緊急事態・・・
2020年5月6日
例の緊急事態宣言がいったん
解除された日、でしたっけね。
個人的には当時
移転オープンでのドタバタと
なんとも表し難い不安感が
今となっては…と
懐かしむ余裕を持てた事に
しみじみと幸せを感じます。
そして今日は
2024年5月6日
間もなくGWが終わりを告げようとしてますね
帰省移動などの方は
最後までお気をつけて。
私を含む仕事の人はお疲れ様でした!!
ゆっくり休めますように。
カレンダー上では明日から始まる
平常運転の日常が
穏やかに平和であるといいなと思い
以前 別ブログで書いた記事を
改めて再編して
真面目なやつ書いてみました。
今、目の前にある
当たり前のなんでもない
いつもの風景が
言葉を失うほど
激しく悲惨な光景に
とって変わることだけを
『災害』や『緊急事態』というのでは決してないと思う 。
ヒトと関わる事が欠かせない私の仕事、
初めましてでも
ある程度深く探らなければ
見えてこない 他人の望みと欲。
本音をどうやって聞き出すか、
感じ取るかも
しれっとやってるけど美容師にとってはとっても大事な部分。
相手を大事に思っていれば、って話だけどね。
ところで
もし"あれ"が計画通りで
もし"これ"が狙いなら
本当に気がつかなきゃならない事だとしたら
それはもうとっくに始まっているはずだ
関係ある無しに関わらず
色んな事が起きて
色んな事が変わって
色んな事が始まって
色んな事が消えてった
そして
関係性は 表面的に
表面的でも 複雑に
多くは望まずともそれを選ぶから
常識はいつの間にか
ゆっくりはっきり変わってゆく
まるで”アハ体験”のように
それなのに
「本音を言えるところが無い」
などとあらゆるところで議論するシーンを
むしろよく目にするようになったことは不思議だし面白いところだ
(いや本音では当然だと思う)
本音を言わないように口をつぐみ
本音を聞かないように目を背け
それでも
誰かに自分のことをわかって欲しくて
何が起きてるか知りたくて
スマホを手から離せない人が増えたんじゃないか
そんな日々、長い年月
ヒトを眺めて思うこと
”平時の日常”でもここ日本で
『緊急事態』は起きてやしないだろうか?
会ったこと有る無しにかかわらず
関係性が仕事やプライベートに
かかわらず
好きか嫌いかとか どうでもよくて
ヒトが
(人以外も)
「おかしい、助けて」
と叫んだとしても
「助けて」を言えずに
へたり込んでいたとしても
力なく叫ぶことすらできず
倒れていたとしても
"あれ?どうしたんだろ?
"なんか違う、なんかおかしい"
そんな違和感を抱いても
「どうしました?」と声をかけるのを躊躇せざるを得ない空気は
一体なんだ?
(かけるけどね)
(実際他人の為に救急車を数回呼んだことがあるけどカメラを笑いながら向ける"普通に見える人"の多さに苛立ちとショックを受けたことを思い出す)
”異変のサイン”に
気がついても見て見ぬふりか
気が付かないのか
もう 何も
気が付けなくなったのか
または それすら ネタなのか
ところで
他人に声をかけること
先に笑顔で迎えることは
仕事で毎日やっててもまだ"慣れ"たが緊張しない日は無い。
その人とそのシーンを迎えるのは
いつも必ず「初めて」だからだ。
だからこそ
誰かに声をかけることは とても 勇気がいることだとよくわかる
勇気は
実は誰もが持っているはずで
でもその勇気はどうやって使うかは
たぶん 結構きっかけがないと
意外と多分慣れていないと難しい
何かが起きても
まずは周りを 見渡し様子を伺い
自分の気持ちや意見にふたして
気が付かないフリやり過ごすことを選ぶのは
一番カシコイ のかもしれないし
それに慣れる方が楽だろう
関係ないから、と
声をかけることもなく
気遣うこともなく
見守るでもなく
ただ通り過ぎていくことが
普通のこと になるなんて
普通って
一体 なんなのだろうかと
QOL だの
ウェルビーイング だのと
横文字並べて きれいごとかよ
本質のとこ どうなってんのよ
と独り言を言うのも
虚しくなるような無意味な光景に
ため息が出てしまうのも
きっと私だけでは無いはずだと信じてる。
では、
”他人事” って
いつも いつまでも
他人だけに起こることなのだろうか?
匿名で
正義 または被害者を装い
笑顔で指さし
面白おかしく
興味を引くように
都合のいいとこだけを切り取って
加担すること
関係もないことに無責任な意見や判断をし
なんとなくでその波に乗ること
その日常に
なんの意味があるのだろう
意味なんて、
求めてやしないかもしれないけれど
されたらきっと、嫌なのに
されたらきっと、悲しいのに
思考停止
するかしないかは選べたはず
もちろん いつでも誰だって。
ゴシップは娯楽なのだろうか
正義とか悪とか なんなのか
正しいとか正しくないとか、
その感情は脅威にはなりえないのか
その脅威は いったい誰が作るのか
どうして 知ろうとしないのだろう
どうして 自分で考えないんだろう
どうして 聞いてやらないのだろう
どうして 信じてやれないのだろう
どうして 自分で判断しないのだろう
どうして 待ってやれないのだろう
どうして 決めつけるのだろう
どうして 勝手に話を進めるのだろう
どうして 答えは一つだと思うのだろう
どうして 想像出来ないのだろう
もしも自分が
その立場になった時に
感じるはずの、そのことを
どうして
不安を生む方向に進んでいるその歩みをやめないのだろう
だからこそ 人間なのか、
とも思うけど
緊急事態は
パンデミックや戦争だけじゃ
全然ないはずだ
日常に起こる緊急時にこそ
"ヒト" は試されるのではないかと思う。
あらゆる緊急時にむけては
備えることしかできないし
予測が完璧に出来ないから
準備が必要だ
緊急時にこそ 想像力が大事であって
それには心をなくさぬよう
平時の日頃から培っていきたいと
人生でのいろんなシーンからそう思うようになった。
普段はただの
景色や背景でしかない
いつものその光景や
何気なく視界に入る
そこにあるはずの
知らない誰かと自分の笑顔が
ただ保たれることの素晴らしさを
忘れぬように。
自分さえ良ければそれで良い
煩わしいから関わりたくない
そんな社会に未来はあるか
その”煩わしい”のは
相手だけの問題だろうか
自分には関係ない
それは本当に関係ないのだろうか
便利できれいに整った空間は
見た事もない 名前も知らない
話したこともない
誰かのおかげだって
本当はわかってるはず
誰かが”見えない血”を流すことって
誰かが”聞こえない”声を叫ぶことって
誰もが聞こえるのに耳を塞ぐことって
そんな悲しい現実って
緊急時とは言わないのだろうか?
それが"当たり前"だと
"よくあること"だと、
見て見ぬ振りや
やり過ごすこと
その裏で何かが行われていることや
何かが動いていることを
知ることもできずに
知ろうともせずに平然と過ごしてしまうこと
目の前の事に追われているだけの日々
と喪失感
それが”普通”になってしまった時
それは緊急事態というより
異常事態なんじゃないかな。
当たり前は
あたりまえ じゃない
奇跡は
きせき だから起こるんじゃない
ヒトがずっと作ってきてくれたもの
社会も体も心も
循環とバランスが大事ですよね
簡単で便利は
思考を鈍らせ感覚すらも
知らぬ間に衰えさせるし
詰め込みすぎると袋じゃなくたってパンクする
だって令和になったからって
人間ていうものはそんな大きく変わってないと思うんだ。
でも「時代だから」と
真剣に向き合っていくのは
面倒だからと
忙しいからと避けますか?
私はなるべく穏やかに
いい日がたくさんになるように
明日からまた頑張ろうと思います。
最後までお付き合いくださり
ありがとうございました!
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