「癒しのソナタ」・・・初めての音楽会でやらかした失態とは。
『癒しのソナタ』
「夫婦で行ってきなよ。引退したら人生楽しまなきゃ、ね!」
還暦の記念にと、娘の晶紀がチケットをプレゼントしてくれた。
「新進の美人ピアニストで大人気なの。リサイタルは公演の一月前には
売り切れちゃうのよ。」
それがどれほどの値打ちを指すのか分からなかったが、私も容子も、スーツと着物で最高のおめかしをしてコンサートホールを訪れた。
1階の最後列、ステージ上のピアニストの顔は小さくてよく見えなかったが、そんな事は関係ない。
この初めての体験をプレゼントしてくれた娘の気持ちが嬉しかった。
昨夜も遠足前夜の小学生のようによく眠れなかったのだ。
この歳になって・・・というより、この歳になるまで
こんなにドキドキするような時間は、私の人生に無かったように思う。
小さな機械メーカーの工場勤めだったが、
幸いなことに、バブルもリーマンショックも関係なく仕事は続いた。
朝早くから夜遅くまで働き続け、休日はテレビを観て過ごすだけ。
そんな無趣味が服を着ているような私に、妻の容子はよく付いて来てくれた。
晶紀がクラシックのチケットなどという不釣り合いなものを送ったのも
私というより容子の為に、という意味あいが大きいだろう。
ピアノの最初の一音を聞いた時から、なぜか昔の事ばかり思い出した。
子供の頃、音楽の授業で聞いたことのある明るい曲が続いた。
今までの苦労がどこかへ消え去っていくような気がした。
聞き覚えのある三曲の後に、とても静かな曲が始まった。
知らない曲だが、心が澄んでいくような調べだ。
ところが、昨夜の寝不足のせいだろう、徐々に瞼が重くなってきた。
時々妻に肘をつつかれて現実に戻ったが、最後の曲のほとんどは夢心地の中で聴いた。
「只今より、20分間の休憩になります・・・」
場内アナウンスと共に客席が明るくなると、私は首を回して一つ伸びをする。妻の方を見て照れ隠しに笑うと、いつもと変わらぬ笑顔が帰って来た。
その時、二つ隣の席にいた若者が立ち上がり、こちらに向かって怒鳴った。
「迷惑なんだよ! 音楽が聞こえないだろうが」
責められているのは、私のようだ。
「いくら夜想曲だからって、台無しだよ!」
若者は吐き捨てるように言い残して出て行った。
容子がその後ろ姿に深々と頭を下げた。
「何があったんだ?」
「その・・・最後の曲のところで・・・」
容子は、言葉を選びながら私に説明した。
最後の曲、ソナタというそうだが・・・の後半、私はすっかり眠ってしまったらしい。
しかも、残り5分くらいは、いびきを掻いていたと言う。
「何度か起こしたんですが、最後はどうやっても、お起きにならなくて」
眠気に負けて、コンサートでいびきを掻くとは、なんという失態だ。
せっかく娘が用意してくれた心づくしを、私は妻に詫びさせる席にしてしまった。
容子の謝る姿と晶紀の笑顔が交差して思い出され、私の心に重い雲が圧し掛かって来た。
「やっぱり、場違いだったんですかねぇ私たち。コンサートなんて・・・」
その呟きが辛かった。
「確かに、場違いですな」
すぐ隣に座っていたダークスーツの紳士が立ち上がった。
『もうこれ以上は止めてくれ!』私は心の中で叫んだ。
私の願いも届かず、紳士は続けた。
「あんな『場違い』な若造の言う事なんか気にする事はありませんよ」
「え?」
「若い女の音楽家だと、おかしな連中が増えて困る。
ここは音楽会の場なのです。人前で他人を罵倒するような
礼儀を知らない若造は居るべきではない」
そう言うと紳士は、私たちに顔を向けて力強く語り掛けてきた。
「美しい音楽を聴いて眠りに陥いるのは、何も恥ずかしい事ではないのです。その音楽が聴く人の心を癒したという証しですよ。
きっとあのピアニストも自分の音楽で人が癒されたと知ったら
幸せに感じる事でしょうね。
それにこれほど後方の席では、どうしても色々なノイズが混じって聞こえます。音楽も楽器も万能ではないのです。
そもそもあの若者も、人を罵るほどピアノが聴きたいのなら、
最前列のチケットを買って聴けばよいのです。
そのためにチケットの値段に差があるのですから。
おそらくは、自分がチケットを買い忘れていたか何かでしょう。
ゲスな奴ほど、他人にきつく当たりたがるものです。
せっかくの初めての音楽会を台無しにされたのは、あなた方の方ですよね」
私は驚いて妻の方を見た。私の意図を理解した妻は首を横に振った。
「どうして私たちが初めてだと知ってらっしゃるんですか?
私たち、あなたにお話ししましたか?」
「これは失礼。いえね。お席に着かれた時に、入口で渡されたチラシの束を
一枚ずつ丁寧にご覧になっておられた、表も裏も。
私も初めてコンサートに来た時は、その紙に何か大切な事が書かれているんじゃないかと、端から端まできっちり読み込みました。
二回目以降はさっさと読み飛ばすようになってしまいましたがね。
何となく昔の私を見るみたいで懐かしく思ったのですよ」
「そうですか。確かにおっしゃる通りです。私たち、娘からチケットを貰って初めてこんな音楽会に来たんです」
「左様ですか。それは良いことだ。決してあなた方は場違いではありませんよ。音楽は万能ではありませんが、万人のものなのです」
私たちは真摯にお礼を言って、リサイタルの後半を楽しんだ。
もちろん、今度は眠ることは無かった。
自宅に帰り、貰ったチラシを整理していた容子が声を上げた。
「あなた。これ、この写真見てください」
それは、今日聞いたばかりの若い女性ピアニストが
親子でピアノの連弾をするというコンサートのチラシだった。
その中で、連弾の相手として写っているピアニストの父の写真は、
今日私の横に座って語り掛けてくれた、あの紳士の顔をしていた。
私は、そのチラシを手に取り、容子に言った。
「なあ。もう一度、ピアノを聴きに行ってみないか」
「嫌ですよ」
容子は否定した。仕方ない、あんな思いをしたんだから当然だろう。
「一度だなんて嫌ですよ。これから何度でも、そうね。
老後の趣味はコンサートを聴きに行くことです・・・なんて
オシャレで良いじゃありませんか」
その時の妻は、今まで見た中で最高の笑顔をしていた。
私の頭にあの時のソナタが静かに流れている。
おわり
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