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救国の英雄・岳飛にみる「信念と勇気が無駄にならない組織運営」に必要なものとは

組織のために生き、組織によって潰された救国の英雄・岳飛の葛藤

(要約)時は十二世紀。宋(北宋)は北方の異民族国家である金に国土の半分を奪われ最大の危機を迎えていた。先帝と皇帝が揃って金へ連行された〝靖康の変〟を機に、江南へ追われた皇帝の弟・高宗が即位し南宋を興す。だが戦局は好転せず領民は家をや家族、生きる望みを失っていく。そんな人々を守り、金に奪われた故郷を取り戻したい一心で、百戦錬磨の智将・岳飛が立ち上がる。背中に刻まれた〝尽忠報国〟の精神で、無敵の岳家軍を率いた岳飛は金軍を次々と圧倒し、領民に勇気と希望をもたらす。だが、宋と金の双方に通じる奸臣・秦檜は、敵国金との講和において、邪魔な存在である岳飛を陥れようとする。人を思い、国に報い、困難に立ち向かう岳飛は、金と奸臣それぞれとの戦いを迫られる。

中国ドラマ「岳飛伝-THE LAST HERO」より一部引用

岳飛は関羽と並ぶほどの英雄として、今もなお中国では圧倒的な人気を誇る武将です。国家滅亡の危機を救うために強力な軍団を率いて異民族の侵略に対して果敢に奮闘しますが、弱腰で敵国との不利な条件で講和を望む宰相の謀略により非業の死を迎えてしまいます。岳飛は勧善懲悪の英雄の象徴のような存在なのでしょう。人気があるのも頷けます。

能力、実績があり、国家の行く末を人一倍案じる文字通り救国の英雄がなぜ非業の死を迎えなければならなかったのか。岳飛の物語は、組織で生きる人たちにとって共感や憤りを感じさせます。そして、組織にとって有益な人材をいかにして最大限活かすかという課題を教訓として示しているようにも思います。

南宋の英雄、岳飛/忠義の象徴

岳飛(1103–1142)は、南宋時代における中国の軍事的英雄であり、その名は忠義と愛国心の象徴として知られています。長い中国の歴史の中でも三国志の関羽と並ぶ武人の鑑と称えられ、岳飛の物語は、国家の存続と個人の忠誠心が交錯する中世中国の劇的な歴史を映し出していると言われています。

岳飛の出自と南宋王朝
岳飛は貧しい農家に生まれながらも、幼少期から武芸と学問に励む文武両道の少年で、春秋時代の興亡をまとめた歴史書「春秋左氏伝」や「孫子」、「呉子」などの兵法書を愛読していたと言われ、武の面でも生まれもった恵まれた体格を活かし、特に弓術に優れていました。

当時の宋王朝(北宋)は創業以来、一貫して文治に注力し、外敵への備えを怠った結果、異民族の侵攻に悩ませられる軍事力しかありませんでした。

1126年、北方の異民族である金という国に攻め込まれ、首都である開封の地を奪われ、あろうことか先代皇帝と現職の皇帝の二人が捕虜として拉致される事態に陥り、宋王朝はここで一旦断絶してしまいます。その後、現職皇帝欽宗の弟である高宗が南に逃れて宋王朝(南宋)を復興します。

とはいえ、高宗の興した南宋も軍事力の面ではきわめて弱体な王朝で、相次ぐ金の侵攻をかろうじてしのぎながら、一方では金との講和の道を模索する状況で、奪われた首都開封の地を取り戻す気力もなく、南下し、金の侵攻に怯えるだけの皇帝でした。

「尽忠報国」の精神
岳飛の人生を語るうえで欠かせないのが、「尽忠報国」(忠誠を尽くし国に報いる)という信念です。この言葉は、親思いの岳飛が義勇軍に参加すべきかどうか悩んでいる時に、岳飛の母親が彼の背中に彫ったと伝えられ、岳飛の信念そのものを象徴しており、岳飛の忠義心は、個人的な野心や欲望を超えて国家を守るためのものであり、これが彼を伝説的な英雄へと押し上げる原動力となったと伝えられています。

岳飛は遡ること1123年、20歳の時に義勇軍に入隊し、若くしてめきめきと頭角を現し、下級将校になります。1126年、金の侵攻により崩壊した北宋王朝の後を継いで興された南宋王朝のもとで、各地を転戦し、次第に政府軍の中核的な存在にまで成長していきます。

その間も、金からの侵攻が止むことはありません。岳飛の率いる軍はそれを防ぎながら、時に領地を奪還する快進撃を見せ、岳飛は皇帝高宗に首都を奪還するためにも皇帝自ら北上し、金と戦って欲しいと何度も何度も上書を送っていましたが、下級将校の分際で上書を送ってくるなど越権行為だとして高宗は岳飛を解職してしまいます。

一大勢力となった岳飛の岳家軍
居場所を失った岳飛は、各地の戦場を傭兵のように転戦します。相変わらず金の侵攻に怯え、逃げ続ける皇帝。いつしか朝廷との連絡すら途絶え、孤立した状態で金と戦い続け、戦果を挙げる岳飛でしたが、鍛え上げられた岳飛の軍は民衆の支持を集め、戦乱のどさくさにまぎれて各地で跋扈する反乱分子を鎮圧して傘下に吸収し、岳飛の率いる軍はその数4万にものぼる一大勢力となり、この頃から岳家軍と呼ばれるようになります。

岳飛の率いる岳家軍は、その規律の厳しさと戦場での卓越した戦術で名高く、「撼山易、撼岳家軍難」(山を動かすのは容易だが、岳家軍を動かすのは難しい)と敵に言わしめるほどでした。

敵国・金のしたたかさと逃げ回る皇帝、岳飛の奮闘
金は宋王朝を南に追い払って、広大な黄河流域を支配下に置くようになりますが、なんとしても宋王朝を武力で屈服させたいと考えるものの、いまひとつ決定打に欠けると感じており、各地で異民族に対する抵抗運動が起きている状況も鑑みて、2つの対応策を講じます。

ひとつは、南宋から降ってきた人物を利用して、斉という国を傀儡政権を打ち立て、異民族への抵抗運動の矛先をかわすというもの。もうひとつは、捕虜として抑留していた南宋の秦檜(そうかい)に言い含めて帰国させ、講和を実現させるというものでした。

金を恐れて逃げ回るばかりの皇帝高宗は金と講和し、ともかく縮小した南の領土を安泰にしさえすればいいと考えていたので、帰国した秦檜をさっそく宰相に登用します。しかし、この時の王朝内では反対論が強く、1年後に秦檜を解職せざるを得ませんでした。

その後6年の時を経て、高宗は再び秦檜を宰相に起用し、いよいよ金との講和の実現にあたる状況を整えてきましたが、1133年、またしても金は傀儡政権の斉と連合して大規模な侵攻をしてきます。さすがに講和派の高宗もこうまで攻め込めれては王朝が滅亡してしまうと考え、反撃の許可を上申する岳飛に金への抗戦を許可します。

結果は、岳家軍の大勝利に終わり、その報告を受けた高宗は「岳家軍がこれほどまで強いとは思ってもみなかった」といまさらながらその強さを理解し、喜んだそうです。けれども、岳飛が勢いに乗って今度はこちらから金の領地に攻め入りたいと願い出ても、金を刺激してこれまで以上の武力衝突に発展することを恐れて、出撃を許可することはなく、岳飛は撤退を余儀なくされます。

その年の暮れ、金は雪辱を期して再び南宋に侵攻しますが、救援の命を受けた岳飛は再び金を撃退します。その後も国内の農民反乱軍の鎮圧や金の領地の攻略を試みますが、朝廷からの支援を受けられないないために撤退します。

敵国の傀儡である宰相秦檜が暗躍
度重ねる戦に明け暮れ、遠征から戻った岳飛は高宗に金の打倒を再度上申しますが、相変わらず出撃の許可を得ることはできません。そのうちに、敵国金側の方針変更が生じ、傀儡政権であった斉国を廃して再び南宋に講和を申し入れてきました。

岳飛は敵国の状況を察し、いまこそ旧首都を奪還する絶好の機会と考えて、皇帝に決断を促すも、高宗はまたも講和派で敵国と内通している秦檜を宰相に起用して講和交渉に当たらせることにしました。

金側が示す講和条件は、黄河以南の土地は南宋に返還するが、それ以北の地は依然として金の占領下に置くという南宋にとっては屈辱的な条件であったため、朝廷内でも反対論が多数を占めるも、皇帝の支持を取りつけた秦檜は反対派を徹底的に弾圧し、講和を推進します。

ここで岳飛は、「金の言うことなど信用に値しない。必ずこの講和は後世で笑いものにされる」と秦檜を批判し、これが秦檜の怒りを買うことに繋がります。

結果として、講和を結んだものの、岳飛が予想していた通り1年を過ぎると金は講和を一方的に破棄して、再び南宋に大規模な侵攻に乗り出し、これに対抗するため皇帝高宗はやむなく岳飛に出撃を命じます。

岳飛はその期待に応えて、金軍に壊滅的な打撃を与え、旧都の奪回、金の本拠地を攻め落とす可能性すら見えてきたものの、またもや皇帝から進撃中止の命令が下ります。岳飛は、敵国打倒に費やした10年の努力が一瞬にして消えたと嘆きます。そして再び金から講和の申し出がありました。

戦地から帰還した岳飛は朝廷内での要職に登用されます。しかし、それは秦檜の謀略で、講和に邪魔な存在である岳飛に名ばかりの要職を与えて、岳家軍の指揮権を取り上げその自由を奪うためでした。

その後、金から秦檜宛に「岳飛という脅威を排除しない限り、講和を結ぶことはできない」という内容の書簡が届きます。講和を進めるためには岳飛を殺さなければならないと考えた秦檜は謀反の罪をでっち上げて岳飛を投獄します。

この後、金との講和が成立しますが、その内容は①金の定める一方的な境界を認めるもの②南宋は金に対して毎年多額の朝貢をすること③金に対して臣と称すること、といった極めて屈辱的な内容であるにも関わらず皇帝から全権委任を受けている秦檜は受諾します。

未だ岳飛は投獄されたままです。岳飛の処置に思い悩む秦檜の姿を見た妻の王氏が意見します。「あなたは本当にグズですね。せっかく捕らえた虎を放せばどうなるでしょうか」その言葉に秦檜は決断し、皇帝の許可を得て岳飛を処刑してしまいます。岳飛とともに投獄されていた息子の岳雲も処刑し、一族は財産没収のうえ流刑に処されました。

かくして、「尽忠報国」という信念を持ち、国のために尽くした有能な武将は非業の死を迎えることになってしまいましたが、岳飛の死後、彼の無実は明らかになり、名誉が回復され、多くの民衆が彼の死を悼み、「忠義の士」として彼を称える伝説がいつしか広まり始めました。

中国には岳飛が祀られている廟(杭州の岳王廟)があり、そこに秦檜夫婦の像が跪いていて、岳飛を謀略で死に追いやった人間として、900年近く経った今でも彼らは歴史的な「奸臣」(裏切り者)として非難され続けています。(秦檜の妻も非難されているのは岳飛の処刑を秦檜に促したからです)

この像は鋳鉄で作られているのですが、昔から多くの人が岳飛への忠義を思い起こしながら、秦檜夫妻の像に向かって唾を吐いたり、罵ったりして、中には石を投げる人もいて、かなり痛烈な批判を受けてるのがわかります。この像はあまりに手荒な扱いをされるため宋の時代から数えて6回作り直したそうです。

現代における岳飛の物語の意味
岳飛は、ただの軍事的英雄ではないでしょう。岳飛の生涯は、組織に対する忠義や奉仕という価値観を象徴していて、彼の物語は、組織の利益と個人の信念が衝突する際の倫理的な葛藤について考えさせられる深いテーマではないかと思います。

歴史は後から見ると「こうすべきだったのでは」と言いたくなるものですが、その当時の状況や立場を考えると、どの判断も一筋縄ではいかないものばかりです。

岳飛は愛国心と武勇で「金に抗うべき」と信じて主戦を唱えていましたが、皇帝高宗や宰相秦檜は現実的に国力や内部の安定を考えて講和を選びたかったのは国力が限られている状態で強敵と戦争するのは下手をすれば国全体が滅びるリスクもあるので、講和も一つの合理的な選択だったのかもしれません。

国民にとって英雄の存在は希望そのものであり、特に外敵に支配されている状況では、勝利を夢見る気持ちはなおさら強いはずで、岳飛のような英雄が現れると、国民はその存在に自分たちの誇りや未来への希望を託したのだと想像されます。

金に支配されていた南宋の人々にとって、岳飛が勝ち続ける姿は、単なる戦争での勝利だけではなく、「自分たちもまだ誇りを持てるんだ」という象徴だったはずですから、その気持ちを裏切られるように岳飛が処刑されたのは、民衆にとって耐え難い失望だったでしょう。

けれど、岳飛が生きた時代の現実は厳しく、南宋はすでに金に押されており、国力も政治的な安定も十分ではなかったので、戦争に勝つことができるかどうかの見極めは本当に難しいものだったに違いないです。

戦うことで得られるものと失うものを天秤にかけて、講和を選んだのは当時のトップたちなりの現実的な判断だったのでしょうけれど、それでも国民の期待や士気を考えれば、その選択の代償も大きかったといえます。

戦うべきだったのか、講和は下策だったのか。歴史を振り返ると、どちらも正解とは言えない部分があって、結果として岳飛が犠牲になったのは本当に胸が痛みますが、戦うべき時を見極める力と、それを支える国力をどう整えるか。まさに政治と軍事の難題です。

岳飛は卓越した軍事指揮官で、「強兵」の象徴ではあったけれど、「富国」の視点までカバーできたかどうかは疑問として残ります。軍事の天才がそのまま政治の天才でもあるとは限らないし、それが組織や国の運営の難しさでもあるからです。

惜しむらくは高宗や秦檜が岳飛の意見に耳を傾けて、政治と軍事のバランスをうまく取れたら、南宋はもっと違う未来を描けたかもしれません。けれど、実際には彼らの間には岳飛という部下への信頼や理解が不足していて、それが悲劇を招いてしまったこの話は現代の組織やリーダーシップにも通じるものがあります。

同じ組織の中でのすれ違い

現代でも、経営陣が現場の意見を軽視してしまったり、逆に現場の優秀な人材がトップの視点や制約を理解しようとしなかったりすることで起きるすれ違いが組織のパフォーマンスを下げる原因になってしまう場合もあります。岳飛と高宗・秦檜の間のギャップも、南宋全体の成長を妨げた一因だったのかもしれません。

例えば、高宗と秦檜が岳飛の意見を聞き入れつつも和平を結んだ後、金の裏切りに備えて、国力と軍事力の増強に力を入れ、その上で、金を滅ぼす計画を立て、機を見て行動に移すという考えもまた一つの選択肢だったかもしれません。このように岳飛の軍事的才能を活かして、長期的な戦略を立てることで、再び金に対して勝利を収める可能性もあったかもしれません。

もちろん、和平を結ぶという判断も、当時の国力や国民の疲弊を考えると、ある意味では理にかなった選択だったかもしれませんが、その後の対応がもっと強固で計画的であったなら、南宋はもっと強い国になれたかもしれません。

少なくとも、どの立場においても国の平和を願う目的では一致しているのですから、救国の英雄を処断するような極端に走らず、あらゆる想定の下に柔軟な判断があればと、切ない気持ちにさせます。

岳飛の物語からは、組織のために尽くすことの喜びと悲哀、信念と勇気の大切さが伝わってきます。現代社会においても、岳飛のような忠義心と能力を持った人材を都合よく使い捨てるのではなく、十分に活かし切れる組織作りを行わないといけないのではないかと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。