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なぜ僕は、同時並行で何冊もの本をチビチビ読むのか/「併読」というささやかな抵抗

最近、noteで2つ連続で読書について書いてきた。
せっかくだから、この流れで3部作にしようと思う。
(これを書き終えたら、ようやく次の書籍の執筆に入る。この読書3部作は、僕のちょっとした現実逃避なのだ…。)

「積読」、「運読」ときて、3つ目は「併読」についてだ。

僕の読書は基本的に「併読」というスタイルだ。
併読というのは、1冊だけにフォーカスして読む、ということではなく、何冊も同時並行で読み進める読書方法だ。

試しに、今同時に何冊読んでいるのか、ラインナップしてみた。
それがこちらだ。

数えたら16冊あった

ラインナップをご覧いただければわかる通り、大きなテーマがあるわけではない。
仏教もアメリカも清朝もあれば、股関節もある。基本的にランダムだ。
そしてこれらの本を、順番に等しく読むわけではない。その時の気持ちによって、何となくどれを読むのかを決めている。
そして、チビチビと区切りに良いところまで読み終えたら、また気の向くままに別の本に移る、という感じだ。
結果的に、1冊を完読するまでの時間はとても長くかかる。このリストの中だと、『関係としての自己』は3ヶ月くらい読んでいるし、『自由の命運』は途中放置したこともあり、上巻からカウントして3年くらい読み続けていると思う。

併読は珍しいものではないと思うが、併読をしない人にとっては合理的ではないと思われるようだ。
典型的な質問が、

「そんなに同時に読んで、何が何だかわからなくならないの?」

というものだ。

もちろんちょっと忘れることもあるが、何が何だかわからなくなる、ということはない。大抵ちょっと前を読み返せば、何が書いてあったかを思い出して、すぐにキャッチアップできる。

しかし、1冊に集中したい人にとっては、「いちいちそんな面倒なことをやらずに完読しちゃえば良いじゃん。不思議〜」という感想にしかならないのだろう。

だが、僕は絶対にそうはならない。
どれだけすぐに読まなきゃいけない本があったとしても、絶対に併読スタイルを崩すことはない。

なぜなんだろう?
どんなこだわりがそこにあるのだろうか?

正直、自分でもなぜ併読にこだわるのかよくわかっていなかったが、noteに書くために自問してみたところ、そのクリアな答えが見つかった。

僕が併読にこだわる理由は、「相対化」であり「解毒」という効果を期待しているからなのだ。

どういうことか。

1つの本を作るために、著者は多くのリサーチをし、そのリサーチ結果を取捨選択しながら、ロジックを組み立てるということをする。
ある意味で、その筆者の血と汗の結晶であり、著者の人生の断片でもある。
だからこそ、本にはすごい吸引力がある。
ページを捲るたびに、その思想に引き込まれ、世の中をその著者の視点で見ている気持ちにさえなる時もある。

しかし、僕は、特定の人の思想や物の見方に肩入れするのが嫌いなのだ。
とある作品や著者について絶対視したくないし、心酔するなんて論外だ。
「そういう見方もあるよね」
と、相対的に捉えておきたいのだ。

なぜならば、どんな思想であっても、所詮は限界があるからだ。
著者は著者の限られた人生の中で、とある側面を切り取っているに過ぎない。
にもかかわらず、「この人の考えていることは正しい」と思ってしまうことは危険でしかないのだ。

しかし、本というのは、多くの場合、その著者の人生を賭けた作品だ。
データとそれを繋ぎ合わせるロジック、そして時に絶妙なメタファーを使いながら、「私の考え方は正しいだろう?」という圧をかけて僕に迫ってくる。
僕はその問いに対して、思わず「はい」と言ってしまいたくなるのだ。

だからこそ、僕はその本に没入して読み続けるのではなく、息継ぎをするたびに別の本に逃げる。
その世界観から逃れて、別の世界に浸ることにより、本の主張からの逃げ道を作っておきたいのだ。

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