アイルランド:アラン島のパブ
ある年、アイルランドに一か月程滞在した。団体でアイルランドを一周し、その後ダブリンで一週間ほど滞在した。時間がたっぷりあったので、友人と一緒にアイルランドの西にあるアラン諸島のイニシュモアまで出かけた。
アラン諸島はアイルランドの西の沖にある小さな群島で、イニシュモア、イニシュマーン、イニシエの三つの島がある。アラン・セーターという縄編み模様のセーターで知られる島々、といえば編み物好きの人には親しみのある場所かもしれない、
ダブリンからは長距離バスで、アラン島までの船がでる西部の町、ゴールウェイまで向かった。
このゴールウェイは、アイルランド土産の定番の一つであるクラダー・リングの発祥の地でもある。王冠をのせたハート形を両側から手で持った形のリングで、アイルランドのアクセサリーではおなじみのデザインなのではないだろうか。ハート形は愛を、王冠は忠誠を、両手は友情を表す。婚約指輪としても用いられると聞いたことがある。町の石碑にはこの文様が刻まれていたのが印象的だった。
ゴールウェイからは赤と青の小さな船が出ており、私たちは赤い船でアラン島の中でも一番大きなイニシュモア島を目指した。その日は波が非常に荒く、デッキにいると飛ばされる危険があったので、残念ながら道中は船室で過ごさなければならなかった。
イニシュモア島に着くと、波止場近くに数件の家が建っている。B&Bの様な宿を取ろうとしていた私たちは、観光所がないか確かめてみた。しかしそれらしいものがない。その時目に飛び込んできたのがパブの看板だった。波止場のほぼ目の前にそのパブはあった。パブであれば、地元の人たちが集まっているだろうし、何か情報を貰えるかもしれない。私たちはまっすぐパブに入っていった。
パブは少し時代のかかった建物で、使い込まれたこげ茶色の木のインテリアが印象的だった。バーのカウンターは、長年使われてきたせいだろうか、濃い茶色の木がつやつやと滑らかになっていた。
カウンターで飲み物をオーダーしようとしたのだが、島の人々のアクセントは非常に強く、ゲール語の訛りなのか本当によく聞き取れない。何とかビールを注文して席についてほっとしたところ、隣にいたおじさんが話しかけてきた。「どこから来た?」「日本です」「そうか、日本は・・・・?アラン島に日本人は良く来るよ。・・・・・。」と沢山話しかけてくださった。
が、残念ながら島の訛りと酔いが回ったおじさんの英語は「日本」と言っている部分しかよく聞き取れず、会話についていくので必死だった。私たちは手元の1パイントのグラスを傾けながら叔父さんの話を聞いた。
その日パブで飲んだのは、パブのおすすめのビールで、すこし濃いめの茶色で、こっくりとした軽い苦みのある、口当たりの良い美味しいビールだった。これまでに飲んだことのない口当たりと味だった。一口飲んで、その美味しさにそれまでの緊張が一気に解け、私は叔父さんの話に懸命になって耳を傾けた。今思い起こすと、ビールのメーカーを覚えておけなかったのが非常に残念だ。
ほどなくして、おじさんは」今日はどこに泊まるんだ(ここは聞き取れた)」と聞いてくれたので、実はB&Bを探していると伝えた。途端に、おじさんは近くにいた人たちに何かを言い、周りの人たちも何かを言い始めた。
「あんたたちはラッキーだよ。今日は港近くのB&Bで空きがあるそうだ。今から電話して日本人が行くと言っとくから、安心しな」と、親切に宿の手配までしてくれた。
何とか宿にたどり着き、B&Bのご主人がゆっくり話してくれる訛りの強い英語を必死で聞き、中に招き入れてもらった。しかも、宿ではアラン島を舞台にしたドキュメンタリー映画(Man of Aran)まで見せてくれた。長距離移動の上、なかなか分からない言葉と格闘したため疲れと眠気が襲ってきて、その日は早めに部屋に入ってぐっすり眠った。
アラン島にはダン・エンガスと呼ばれる古代の遺跡や、古いケルト十字架のある墓地が沢山ある。私たちは小道にある標識を頼りに、ダン・エンガスを目指した。
島は岩石で出来ているために土がないそうだ。羊の放牧用の草を育てるために、海藻を岩の上に敷いて腐らせ、土にしているとも聞いた。実際、羊が草を食んでいるすぐそばに、黒い海藻の山がいくつも連なっていた。
島自体はあまり大きくないので、早歩きすれば一巡りするのに一時間もかからないだろう。私たちはダン・エンガスでスケッチをしたり、大きなケルト十字を写真に収めたりして、帰りのフェリーの時間を気にしつつもアラン島を満喫した。
今振り替えると、島の素朴な風景とビールの美味しさが強く記憶に残っている。あれからずいぶん時間が経ったが、あの時お世話になったおじさんや、パブにいた皆さんはどうしているだろうか。
コロナ禍でも無事にされていることを願わんばかりである。
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