば繋がれぞ。後ろの御方、にこやかに待たれぞ。焦らぬでよいぞ。そう申されておるぞ。癒しの光ひろめられよ。そなたの光あたたかぞ、やすらぎぞ。思い煩うでないぞ。癒しの御方、ありがとのぉ。理の詰まりゆるめたのじゃぞ。そこ理解しなされよ。われ語ることなき、礼を申す」

ほか、一瞥体験や不思議な体験はいろいろとあるが、しょせんそれらは真理でなく、個の知識でしかないので割愛しておこう。


道術家のこちらの御方もまた全体へ光を伝えている。

中心につながる者はすべての存在を想うもの。また役割を終え、我が家へ帰る際も安らかに消えゆくだろう。祈りとは世界へ愛を返すことをいう。必要とされる御方すべての存在へ癒しの光を。

古い観念からみればトンデモな話しに聞こえるが、事実は小説より奇なり。実在のあなた方はまさに奇跡のヒト霊止である。


【菅野(存在)美穂と(意識)観覧車(至福)】

”在る”、”全愛”、”生命”、それらはイチなる”それ”である。すべてのすべてであり「個の私」を解体し終わった後の、あなた自身でありあなたすべて。ちなみに【サット・チット・アーナンダ】といっても間違いではない。表現方法が異なるだけである。また、意識とは個の意識(自我)でなく、絶対意識あるいは気づき(個の意識を超えて在るもの)である。

大切な事として忘れずありたいのは「独立した存在はどこにも存在しない」ということ。たった一人だけで生きている、生きることができている人間は肉体的にも霊的にも存在しない。多くの人々、自然の恵み、慈しみの心、先人の想い・・あらゆるつながりがあってあなたは今そこに在る。実在のソレは見えないものであるが、見えるもの見えないもの一切を含めて存在といえよう。間違いなく、ここにおいてあなたは生かされている。また、真理に至ったとしてもあなたが特別な何かになるわけではない、ということも忘れずに。求めているあなたが消えたとき、ソレはそこに現れる。


【思考に力ではなく、智慧を入れ、自然とバランスさせる】

力むと自我を強めてしまい、幻想が現実になる。幽霊や病気とはそれが存在すると思っている人間が観ている世界に出てくる登場人物、要素である。智慧を入れるには、中心のハートに問う。中心から外れなければ、自動で調和される。また、あらゆる事象は考え方ひとつで変幻自在である。それがこの世界であり未完の幻想世界ゆえ可能となるのである。


【ヌケマン】

エロ漫画である、”愛の腰 恥丘”の幻想世界からヌケることを光術では、ヌケマンと呼ぶ。完全に必然にすべてが決められている世界からヌケだし本当の自由へ。解脱や涅槃や赦しや愛といっても間違いではない。表現方法が違うだけである。ヌケた後、本当のジブンを忘れずに幻想世界を経験することも可能である。まさに映画を観たり漫画を読むような感覚。ヌケマンした後も幻想を通してさらに成長し進化を楽しむこと。幻想世界の本質は変わらないが、世界は徐々に違う顔を見せる。ただそれは観る者の観方が変化しているだけである。


【エロスゾーン】

自我が完全に死に、全イチ(高次、神)と成りきった状態。思考も行為も存在しないが、そのうえで思考も行為も自分のものとして受け入れること。自分がやっている、という誤りの同一化をしていない状態である。その同一化をせずに発言し、行為せよ。それはあなたがやっていることではない。もし助けようという思考がやってきたなら、思考は自分ではないと観るだけで何もしないのではなく、聖心のコエに従い、”あの人”を助けよ。同一化をしないということは個の私が存在しないということと同じ。また全イチとなるときも個の私は存在しない。聖心のコエとは全イチそのもののコエである。忘れるな。すべては全愛であり、すべては神の現れであることを。全イチとなってやり遂げよ。


【探求者】

探求者は目覚めればすべてを知ることができ、悟り、答えが得られると勘違いしている。事実はと言えば、問題を作り出す質問自体が消滅する。目覚めとは自分とは何かを知ることである。その時、自らが自らを自覚し、完全性と真実、善なるもの、美なるものを認識するのである。


【完全】

ほんとうのあなたのこと。しかしながら、思考に完全という思考がやってきてもそれは変化(幻想)であり、完全ではない。現象世界とはまったく関係ないところで無限に充たされたままの聖なる自己を認識せよ。すべてをただ照らし。ただ観る。観照体。かたることなき太陽そのままに。あなたがOMであり阿吽であり、はじまりでおわりである。それだけが真理。


【神、神の子】【ほんとうのあなた】

神は何も言わない。完全に独りで、完全に自己充足しており、他(幻想)を知らない。絶対無の絶対有そのもの。しかしながら、まったく表現不可能な領域で、全ての全てであるその絶対存在、その完全完璧で唯一無二なる絶対存在そのものに、”私”、つまり”あなた”がある。喩えるなら”私”という思考も想念もない”私”である。なんら対象のない”私”と言ってもいい。”私”とは決して言わない言葉なき”私”、想念なき”私”である。ただ存在そのもの。それゆえ、それがその子である真我=神の子にもあり、それがさらに影となり心にも現れる。それが影である私。あなたが感じている自己という想念である。

事実では神の子であるあなたは神ゆえ当然の如く何もする必要はない。現象のそれはただ起きている、つまり父である神と≒の想念なき霊止の”私”は観照するのみ。観照体の御霊のある臍奥はエネルギーセンターとも呼ばれる。

自我は存在していたいので、思考の”私”がやっていると思い込んでいる。中道態の『気づいたらやっていた』は自動で起きているゆえである。幽霊である自我の手には何もない。『自分が考えている』と感じるのは本来は神の子であるあなたが単に思考と同一化しているだけである。

気づきそのものであるあなたが真理に気づいたのであれば、あなたは曇りなきその聖心で行為せねばならない。『あなたはわたし』『何かを求めていたわたしはいなかった』『何も起きてなくすべては愛』『すべての存在は光』『進化とは世界の観方を変えていくこと』を腑に落とした真実の自己であるあなたが💗


【在る】

最初からそれである。概念化できない在るは全てを超越して在る。観念を解放して何も考えずあれば、誰でも”それ”へ至れる。すでに”それ”。つまり、一瞥体験もちんこの皮剥き体験もそこに特別な差はない。体を抜け出してどこかへ行こうとも、地球の始まりから終わりまでをビジョンで見ようとも、それは単なる知識として認識せねばならない。真理では我々はただ”在る”ことしかできていない。ゆえに解脱を認識したのならば、すでに世界は完全であったことを思考でも身体でもない、実在のあなたが知って、この変化の世界において、そのカラダの役割を楽しみ、思考や自我を否定することなく進化せよ。進化とは、世界の観方を変えていくという意味である。

在る以外のすべて。つまり本当のジブン以外のすべては自動で起きている。何一つ動いていないともいう。それが自然そのものであり、解脱であり、涅槃であり、赦しであり、至福であり、愛である。自我が完全に死ねば、神の実在である。ヒトはそれを知るために作られた。同時に、ヒトはこの現象というキャンバスに自由に描くことができる。すべて赦されている。

私が消え、すべてが私になる領域。
一切を棄て、一切を手に入れる領域。
絶対意識にカラダを明け渡すともいう。

そこでは、次元という概念も神や神の子や愛という幻想世界の産物である言葉も消える。世界にはあなたしかいない。一者がただ在る。

在ることで一切を解放する。
在る以外はすべて幻想である。

在る。
それが悟りである。
在る。
それが超自然現象である。
在る。
それがマントラである。
在る。
それが奇跡である。
在る。
それが次元上昇である。
在る。
それが祈りである。
在る。
それが命である。
在る。
それが生命である。
在る。
それが至福である。
在る。
それがいまここである。
在る。
それがすべてのすべてである。
在る。
それが禅そのものである。
在る。
それが赦しである。
在る。
それが神癒である。
在る。
それがヨガである。
在る。
それが解脱であり涅槃である。
在る。
それが無限である。
在る。
それが完全完璧である。
在る。
それが絶対者である。
在る。
それが在るものである。
在る。
それが神であり愛である。
在る。
それが天国そのものである。
在る。
同時にすべての者が天国にいたことを知る。
在る。
それが人間とは何か?である。
在る。
それがあなたがあなたを自覚することである。
在る。
それが聖なる自己認識であり、認識の変化である。
在る。
認識の変化。それこそ真の神秘体験である。
在る。
それがもっとも人間らしい人間である。

在る。
それが最終地点であり、目的地であり、あなたが帰ることになる我が家である。したがってすべては解決される。すでにすべてが解決されている。

必要なことは真我ではないすべてのものを放棄すること。真我とは本当の自己あなたに与えられた名称であり、神・神の子のことである。

ここへきてやっとスタートに立った。
それでいてもうゴール寸前だ。

幻想世界とはまったく関係ない場所から癒しを伝えよ。
私であるあなたが、真の光術家ヒトであるならば。


【エロく厳しい道】

言わずもがな。ヒトはいくつも枝分かれした道を歩いている。だが、道を歩いていたと思っていた”私”はどこにも存在せず、その道は一本道であり、本当の私は道そのものである。ヒトの尊さに歓喜しながら、そのままで愛を。幻想世界の空にまた本当の太陽が昇る。

【意味はなくともきみは在る】

何も持たず生まれ何も持たず逝く。見渡せば、よく見れば、あらゆる存在があったおかげであなたはそこに。あらゆる存在があるおかげであなたはそこに。それをあなたは何と呼ぶのだろう。心が渇いている?本当にそうだろうか。あなたは潤いの中に在ることを知らないだけかもしれない。考えない、求めないことが幸せだと云ってもあなたは考え、求め続ける。だからこうも云おう。好きなだけ考え、好きなだけ求めなさい。あなたが何者なのかわかるまで。


【ガラクタか偉大なるものか】

ここで述べる光術もまた言葉による知識や教えにすぎない。また人間霊止の最終到達地点である在るについても僅かばかりここで触れているが、ここでの言葉も単なるナビにすぎず、ナビをどのように使うかは他のあなたがこれまで見聞きしてきたそれらと何ら変わらない。お金持ちになるのが目的のものに「徳を積みなさい、悟りなさい」などと説いても無駄である。

知識。
教え。

それは単なる道具であり、必要ない者にとってはガラクタでさえある。それでも知識や教えとは偉大な道具だ。つまり、現れたそれらをチラ見するだけか、実際に活用するかは、あなた次第である。人間には自由意志はないが、あなたがあるといえばそうなのだろう。変化の幻想世界において完全なる答えというものは存在しない。真理かそうでないかの見分け方として例を述べよう。

そこに自我がいるかどうか。
現れたり消えたりするものかどうか。
変化するものかしないものか。
完全か未完のものか。
全愛だけを、完全だけを観続けているか。

そのようにしながら、あなたの理解が深まったとき、最後には知識や教えも棄て去り、そこにソレは在る。意識、存在、至福。実在の全愛なる真我だ。何もする必要もない完全さの中にいたことに気づく。何もせずともそれはあなたを自動でゴールまで運んでくれる。事実、あなたは行為者でも思考者でもないのだから。最初からあなたは観照者である神の子である。

実在。
在る。

それ以外はすべて幻想である。

最後には在るという言葉も消えゆく。
そのとき、真理は”あなた”だ。

汝自身を知れ。
汝偽物の自身を知れ。
さすれば本物は自ずと現れる。

すべてよし。
すべてよし。

にこやかに。
にこやかに。

全愛に包まれたまま。
全愛を包んだまま。
拈華微笑。




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マスター・ハゲ
愛ゆえに愛が愛に愛という光を・・。 あなたにいつも拈華微笑💖