12年前の3.11
今日も読んで下さりありがとうございます。
南海トラフ地震に備えて、家での備蓄や防災に取り組んでいます。
地味ーに取り組み、12年となりました。
今回は、12年前の3.11当日のお話をしてみます。
「しまった!」と思った。
震災の起きた当日、確か金曜日だったと思う。
私は中国地方に住んでいて、地震の影響はない地域にいました。
その日は職場にいて、当たり前ながら職場でTVはつけないので、
黙々と事務作業をしてました。
16時に書類を提出したら、もう気楽だなー、やっと週末だ!
よし、今日はちょっといいビールでも飲むかな!
と、ビールの銘柄選びが頭の中で始まっている頃でした。
プルルルル!プルルル!
電話が鳴り、瞬殺で出ると外出先からの社長からでした。
「テレビみて!テレビ!北の方でえらいことになってる!地震!」
それだけ言って(叫んで)、電話は切れた。
北、どこ?
もうちょっっとちゃんと伝えてやー、と
TVをつけたら、なんか血の気の引く思いがした。
これはほんとに日本か?
津波の映像が繰り返し流れ、アナウンサーは緊迫した声でニュースを伝えている。画面はテロップであふれて、尋常じゃない。
そのことに気が付かず、のんびり仕事してる自分にも焦りを感じた。
そして、じわじわ心の底から戦慄したことが、
「しまった!うち、ぜんぜん備蓄とかしてない・・。ヤバい・・。
水も全然ない!」
心当たりは、生協の防災フェアで買った乾パンのみ。
それもものすごく堅いやつ。歯の折れそうなやつ。
焦って焦って・・、とにかくまず、水を買った
焦って焦って、仕事が終わると最初の自販機で水を爆買いした・・。
褒められた行為ではないし、
しかも中国地方なんだよって今ではツッコミ入れたいのですが、
あの時は「買わなくては」という思考でいっぱいでした。
自販機の「いろはす」のボタンを連打して買って、カバンからはみ出て、
手持ちができなくなってやっとストップ。
ちょっぴり落ち着いた・・・。
道ゆく人が「なんでそんなに?」という視線を向けていった。
すごく、気が動転してたと思う・・。
うちには備蓄はなかった
帰宅してまず一番に、タンスの引き出しをあけてみた。
缶詰1個と堅パン。
魚の缶詰、サバの味噌煮。しかも賞味期限きれてる・・。
堅パン。北九州の会社の。その名のとおり、堅い堅い大きなカンパン。
水だけ確保したけど、うちはアウトかも。
防災フェアとかで、時々保存食品とかは買っていたけど、
買ったきり、
しかも時々食べてしまったというのがありありとわかる状況でした。
とりあえず、買い出しへ。
そこには、いつもと変わらない日常があり、
フツーにレジ打ちしていて、食品も水も豊富にあった。
落差が大きくておかしな気分だった。
その日の夜
その日、母から電話があり、尋常じゃない被害の話になった。
土地関係や行政の書類も、役所が壊滅していたらどういう扱いになるんだろう、想像がつかない、阪神淡路の規模と大違いだ、といっていた。
壊滅、という言葉が耳に残った。
TVでは、言葉を選んでそういった表現はなかったから。
そんなに酷いのか・・。
自分の周りの人が、叫ぶように話してたり興奮しているとそれが伝染するんだな、と心から思った。
その後
その後、私の地域でも、だんだん一部の商品が品薄になっていった。
オムツ、おしりふき、テッシュ、トイレットペーパー、ウェットティッシュ。紙系のもの。
「お一人様2個まで」と規制されたけれど、でも、品切れはなかった。
それが4月中までは続いたと思う。
東京の乳児のいる友達が、「いろいろ手に入りにくい」と言っていたので、
買えるものをダンボールに詰めて送ったらとても喜んでくれた。
でも、こういうのが混乱を大きくするのかもしれないと思いつつ。
TVとつけると、延々流れる公共広告機構のCMに嫌気がさしながら、
きちんとした情報が入ってこないことに少し不安を抱えつつ、
朝ドラ「てっぱん」のラストも気になりつつ、(すみません)
大きく日常を奪われることはなかった。
けれど、備蓄がないことで、
あの日ほど「危険」を感じたことはない。
水と食料がないと、暮らしのコントロールができなくなってしまう。
遠方にいながら、「命を脅かされた」と思う。
私にとっての3.11
私にとっての3.11は、
「何も備えていないことを 思い知った日」でした・・・。
そして必ず、個人でできることは行動しよう、と思った日でした。
最後になりましたが、犠牲になった方に、心から哀悼の祈りを捧げたいと思います。
被災された方が、絞り出すように語ってくれた言葉から、
学び、行動に移して行きたいと思っています。
一個人のほんとに地味な行動ですが、今後も長く防災・備蓄に取り組んでゆきます。まぁ、試行錯誤ですが。。
語ってくれた言葉は、ちゃんと伝わってます。