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「修行ってきびしいの?」

新連載!noteの第2回は大木が務めます。

冒頭に挙げたこの質問ですが、私自身も檀信徒の皆様や友人から尋ねられたことがあります。皆様が考える「修行」とは、どんなものでしょう?


例えば、滝に打たれる、長時間お経を読む、座禅を組んで瞑想する、といったところでしょうか。一言で「修行」と申しても、色々な種類があります。仏教や神道、宗派によっても異なりますし、必須とされるものもあれば、個人の意思で自ら志願して臨むものもありますが、やはり「修行」=厳しい というイメージが根強いようです。

ここで、仏教の祖であるお釈迦様が行われた「修行」に目を向けてみましょう。
・イバラの木の枝の中に身を置いて瞑想する
・呼吸を止めた状態で瞑想する
・断食の実践(諸説ありますが2カ月間とも)   etc...

※余談ですが断食は英語で「fast」と表記し、朝食は「break fast」となります。食を断つことを「break 破る」という意味で「break fast」だそうです。


【話を戻します!】

このような「苦行」と呼ばれる修行をお釈迦様は6年間にわたって実践されました。これによりお釈迦様の体はひどく痩せ細り、立って歩くことすらまともに出来なかったそうです。

その中で、精神と身体に過度に負担をかけ、自らの生命までも脅かして修行をすることは、必ずしも「悟り」を得る事にはならないという考えに至り、「苦行」に区切りをつけられました。

お釈迦様は修行を否定された、ということではありませんので間違えないようにしましょう。

「苦しい」の対義語は「楽しい」となります。お釈迦様はその苦楽を離れた「中道(ちゅうどう)」を覚られました。

中道とは既に右と左に選択肢があって、その中間をとって中道という意味ではなく、自分にあった道、形こそが中道なのです。


例えば、ギターなどの弦楽器をイメージしてみてください。弦の太さも異なり、音の高さも違います。全て同様の強さで弦を張るのではなく、その弦に応じた調節が必要です。

弦を張りすぎてもいけませんし、反対に弦を緩めすぎてもいけない。まさに丁度良い張り方が大事です。これは私達の心の有り様に置き換えて考えることも出来ますね。



冒頭の質問について改めて考えると、確かに厳しい修行も存在します。実際にそういった経験をしなければわかり得ないこともあるのだと感じます。

しかし、「行い」を「修める」のが修行です。ということは、皆さまの普段の生活も紛れもなく「行」へと通ずるのではないでしょうか。

私達の心の有り様は日々変化します。また、体調が良い日もあればそうでない日もあるでしょう。その状況に応じて自分にとっての「中道」を見極めていくことが大事だと思います。

その1つ1つと向き合いながら過ごすことも立派な「修行」になると思います。皆さんも日々の「修行」を無駄にせずに過ごして参りましょう!

長崎県佐世保市より  大木亮慶

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