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『人間の建設』岡潔×小林秀雄~Part1~

日本数学史上最大の数学者である岡潔(1901-1978)と、日本語による近代批評の表現を確立した小林秀雄(1902-1983)。二人の「知の巨人」が対談した『人間の建設』(新潮文庫)を読了したので、その一部をPart 1として紹介する。
尚、私個人の感想も述べているが、あくまで私個人の読解による感想であり、上記のお二人が主張したかった意味と異なる可能性があることを先に述べておきます。

人間の建設』(新潮文庫)

人間関係の分かり合えなさの本質


人間関係において、頭では理解し合えているのに、心で理解し合えないという現象はよく起きると思います。それは、人間というものが「知的」には理解し合えていても、「感情」でお互いが納得し合えていないからだ、ということをこの本の対談で私自身が学んだ点です。

以下『人間の建設』の岡潔と小林秀雄の対談の一部を引用します。

岡潔
数学は知性の世界にだけ存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。
数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとは言えないということがはじめてわかったのです。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとはおもえませんね。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。感情の満足が別個にいるのです。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしい。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
感情とは、心というようなものです。知ではなく意ではない。だいぶん広いです。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
知性には感情を説得する力がない。知や意によって感情を強制できない。知や意思はいかに説いたって情は納得しない。

『人間の建設』(新潮文庫) 

小林秀雄
つまり心というのは、私らがこうやってしゃべっている言葉のもとですな。そこから言葉というものはできてきたわけです。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄
ベルグソンの、時間についての考えの根底はあなたのおっしゃる感情にあるのです。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
私もそう思います。時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄
そういうふうにベルグソンは考えていたわけですね。それで、どうしてアインシュタインと衝突したかというと、ベルグソンはもともと哲学畑の人ではないのです。
科学の仕事を非常に尊重していた人です。形而上学と科学との関係という問題は、彼の念頭を去ったことはないのです。
だから、ベルグソンは、アインシュタインの一般相対性理論を十分に認めている。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄
ベルグソンとアインシュタインの衝突は、感情の問題なのです。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
携わっている学者たちの感情がそれに同感する必要があるということを自覚すると、すべてが良くなると思います。
すべてのことが、人本然の情緒というものの同意なしには存在し得ないということを認めなくてはなりません。

『人間の建設』(新潮文庫)

論理ではなく「感情」に訴えかける方が上手くいく


ここからは、私個人の感想を述べます。
人間関係において、知的には論理的に正しい情報をもっていて、「知」でいくら他者を説いても、他者は「知」では理解していても「感情」で納得しないということが非常によく起きていると私は思います。これは、ベルグソンとアインシュタインの衝突と全く同じだと感じました。

この「知」は「情」を説得する力がない、という岡潔が述べる真理は他でも応用できるので意識して活用した方が得だと思いました。
たとえば、なぜ論理的に虐待サバイバーを支援しないと、子どもの児童虐待がなくならないと、いくら「知」で説いても世間は「感情」で納得してくれないわけです。

それよりも、幼くて可愛い子どもが虐待されることを救済するだけの方が「論理」よりも世間は「感情」で納得している。
「知」では、大人を支援した方が、子ども達が救われると理解できている世間も、子どもが悲劇になることは可哀想という「感情」がわくけれど、大人が悲劇になっても可哀想という感情がわきにくい。むしろ自己責任という認識を強くもちがちになるのです。

親への支援や虐待サバイバーの支援をした方が、子どもたちが救われますよ、といくら論理で説得しても、世間は「感情」が納得していないのだと気が付きました。

このように、虐待問題に限らず、論理が破綻しているものほど、世間にむしろ広まりやすいという現象がよく起きるのは、「知」での納得よりも「感情」でより納得しているから、世間が論理が滅茶苦茶であっても、動いているという証拠だと思います。

この事実を念頭におくと、「知」より「感情」で人々を説得することを優先させる方が、納得する人(賛同する人)は増えるわけです。

さらに、『人間の建設』の岡潔と小林秀雄の対談の一部を引用します。

小林秀雄
アインシュタインは、ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったのか。おれには哲学者の時間はわからぬと、彼がこたえているのはそれだけですよ。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄が、ベルグソンをあまりに絶賛し、特に『物質と記憶』(ちくま学芸文庫)という本をとても褒めているので、注文しちゃいました。届いて読了したら、また記事に書きたいと思います。※この記事は、以下に続きます。

『物質と記憶』(ちくま学芸文庫)

小林秀雄によるベルグソンの「物質と記憶」の解説は、以下に記します(引用文献 「人間の建設」より)。

小林秀雄
これは立派なおもしろい本です。記憶というのは精神の異名なのです。物質というのは脳細胞のことです。
精神は脳機能の随伴現象だという、簡単だがどうにもならない仮説を徹底的に批判したものです。
記憶と脳はどう関係するか、ベルグソンは、それを失語症の患者から調べた。
すると、両者の関係は密接だが、決してパラレルではないということが実証できた。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
それはえらいな。医学は脳細胞によって記憶は説明できるとしか思わない。ところが、そうじゃないらしい。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄
脳というものは、たとえばオーケストラのタクトみたいなもなだということがわかってくるのです。記憶というオーケストラは鳴っているんですが、タクトは細胞が振るのです。
失語症の臨床では、記憶自体が損なわれると考えられたのですが、ベルグソンの証明で、タクトの運動が不可能になるのです。
記憶は健全にあるのです。

『人間の建設』(新潮文庫)

小林秀雄
失語症とは、タクトという物質的障害であって、精神的障害でないのです。実証的な部分は半分で、もう半分は形而上学になるのですが、科学と形而上学がどうしても結びつかないと、全体的な考えはないという見事な実例とも言えます。その点でも、予言的な本とも言えます。

『人間の建設』(新潮文庫)

岡潔
仏教で、本当の記憶は頭の記憶などよりはるかに大きく外へ広がっているといっていますが、そういうことだと思います。
そういうことがよくわかっていたら、奈良とか民族の文化の発祥地をもっと大事にするはずです。

『人間の建設』(新潮文庫)

心の中に自然がある

以下は、「人間の建設」ではなく、岡潔の別の書籍で読んだ内容となります。
岡潔が、「自然の中に心があるという仮定と、心の中に自然があるという仮定の2つがあるがどちらでもいいが、自分は後者だと思うようになった」と述べているのです。

これを知的に理解しようとしたら、意味不明で岡潔は、何が言いたかったのか補足説明すら残っていないのです。でも、昨日(2023年4月6日)のムツゴロウさんこと畑正憲さんの死去のニュースで、何となく、「情的」に少し理解できた気がするのです。

ムツゴロウさんは、幼い子供の頃、テレビの中でしか観たことがない人だったけど、死去すれば40歳でも私は、哀しさと懐かしさで大泣きする。

だから、ムツゴロウさんは、私の子ども時代の「心」に、健全な種を蒔いてくれて、それがいつの間にか「情緒の樹」に育っていた。そのムツゴロウさんの「情緒の樹」が私の心の中にあるから、大泣きできるのです。

心の中に、情緒という自然があることに気が付いたのです。つまり、岡潔が、心の中に自然があるという仮定を採用したという意味が何となく解る気がするのです。

外部の自然も大切だけど、「心の中に自然がある」という人間の方が、情緒が豊かな人間だと言っている気がするのです。

おそらく、岡潔が「自然」と言っている言葉は、私たちが「ネイチャー」という意味で狭義で捉えているものと違ってかなり広義だとも気が付きました。形而上学の神様のようなものを、岡潔は「自然」という言葉を用いている。だから分かりにいのだと感じました。

昔の日本人は、アニミズムでしたから、自然という食べ物が人間を生かしてくれている神様だったわけです。だから、自然=神、という意味で岡潔は使ったのかもしれません。(分かりませんが・・)

ブッダも、どの人間の中にも神様がいる、ということを晩年になって悟っていますから、岡潔が言っていることと似ている気がします。「心の中に自然がある」、つまり「心の中に神様がいる」という人間の方がいいのだと。

いくら学力があり、お金があっても心の中が草木一本も生えていない「砂漠」のような心の人も沢山いるわけです。経済(お金)や学力と、心の中の自然、この2つが両立した日本社会にしていきたいですね。


今回は、印象に残った文章の一部をピックアップして紹介しましたが、『人間の建設』(新潮文庫)の Part 2は、いずれまた書きたいと思います。『人間の建設』(新潮文庫)は以下より購入できます。

虐待の後遺症(複雑性PTSD)については、以下の書籍にまとめてあります。精神科医の和田秀樹先生との対談・監修つき。ご興味があれば、こちらも読んで頂ければ嬉しいです。


虐待の被害当事者として、社会に虐待問題がなぜ起きるのか?また、大人になって虐待の後遺症(複雑性PTSD、解離性同一性障害、愛着障害など多数の精神障害)に苦しむ当事者が多い実態を世の中に啓発していきます!活動資金として、サポートして頂ければありがたいです!!